第百二十話 屋上から見下ろす者
これはミコトが精霊化を果たし、魔物たちを蹂躙していった直後のこと。
誰にも気付かれることなく、その女はグリエントの校舎の中を歩いていた。
ダンジョンに強制的に転移させられ、ほとんどの学校関係者は講堂の方へと集まっていた。
だからこそ、誰にも見咎められることなくその者は屋上にまで辿り着く。
屋上は閑散としていた。
天気のいい日には、昼になると生徒たちで賑わいを見せていたものだったが、今は誰一人としていない。
女は落下防止用にと備え付けられたフェンスから、眼下で行われている戦闘を見ていた。
開戦から間もなくといったところで、激しい攻防が繰り広げられている。
生徒たちと魔物では圧倒的な数の差があったが、熟練の冒険者たちが前線を張っているおかげが意外と健闘している。
即席のパーティーとしては悪くない連携だった。
それに一部の圧倒的な力を持った者たちの活躍があった。
爆炎を撒き散らし、近づくことすら許さず魔物全てを灰燼に帰すライラック。
この薄闇の中でも光り輝く四枚羽を携え、自らを暴風とするかのように魔物を蹴散らしていくミコト。
この二人の凄まじい活躍に勇気付けられ、生徒たちも実力をいかんなく発揮しているようである。
「しかしそれも少し突けば脆く崩れ去るもの」
無感情にただ事実だけを述べたその声は氷のように冷たい。
戦いは若干グリエント側が優勢ではあるものの、火力に値する魔術師は実戦経験に乏しい幼い学生。
何かが起こった時、即座に対応できるかは首を傾げざる終えない。
むしろその事がきっかけで動揺してしまい、魔術もろくに使えなくなって戦線が瓦解する未来の方が想像できるというもの。
「あの者を使えばそれも容易でしょうが、素直に従うかは疑問としかいえない。
傭兵は……厄介な相手に捕まっていますね。捨て駒だからどうでもいいとしても、動かせる駒がない」
女に与えられた持ち駒は少なかった。
しかも先ほど述べた二つの駒は言う事を聞くかどうかも怪しい、駒としては捨て駒以下の存在。
女にとっては初めからあってもないようなものだった。
いくらその駒が強くても盤上を暴れまわるしか能がないのなら意味がない。
駒は駒として使われなければ価値がないのだ。
女もその駒として数えられるうちの一つだからこそ、それがよくわかっていた。
「私が手を下すしかないのでしょう」
淡々とした口調でそう呟いた女は手をかざす。
向けた先は戦闘が行われている場所。距離にして数百メートルはあり、普通の魔術では射程外である。
魔術は強力なものであればあるほど威力も射程も延びる傾向にある。
この距離であれば中級魔術でなおかつ遠距離攻撃に特化したものでギリギリ、といったところだろうか。
しかし女は手をかざすばかりで詠唱も、魔力を励起させることすらしない。
ただ遠くで行われている戦闘を見詰め微動だにすらしない。一体何をしようとしているのか。
女の目がすっと細まったその瞬間、ぴくりと一度体を震わせ、女はかざしていた手をゆっくりと下ろした。
魔物との戦闘は未だ続いている。変化は何処にも見られていないようだった。
「こんな所で一人でいるのは寂しいじゃろう。わしがお相手してあげるぞい」
いつの間にか。女の背後には老人が現れていた。
格好をつけたかのように腕を組みながらにやりと口元を緩ませ、ふざけた様子を見せるその老人。
グリエント魔術学校の校長にして、高名な魔術師として知られるシェイム・フリードリヒその人だった。
「……貴方は出かけられていたのではなかったのですか?」
「ふむ。確かに遠出しておったな。山登りを楽しんでおっての。なかなかの絶景であった」
「……」
「お主にも見せたいぐらい綺麗な所での。帝都も帝都で洗練された美しさはあるが、自然の美しさと比べたらまずスケールが違う。
雄大という言葉はまさしくあの光景の為にあるのじゃろうなぁ」
ぺらぺらと饒舌に話すシェイムに対して、女は振り向くことすらせず背中を向けたまま話を聞いていた。
眼下の戦闘と比べたら、あまりに場違いな世間話でもするかのような空気が漂う。
その間にもシェイムは旅で何を食べただの、あの宿屋の看板娘はピューティフォーだっただの。
実に楽しそうにどうでもいい話を続けていた。
長々と話は続いたが相槌すら返さない女にシェイムは話を一区切りさせて、ふぅ、っと息を吐いた。
そして、シェイムは笑う。歳に似合わぬ獰猛な笑顔を顔に貼り付けて、笑う。
「まぁそんなことはずっと監視をしていたお主らにはすでに既知のことじゃっただろうな。
レギオンの一員であるお主……ライズよ。爺の長話につき合わせて悪かったの」
その時になって女は、ライズは初めてシェイムを振り返った。
顔にかけられた眼鏡の向こう。そこにある瞳は冷たくシェイムを見据えていた。
いつものスーツ姿で冷淡な表情すら変わらず。
シェイムに秘書として雇われた当初からずっと変わらぬ態度。
この時をもってしても、ライズの様子は普段と寸分の違いすらなかった。
「いつから私のことに気付いていたのですか?」
「ほう。言い訳すらしないのかの?」
「見苦しい言い訳は時間の無駄です。それにその装備を見れば、貴方の本気の度合いがわかるというもの」
シェイムはその手にユグドラシルから作られたロッドを握っていた。
常日頃からキセルを肩で叩くように、ぽんぽんと気軽にそのロッドを扱っているが、あれ一つで上等な家が何件も建てられる最高級品である。
それにいつもと変わらぬローブを着込んでいるが、その実、ローブもライカンスロープという魔物の皮から作られた物だった。
魔狼と呼ばれるライカンスロープから作られたローブは、耐久性と防御力に優れ、魔術にも抵抗力がある一級品。
他にも懐に持ち込んでいる数々のアイテムをシェイムは隠し持っている。
これが紛れもなく、シェイム・フリードリヒという男の完全武装であった。
「潔いのぅ。その調子で大人しく降伏してくれたら、この爺も大助かりなんじゃが。
ちなみにさっきの答えは最初から、じゃよ」
「では私を雇ったその当初から、ということですか。怪しい動きは見せていないはずですが?」
「グリエントは色んな所から目をつけられているのでな。警戒は常にしておったのじゃよ。
お主のことも調べさせてもらっておる。ライズよ、お主の経歴は完璧じゃった。綺麗すぎたのじゃ」
裏をとって情報部に調べさせた所、ライズには一点の曇りもないほどの綺麗な経歴を持っていた。
採用を担当していた者はライズのことを褒めちぎっていたが、シェイムは逆に疑念を持っていた。
まるで作り物であるかのように隙が見当たらない。そんな印象を抱いていたのだ。
「なるほど。私は貴方のことを見誤っていたのかもしれません。完璧でありすぎると、逆に疑念をもたれる、と。
ただの変態かと思っていましたが、評価を上げておきましょう」
「ほっほっほっ。変態ということは否定はせんが、変態は変態でも耄碌はしていないのじゃよ。
さて、このまま話し続けるのも一興じゃが、今度はこちらからの問いに答えてくれるかの?」
そう言ってシェイムはロッドを持って軽く身構える。
シェイムほどの実力があれば、わざわざ構えなくとも魔術は行使できるが、あくまでこれはポーズである。
降伏しないのであれば実力行使も止む得ない。そのような意味合いを持たせていた。
「私が降伏しても意味はないですよ。あの魔物を先導しているのは私ではありませんから。
あくまで私はその手伝いをしているに過ぎません」
「やはり仲間がいおったか。もしや帝都で噂になっておる黒い死神とやらかの?」
「貴方の中で確信していることを私に尋ねる意味はないでしょう。あえて答え合わせしたいというのなら答えましょう。
ええ、その通りですとも。あの男が今回の主催であり首謀者です」
シェイムは拍子抜けする思いを抱えながら、表面上にはその思いを表すことはなかった。
確かにある程度の情報は掴んでいる。例えライズが違うといっても、それを嘘だと看破できるほどには。
しかしこうまでして正直に答えられると、肩透かしのような気分になってしまうのだ。
しかもライズは言わなくてもいい情報を垂れ流しにしている。これでは相手に情報を与えるばかりである。
これが相当に頭が悪いやつならともかく、ライズという人物はそうではないとシェイムは思っている。
ならばその意図は何処にあるのか。
どうでもいい情報を流しているのか、それとも嘘をついているのか。
あるいは……シェイムはもっとも物騒な理由を頭に浮かべて苦笑する。
情報を知られても構わない。何故ならお前を殺すから。
過去にそう言われた事が何度かあるシェイムとしては、ありえそうだと思ってしまう。
嫌な予感を感じつつも、シェイムはライズに話しかけた。
「……今回のこと、どう落とし前をつけるつもりなのかの?
わしはお主たちを泳がせて、何が起きてもいいように準備は万端にしていたつもりじゃ。
それでもグリエントを丸々ダンジョンに転送するとまでは思わなんだ。
ここは帝国からの支援を受けている魔術学校じゃ。すなわち、それが意味することはわかるの?
帝国そのものを敵にするつもりなのかの?」
「国がどうしたというのですか」
「…………なんと」
「国という牢獄に囚われている貴方たちと私は違います。そしてレギオンという存在も。
その頂点に君臨する宗主さまも。崇高なる宗主さまは国など気にしません。
何者にも縛られずに自由であれ。それが宗主さまのお考えなのです。
矮小なる貴方がたと宗主さまは違うのですよ。あぁ……宗主さま……」
熱に浮かされたかのようにライズは宗主を語る時にだけ頬を紅潮させる。
それはまるで恋する乙女であるかのように可憐だった。
いつものライズを知っているだけに、シェイムは殊更に印象付けられるのだった。
「……レギオンは国を相手取るほどの力を持っているというのかの?」
「国であれ何であれ、レギオンを率いる宗主さまに敗北はありえません」
「大した自信じゃ。わしはそこまでお主が惚れている宗主とやらに会ってみたいのぅ」
「……惚れる?……下種の勘繰りはやめなさい、今すぐにでも殺しますよ?」
「おぉ、怖いのぅ。ライズはそういう表情もできるのじゃの」
そう軽口を叩いたシェイムだったが、全身を圧迫するかのような強い殺意に晒されてぶるりと体を震わせていた。
よほどライズの琴線に触れてしまったらしい。
極寒零度の視線で射すくめられ、萎縮する所かシェイムは逆に笑みを洩らしていた。
「気持ちの悪い老人ですね。何がそんなに面白いのですか」
「いやいや。そう邪険にしなくてもいいじゃろう。久方ぶりの心胆を震わせる殺気に思わず嬉しくなっただけじゃよ。
こんな殺気を浴びたのも冒険者になった時以来じゃからのぅ……懐かしくなってしまったのじゃ」
「どうでもいい話でしたね。それにこれ以上の会話は不要と判断します」
そう言うとライズは殺気を押さえ込み、懐から短杖を取り出した。
シェイムの持つユグドルシル製の杖よりは見劣りするものの、ライズが持つ短杖も相当の物であることは見るだけでもわかった。
それをシェイムに突き出しながら、ライズは見下すような冷めた視線を投げつける。
「貴方のことは宗主さまからは何も命令されてはいませんが、危険な人物と自己判断を下しました。
霊峰フリューゲルに貴方がいたことは間違いなく、ここに姿を現すことはありえないはずだった。
ダンジョンの中に転移してくるなどただの魔術師にできることではない。
どんな方法を使ったかは知りません。教えるつもりもないでしょう。だからここで死になさい」
「ほっほっほっ。グリエントを丸ごと転移させたお主たちに言われると、なんだかむず痒いのぅ。
まぁ元より話し合いで済むとは思ってなかったでの。ここで一戦交えるのも一興じゃて」
魔術師同士が杖を互いに向き合わせる。それはさながら騎士と騎士との決闘の光景にも似ている。
互いに向き合わせる杖はあくまで剣に添える手のようなものでしかない。
相手を切り裂く剣は魔術師にとっては魔力によって行使する魔術が値する。
いかに相手の剣筋……魔術構成を把握してそれに合わせるか。
いかに鋭い斬撃……正確無比なる詠唱を唱えることができるか。
いかに裂帛の気合……練り上げた魔力を魔術に込められるか。
勝負は一瞬の内に決まるといっても過言ではなく、もはや何かを語る口はここに必要なかった。
今ここに誰にも知られることのない、一つの戦いが始まろうとしていた。
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