第三十八話 狂乱
その日はあいにくの天気で朝方から雲行きが怪しく、今にも雨が降り出しそうだった。
空は黒い雲で覆われて日差しは一切地上に降りてこない。
街に住む者にとって恵みの雨である人もいるかもしれないが、世の奥様方に言わせれば洗濯物が乾かない天敵と口を尖らせることだろう。
俺は家の中でそんな外の様子を眺めていた。
今日はミライの家庭教師としての仕事がなく、テトたちに会う約束もない。
約束がなければ行ってはいけない、ということはないがこの天気である。わざわざ会いに行かなくてもいいだろう。
要するに暇を持て余していた。
誘拐事件に関しては今の所最後の詰めに入っている段階だった。準備が終わり次第、然るべき手段に移る。
ガウェインの知人たちの力を借りて強襲するらしいが、俺たちが直接その部隊に入ることはない。
自分たちの力で解決したいという気持ちはあるが、あの巨漢がいるような相手だ。
子供が出しゃばったとしても邪魔にしかならないだろう。
無論、メイジキラーと呼ばれた相手がいたことはガウェインにも伝えてある。
その上でも自分の胸板を叩いて、任せろ、と言った頼りがいのある親父のことを信じるしかないだろう。
テトたちも何か思う所はあるだろうが、最後には納得してくれていた。
ガウェインとの信頼関係も築かれているようで何よりである。
「雨、降りそうで降らないな……」
ぽつりと呟いた独り言は静けさ吸い込まれるようにして消えていく。
明かりを灯していない部屋の中は薄暗くて寂しかった。
いつも太陽のように周囲を照らしてくれるミライは外出中で、それが尚のこと暗い雰囲気を後押ししている。
雨が降る前に買い物に出ると行ってからもう一時間ぐらいだろうか。
たぶん商業区に足を運ぶだろうから、往復だけでも三十分はかかるだろう。まだまだ帰ってくる見込みはない。
俺は何もする気が起きなくて、窓際の特等席で空を見上げていた。
晴れる様子がない雲から、いつか一滴、落ちてくる瞬間を見逃さないようにぼーっとしながら。
トントン、とノックの音が部屋の中に響いたのはそんな時だった。
珍しいな、と思った。
この世界では押し売りの類も少なく新聞といった物もないから、家に訪れるのは必然的に親しい間柄の人たちということになる。
家にも稀に訪れる客人もいるが、最近は全然来ていなかった。
俺一人だと対応するのには困るが、かといって居留守を使うわけにもいかない。
しぶしぶ椅子の上から降りると、俺は玄関の扉を何の気なしに開けた。
「あれ?ガウェイン?どうしてこんな所に?」
「……」
そこにいたのはスキンヘッドと濃い髭を生やしているトレスヴュールの店主、ガウェインその人だった。
確かにミライの知人はたまにこの家に来ていたが、ガウェインが来るのは初めてではないだろうか。
俺は不思議に思って彼の顔を覗きこむが、ガウェインの顔はいやに真っ白で血色がほとんどなかった。
微動だにしないガウェインの様子に薄気味悪さを感じ始めた時、彼を押しのけるようにして金髪の男がいきなり部屋に押し入る。
俺が止める間もなくずかずかと家に上がり込んだ男は、きょろきょろと部屋の中を無遠慮に眺め回し始めた。
男の身なりは貴族街でよく見かけるような上等な仕立てをしており、腰には細長いレイピアを帯剣していた。
顔の造詣は男が嫉妬し、女は感嘆のため息を洩らすほどに整っている。
何だこの男は?ガウェインは一体どうしたんだ?
まるで状況もこの男の素性も掴めない俺は、ただ呆然としてしまっていた。
ようやく心が立ち直り、あの男はともかくガウェインに事情を聞こうと振り返ると、そこに身の毛もよだつ怪物が彼の後ろに立っていた。
能面の怪人……。
異様な雰囲気を醸し出す仮面の化け物が、全身を覆う黒いローブを纏って俺のことを見下ろしていた。
薄暗さに同化するようにローブは存在感をなくし、不気味に白い能面が浮き上がる。
動かす表情もそこにはなく、ただ薄く唇を三日月形に歪ませて嗤っていた。
スラムで出会ったあの男とは別種の威圧感が、見つめられているだけでも感じ取れる。
俺の中で最大限の警笛が鳴らされる。この能面は危険だ、と。
「おぉ、ここにミライさんが!やはり彼女が住まう場所となると、低俗な住居だろうと華やいで見えるな!」
「よかったですねぇレコン様。無事に辿り着けました」
「うむ、そうだな。そこの者が嘘をついていなければいいのだが」
「ヒヒッ。嘘をつくはずがありますまい。そうだろう?」
「…………はい」
しゃがれた能面の男の声に恐怖が湧き起こる。こいつは本当に人間なのだろうか。
一体、こいつらは何を話しているんだ。ガウェインはどうしてこいつらを連れてきたんだ。
怒涛の展開に思考が追いついてくれない。高速思考を使うという考えさえ頭に浮かばなかった。
「もう貴方には用はありませんよ。帰りなさい」
「…………」
「どうしました?早く愛娘の下に戻ってやりなさい。ヒヒヒッ」
「ッ!!」
能面の男が不気味な笑い声で会話を締めると、ガウェインは一度だけ俺のことを見てから、そして扉を静かに閉めた。
結局、俺に何も言わないままにガウェインは立ち去ってしまった。
残されたのは貴族のような美青年と、得体の知れない能面、そして俺だけだった。
けして広いとは言えない家の中で、三人もいるだけでずいぶん手狭に感じる。
近づくのも遠慮したい能面野郎より貴族の男に話しかけた方がマシだろうと思い、俺は勇気を振り絞り声を出した。
「お前たち……俺の家に何しにきた!」
「ん?君は……誰だ?」
妙にハイテンションになっていた男にしてはまともな反応が返ってきたことに、幾分かほっとする。
先ほどこの貴族風の男はミライ、と言っていたが彼女の知り合いなのだろうか。
交友関係に謎が多い彼女ではあるが、こんな知り合いもいたという、ただそれだけのことなのだろうか。
いや……それにしてはガウェインのおかしかった様子といい、異様な雰囲気をもつ能面の男といいただ事ではない。
やはりどこかがおかしい。
「俺はこの家の者だ!それよりお前こそ誰だ!」
「無礼な言い草だ、失礼極まりない。だが今は気分がいい。名を教える程度は許そう。私はレコン・ルシエイド。ルシエイド家の当主だ」
「ルシエイド家……?貴族が一体この家に何の用なんだ?」
「それは君には関係ないな」
「関係ないわけあるか!俺はこの家の者だって言ってんだろ!」
「……小姓か何かだと思っていたが、君は一体何者だ?」
「お前はミライのことを知っているようだな。俺は彼女の息子だよ!」
その瞬間、ぴたりとレコンの動きが止まった。
偉そうに高みから見下ろしていた瞳は変貌し、首だけを動かしてぎょろりとその瞳が俺を射抜く。
完成された美の中に一欠けらの異様が男の顔に存在していて、不気味さに拍車をかける。
「今、何と言った?冗談であってもそれは許されんぞ?」
「嘘など言っていない。俺はミライの息子だ」
俺は高速思考とブーストをいつでも発動できるように備える。
こいつも能面と同じくやはりどこかがおかしい。
わなわなと男の体は震え始め、禁断症状に犯された薬物中毒者のように激しさは増していく。
ぶつぶつと独り言を繰り返し始め、視線はあらぬ方向を向きだした。
「ありえないありえない何故だ何故だ何故だ。
あの男は私が事に及ぶ前に排除したそれ以外の要因も悉く未然に防いでいたはず私が彼女を守っていたはずなのにそんなことはありえない。
私が見初めた彼女が他の子を身篭ることなどあってはならないそうだそんなことは正しくない正しいのは私なのだからミライは私のものなのだから。
そうだそうとしか思えない私と彼女は運命で結ばれていたのだから純粋な彼女がすでに汚されていたなどあってはならないそれは悪だ悪だ断罪すべき悪だ」
「ヒヒヒッ。レコン様、ならばやるべきことなど決まっているはずなのでは?」
「……そうだな、ルクレス」
小声で長々と、聞き取れない早さで独り言を延々と続けていたレコンが、ルクレスと呼ばれた能面の一言で呆気なく止まった。
ゆらりと幽霊のように脱力した体を揺らして、レコンは俺に向き直す。
ただならぬ雰囲気に俺はスキルを発動し――。
「死ね」
男が帯剣していたレイピアが暗闇を切り裂く。剣を抜いた瞬間さえ捉えきれぬ早業。
闇の中で鈍い光を輝かせる凶器は寸分違わず俺の心臓を狙いに来ていた。
咄嗟に高速思考を発動したはいいが、これは…………くっ!?どうすればいい!!
周りはスローモーションのように進んでいく。無論、俺の体も例外ではない。
あの尋常じゃない速さの突きをかわせるのか?
魔術は絶対に間に合いそうにない。一言口に出す前に貫かれるだろう。
身を捻って避けようとしても、おそらく数ミリ穴が開く場所が変わるだけ。
ブーストは起動にまで若干のタイムラグが発生する。
もっと早く発動していれば……いや、こんな想定外の速さではブーストを発動したとしても回避は困難を極める。
懸命に考えつつも体を動かそうとしているが、凶刃はその数倍の速さでこちらに迫っている。
あまりに、あまりに詰んでいる。
どうしようもない。
何かの奇跡が起きれば別かもしれない。だが現実はそんな漫画のようにはいかない。
危険が迫った時に覚醒する能力なんてないし、助けに来てくれるヒーローなんていやしない。
(俺……また死ぬのか)
必死に助かる道を探している一方で、どこか冷めた風に考えている俺もいた。
考えても、考えても、光が見えてこない。何十、何百、何千回と思考は加速するが助かる手段が見当たらない。
ただただ絶望が深さを増していくだけだった。
諦めずに生きる手段を模索する自分が、重ね続ける思考に段々と殺されていく。
変わりに浮かび上がってきたのは諦めの心。
考えても、もはや仕方がない……。
これが俺の運命。また俺は唐突に殺されて死ぬのだ。
呆気のない幕切れなんて今更じゃないか。
そんな死の輪廻がまたきただけ。同じだ、前と。
だから仕方ない。諦めるしかない。
そう納得するしかないんだ。
いくらあがこうと、絶対の死を前にすればそんなことは無駄だったんだ……。
そうして、最後に、思考が死んだ。
だけど、俺は前と違うということを気づいていなかった。
俺という人間自身はそんなに変わっていないのかもしれない。
だが俺はもう孤独ではなかった。一人じゃなかった。
「ミコトッッ!!」
助けに来てくれたのはヒーローではなく、ヒロインでもなく、ずっと俺の身も心も守ってきてくれた俺の母親。
いつだって優しく見守ってくれるミライだった。