第百二十六話 深層の世界
闇が満ちる空間に足音が響いていた。
静かに歩くその音だけがここに存在し、周りに見えるものは何もない。
その歩いている人物は女性か、はたまた子供なのだろうか。
小さく、軽い足音は止まることなく続いていく。
一体どれくらいその足音は聞こえていたのだろう。
数秒か、数時間か。それとも一日?三日?一週間?
時間という概念さえ見えてこないこの空間では定まった時もない。
だがしかし、延々と続く暗闇の中でその足音だけは止まることがなかった。
闇は人を狂わせるという。
一寸先も見えない暗闇に放り込まれれば、どんなに強靭な精神の持ち主だろうと数日ももたない。
果たして、この足音の人物の精神は未だに正常なのだろうか。
滞ることなく響くその足音だけが、この人物の正常さを現しているような気がした。
それは本当に不意に、微かな灯火が遥か彼方に見え始めた。
闇の中でぽつんと浮かぶその光はあまりに眩しくて、どんなに遠い所にいようと見つけることができるだろう。
暗闇の中でその光は救いの光に見えることだろう。
しかしその足音の人物は走ることもせず、ただしっかりと足音を刻んでいく。
そうして足音の人物は……永い時を経てようやく辿り着いた。
「…………」
無言の内にその人物、彼女は足を止める。辺りを見回そうとして、彼女の黒と金がまばらな長い髪が揺れた。
光の先に見えてきた光景は美しく、それでいておぞましい。
救いの光に見えていたものは花たちだった。現実では早々に見ることがない光を放つ花。
それが広がって色とりどりに咲き、広大な花畑を作り上げている。
確かに見るものによってはそれは美しく見えるだろう。
しかし、おそらくほとんどの者がその光景を見て言いようのない不安に駆られるはずである。
何故ならば咲いている花から零れる光は、どれも心をかき乱すような色ばかりだったからだ。
鮮血のように真っ赤な花から漏れる光は、それこそ血が滴り落ちるような赤色。
暗闇の中に在れば存在さえ気付かれないような漆黒の花は、どす黒い真っ黒な光を放っている。
涙にどっぷりと浸かってしまったような青い花は、まるで悲しみそのものを身に宿しているかのようだ。
そんな花々が明滅しては辺りを照らしている。
彼女はそんな花々の間を通り抜けていく。
目指すべき場所はここであったが、まだゴールというわけではなかった。
彼女が本当に目指している場所はこの先にある。
歩く道は段々と傾斜がかかってきて、小高い丘のようになっていた。
その丘を中心とするように花たちは咲いていたのだ。
黙々と彼女は足をすすめていき、やがて辿り着く。
そこは一本の大きな木がたっている場所だった。
不可思議な場所に存在している木がただの木であるはずもなく、一言で言うならば異様な木だった。
太い幹はあるものの、葉っぱは何処にも見当たらず、寂しく枝がたくさん伸びているだけだった。
それだけならば冬の樹木によくあるような風体だったが、木の肌に刻まれている模様がまるで人の顔のように見えるのだ。
苦しく、怒りに満ちているその顔はその木を余すことなく構成していて、非常に不気味だった。
そんな木の根元で影の子供が待ち構えていた。
「よく辿り着いたね。あの闇の中でいつ心が砕け散ってもおかしくなかったのに」
おかしそうにそう言った影の子供は、楽しそうな手振りを添えながら彼女をからかう。
彼女はその言葉を聞いてあの闇の中で歩き続けてきた時を思う。
どれぐらい、という言葉が忘れ去られるような時間を歩いてきたと思う。
本来ならそんなことありえるはずもない。
しかし、ここはそれが可能となる世界だった。
ここは心の中の世界。そしてこの体の持ち主は思考を加速させることができる。
一秒が一分に、一分が何時間にも。
ならば心の主導権をとりつつあるこの影の子供ならば、この世界にいる彼女の時間を操作することも可能だろう。
「……君はあの時の影なんだね」
「正解!よくわかったね。と、言っても見た目はそこまで変わってないか。
喋り方だけはようやく流暢になってきたよ。ついさっきのことだけどね」
「わかるよ。私にもわかるようになってきたよ。貴方はどの影とも違う」
「ハッ!ぽっと出るような雑魚どもと一緒にしないで欲しいね。
でもまぁ、あんな雑魚でもそれなりの役割があったんだけれど、まぁいいか。
それよりも、あんた、大分すすんでいるみたいだね?」
影の子供は彼女の髪の毛を見ながら嗤っていた。
黒と金がまばらな彼女の髪は、どちらかというと黒い色が多くなっていた。
元は美しい金の色だったのだろうか。今では見る影もない。
「どうなろうと私は私のままだよ。私は、私の子供たちを守りたい」
決意を秘めたその瞳はあまりに眩しくて、影の子供は忌々しそうに舌打ちをしながら顔を逸らした。
彼女は……ミライは、そんな影の様子を見て思わず苦笑する。
その仕草に懐かしさを覚えてしまったから。それと同時にやっぱり、と心の中で思う。
(やっぱりこの影は私の……)
そうであるならば、聞かなければならない。この影の正体を。
「ねぇ。貴方の本当の姿は何処にあるの?」
影の子供はその言葉を聞いて機嫌を良くしたのか、顔をミライの方へと向きなおした。
嬉々としたその様子はまるで初めてのマジックを親に披露し、ネタバラシを含めて説明する子供のようだった。
「ふふふ。それは変な質問だ。だけれど正しい質問だ。
ボクの本当の姿が知りたい?ねぇ、あんたは本当に知りたいの?
知って恐ろしくならない?怖くならない?死にたくならない?その覚悟があんたにはあるのかな?」
ずい、っと地を這うような動きをしていつの間にかミライに近づいた影の子供は、息を交わすような距離で首を傾げながらそう聞いた。
辛うじて顔とわかるだけの見た目をしている影の子供に迫られたミライは、怖がることなく間髪入れずに頷いた。
「いい覚悟だね。でも必ず後悔するよ。あんたは苦しみを知ることになる。地獄を知ることになる。
それでも正気を保っていられるかな?ボクはそれが楽しみで仕方ないよ」
嗤いながら影の子供は手を伸ばして、ミライの手を掴んだ。
その瞬間、ミライはびくりと体を震わせてがくりと膝から落ちていく。
その間にも影の子供の手が離れることはない。
「ボクは呪い。あの仮面の男がミコトにかけたという呪いだ。
ミコトが経験したあらゆる苦しみを、そしてあの館で犠牲となった者たちの絶望をボクは内在している。
この手からその経験をあんたに見せてあげるよ。延々と続く闇は耐えられても、これはどうかな?」
ミライは堪えきれない涙を流しながら、震える体を残った手で強く握り締めていた。
影の子供の言葉を聞いている様子はない。
彼女の中ではどんな思いが呼び起こされているのだろうか。
ほんの数秒にも満たない時間、影の子供はミライに触れ続け、そして手を離した。
「はぁ!はぁ!はぁ!」
荒い息をたてながら地面に崩れ落ちたミライは、視点さえもおぼろげで大量の汗をかいていた。
体を支えることさえ出来ないのだろう。
両手は地面に突っ伏したままで動くことはない。
満足気にその様子を見下ろしていた影の子供は十分に眺めた後、それから木の根元へと帰っていく。
その間にもミライが回復している様子はなかった。断続的な呼吸音が響く中、影の子供は語る。
「それはほんの断片だよ。ミコトの記憶、そして館で殺された者たちの記憶。
殺された体験はどう?あんたも一度は死んでるけど、そんな痛みはなかったよね?」
「これ……が、あの時の、ものなんだね……」
「あんたもここから見ていたんだっけ?でも、見ているだけだったよね。
実際に感じた痛みも苦しみも、外側にいたあんたじゃ感じられなかったことだろう?」
ミコトの中で見ているだけだった苦しみをミライは知っている。
どうしようもなく、手をだすことも言葉をかけることもできなかった苦しみ。
しかし、それ以上にミコトは、あの惨劇の犠牲者たちは苦しみを覚えていたのだ。
「君は……呪い?」
「そう!死の体験をしていたのによく聞いていたね?
ボクは呪いさ。怒りや苦しみ、悲しみや絶望を吸い尽くして、そして肥大させていく呪い。
ミコトは今の感情を自分のものだと思っているだろうけど、それは違う。ミコトだけのものじゃない。ボクたちのものでもあるのさ。
あぁ、大丈夫。安心していいよ。ボクはあの仮面の男の仲間じゃない。むしろ敵さ。
ボクはあの男が憎くて、憎くて仕方ない。殺し続けても飽き足りないぐらい憎んでいる」
その感情だけは本物なのだろう。影の子供はその体を一層濃くして、憎しみを体現していた。
ミコトに刻まれた呪いは確かにここに存在している。
心の表層部分より更に奥、無意識の領域にあるこの場所で。
だからこそミコトは呪いの存在に気がつかない。無意識を認識することは本人にとっては不可能だからだ。
「面白いことがこれから起こるよ。ミコトはこれからどんどん強くなる。
破滅を恐れないミコトならもっと強くなれる。
ボクも協力するからね。きっともっと、もーーーっと世界を壊せるぐらい強くなれる」
「せ、かい」
「そうさ。こんな世界、壊れてしまえばいい。裏切りばかりの世界なんて消えてなくなればいい。
この体はそれができるんだよ。あんたがわからないとは言わせないよ?
あんたは知っているはずだからね。この体の秘密を、さ」
「…………」
「楽しみだなぁ。ボクがミコトと溶け込んだ時、どうなるだろう。それはボクにもわからないよ。
ミコトは未だに人間としての理性を捨てていないからね。
その理性をボクと溶け合うことで捨てた時……どんなことが起こるだろうね?」
それこそ、世界を破滅に導くかもしれない。
そんなことを嘯きながら、影の子供は笑っていた。とても無邪気そうに、無垢なる笑い声で。
ミコトは加速度的に憎しみを重ねている。
それは仮面の男がすぐ傍に、それこそ手が届く距離にいるとわかったからこそ、際限なく高まり続けていた。
それが呪いを助長させているとは知らず、いや、果たして呪いがあると知ったところで今のミコトが止まることなどあるだろうか。
呪いがミコトに溶け合う時の訪れ。それはもはや必然といえるのかもしれない。
ミライはそれを止める為にこの場所にまでやってきていた。
ミコトの中に沸き続ける影を浄化していくだけではどうにもならないとわかり、その大元である呪いを止める為に。
大切な母のことを思い、復讐に走るミコト。
復讐心が高まるが故に呪いは強まり、自らの身を犠牲にしながらそれを浄化するミライ。
悲しいまでに何処までも交差することのない親子の行く末は何処にいくのだろう。
(ミコト……サキ……私は…………)
未だに立つことさえ叶わないミライは力なく心の中でそう呟く。
愛しい子供たちの名前に力を貰うように。運命に逆らう力を。
影の子供はやがて来る未来を想像しながら、そんな無駄な抵抗をしているミライを見て嗤う。
来るべき時はもうすぐ来る。復讐の相手が目の前に現れた時、抑え切れないミコトの感情が扉をつくることだろう。
呪いがその戸を開けた時、全てが終わり、そして始まっていく。
その時までこの花畑の中心で影の子供は待ち続ける。もう少し、後少しだよと歌いながら。
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