第二話 ミコトとミライの生活
自分の名前が嫌いなやつは探せばそれこそごまんといるだろうが、俺みたいに複雑な気持ちを抱いてるやつは果たして何人いるだろうか。
俺の名前はミコト。ちなみに男である。
「ミコト」
柔らかく囁くような声で俺の名前が呼ばれる。
視線を落としていた本から顔を上げ声の方に振り向くと、ベッドに佇む美女がこちらを見つめていた。
流れるような金色の髪は窓から差し込む光を浴びてキラキラと輝き、シーツの上を流れて宝石を散りばめたように彩る。
黄金色の髪をすくように間から伸びる長く尖った耳。
そして形どった顔のパーツは芸術的なまでにバランスを保ち、一枚の絵画がそこにあるかのように幻視させる。
エメラルド色の瞳は優しく細められ、慈愛という言葉はまさしくこのためにあるであろう微笑みを俺に投げかける。
彼女の名前はミライ。俺の母親だ。
「いつのまに起きてたの。隣にいないからびっくりしちゃった」
「起きたのはさっきだよ、お母さん」
お母さん。
自分で言っててその語感にどこか気恥ずかしいものはあるのだが、ミライが俺の母親であることには間違いない。
前世でも拝んだことのないような美女ではあるが、不思議と緊張や性的な興奮というものはない。
血の繋がりか、はたまた子供故なのかはわからないが。
心中そんなことを考えつつも顔には出さずに、おはよう、といつもの挨拶を交わすのだった。
どうも片親という運命にでも巻き込まれているのか、今の俺には父親がいなかった。
父親というものが自分にとってあまりいい印象がない、というか興味がわかなかったのでいなくとも別に問題はなかったのだが。
この絶世の美女とも言える自分の母親が、どうしてそんなことになったのかは気になる。
かといって聞くのも躊躇ってしまう。どんな事情があるかわからない。
俺はミライが好きだった。そんな彼女を傷つけるかもしれない。
「ミコト、大丈夫?お料理、おいしくなかった?」
「……ううん。おいしいよ」
朝食の席で考え事をしていたらミライが覗き込むようにしてこちらを見ていた。
食べかけのパンを皿の上に戻し眉を寄せて心配そうに見ているその姿に、俺は戸惑っていた。
いや、いつだって戸惑っていた。
散々な人生を送っていた経験から、俺は人を信じられなくなっていた。
ミライのことも初めは嫌いだった。
面がいいやつは大抵腹黒い。俺の中での常識だ。
だからアレコレと迷惑をかけるようにイタズラしていたのだが、彼女はいつでも優しい笑顔で俺を包んでくれていた。
記憶が戻り始めた当初は、赤ん坊なのをいいことにわざと夜泣きをして起こすのなんて当たり前。
食事が気に入らないかのように食器を手で跳ね除けたり、うろちょろ家の中をハイハイで歩き回り物を散らかしたり、抱きかかえれば嫌がる素振りを見せたり……。
数え切れない嫌がらせにもミライは嫌な顔一つせず、むしろ元気な俺の様子に嬉しそうに笑うのだった。
俺は母を知らない。父ともろくに話した記憶もない。
愛情というものも知らない。誰かに好きになってもらったこともない。
友人と呼べる相手もいなかった。孤独の中で生きていた。
そんな前世を持つ俺にミライは眩しすぎた。
未だに人間不信はなくなってはいないものの、彼女の笑顔は俺の心に一筋の光のように降り注いだ。
あぁ、これが母親なのか。
そうおぼろげながら俺は思う。
俺とミライしかいない小さな部屋での生活。人と一緒にいるというのに、こんなに穏やかな気持ちになれるなんて。
仏頂面でとてもじゃないが可愛いとは言えない赤ん坊だった俺が、いつしかミライにだけ感情を見せるようになるのにそう時間はかからなかった。
未だに接し方はどうすればいいのかわからないが。
「そう?ならいいのだけど。何かあったらちゃんと教えてね」
「うん、わかったよ。お母さん」
だから俺はそんなミライを悲しませるようなことはしたくない。
ただの興味本位で聞いていいことでもない。
だがそれとは別に父親という稼ぎ頭がいない分、生活がうまく成り立たないのではないか、という不安はあった。
出来ることなら何か手伝いたいと思う反面、赤ん坊をようやく卒業したばかりの子供に何ができるというのだろう、という思いもある。
前世という記憶をもつアドバンテージを生かそうにも、重度の引き篭もりであり障害を抱えていた俺に大した記憶は存在しない。
暗い思い出なら吐いて捨てるほどあるが、勿論そんなものは役にも立たないゴミクズだ。
(全く、人ってーのは嫌なことはいつまでも覚えてるもんだな)
まさかそれを死んでも覚えているとは、興醒めもいいところだ。バカは死んで治らない。記憶もどうやら失ったりはしないようだ。
都合のいいところだけ忘れておけばいいのにな。
……うん、嫌な思い出差っ引くとほぼ記憶喪失になっちゃうレベルだったわ。
へ、へこむ……。
「ミコト、お母さんじゃなくてママって呼んでもいいのよ?」
「……お母さん、パンおかわりしたい」
そんな俺の苦悩もなんのその、当の本人はというとニコニコしながら小首を傾げていた。
ついさっきミライの力になりたいと言ったが、ママとか呼べるはずがない。恥ずかしすぎる。見た目は歳が離れたお姉さんだぞ。
そんな俺の返事にしょんぼりと肩を落とすミライが可愛いのだが、どうしたらいいと思う?
おう、襲えって言ったヤツは後で俺と一緒に体育館の裏に行こうか。想像でも俺の母親を穢すことは許さん。
マザコン?上等だぜ。人類皆マザコンだろうが。
美人で可愛い属性も取得済みのミライではあるが、話を元に戻そうか。
とりあえず、俺たちの現状を説明する。
住まいは古めかしく味の木製の内装、外は石煉瓦の賃貸住宅である。オンボロとは言ってくれるな。
そこに俺とミライの二人住まい。部屋の広さは六畳ほどあるだろうか。それが一部屋だけ。
これまた歴史を感じるキッチン、と辛うじて言えるか疑わしい台所が備えつきである。
玄関の反対側には窓があり、三階という部屋割り上それなりの風景が垣間見える。
家具は食事を取るためのテーブルに椅子、寝るためのベッドと本棚が少々。
本棚の傍に机がもう一つ。どれも木製である。
トイレと風呂はない。共同用のトイレはこの建物の中にいくつかあるから、普段はそこを利用することになっている。
風呂に関してはそもそも風呂を焚く、という概念があまり一般的ではないみたいだ。
一般家庭にはないのが常識のようである。
体を綺麗にする時は水で湿らせた布で拭くか、カラスの行水よろしく近くの川辺でダイナミック洗浄だ。
余談だが、俺は窓から見る風景が結構好きだ。
未だに一人で外に出ることは出来ないし、以前とは違い暇をつぶせる事柄も少ない。
やれることはそれなりに少なくなるのが必然だが、その窓から見えるものはまさしくファンタジーの世界なのだ。
見下ろせば路上を歩く人々。亜人混じりの群集に、ローブや金属製の鎧といったものを着こなす者たち。
これがワクワクしないでどうするというのか!
まぁ一度、椅子を窓際に持ってきて足をぷらぷらさせご機嫌に外を眺めていたら、いつのまにか帰っていたミライに微笑んで見られて以来、密かな趣味とすることにしているが。
余談は置いといて、俺たちの住まいはそんな感じだ。
住はそれでいいとして、次に衣、つまり着るものに関してだ。
麻製のものがほとんどで品質もそれほどよくはない、と思う。ごわごわしてるし。
まぁこれは日本にいた頃と比べるというのは酷なことだろう。いかに贅沢に過ごしていたかわかるというものだ。
特に不満もない。
着替えがあまりないのもこれが普通の庶民というものだろう。
俺はともかくミライが庶民、というのは違和感がありまくる気がするが。
なんというか、ミライには他の人と違う雰囲気がある気がする。まぁ俺がエルフという種族をあまり知らないから、他のエルフもそんな感じなのかもしれないが。
ちなみに俺の耳も尖っている。エルフである。
鏡はうちの家にはなかったので水面に映して自分の顔を見た感じ、相当将来が楽しみな面構えをしていた。
女にモテようが反吐が出そうなぐらい嫌悪感があるので、イケメンになったとしてもあまり意味はなさそうだが。
トラブルに巻き込まれそうで暗澹たる気持ちである。
最後に食。
これも些か質素と言えるだろう。
食わせてもらっている立場で生意気すぎる言葉だが、前述の通り贅沢に慣らされてしまっているからそう感じ取ってしまうのだろう。
日によって違うが、大体は硬いパンとスープがセットで食卓に並ぶ。それにプラスしてオートミールやらハムやらシチューやら。
食べたことがなかったものが結構並び、これまた新鮮な気分が味わえた。
ミライはどうやら料理が上手な方らしく、色々と細かいところで気を遣い、同じ種類の料理でも時には味を変え、日々の食卓に彩りを加えていた。
全く料理の出来なかった俺は頭が下がる思いしかないのだが、いつかミライから料理を習って覚えたいと思う。
今は手元が危ないという理由でキッチンにさえ近づけさせて貰えていないが、それも年齢を重なれば手伝えるようになることだろう。