第百十三話 混乱
まず何が起こっているのか把握する必要がある。改めて俺は状況を確認した。
周囲はまるで日食が起きているかのような薄暗さだった。
見えてくるのはいつもの学校の風景だったが、うっすらと暗闇が忍び寄るかのような明るさで昼間の印象とはまるで違う。
学校の門のあたりまでは薄暗ささえ除けば何も変わらなかった。
ただし門から先は、見渡す限りの果てのない闇。そこに帝都の面影は欠片もない。
見えるのは土のような地面だけで、舗装された学校の敷地とは門を境にくっきりと分けられていた。
遠方に視線を移してみても遠くなるにつれ除々に闇が深くなり、終いには何も見えなくなる。
見通しのきかない闇はそれだけでも心の平穏を乱していく。その先に何があるかわからないからだ。
未知からくる不安は、しかし燃え盛る黒炎によって瞬く間に掻き消えた。
(その先に、闇の向こうにお前がいるんだろう?)
いつのまにか俺は一歩を踏み出していた。逸る気持ちが抑え切れない。
感情がすでに俺の体をコントロールしている。
奴を生かしてはならない。奴を殺せ。その手で必ず殺せ。確実に、何よりも確実に。
「ミコト、何をしている」
その言葉に足を止める。ライラックの声だ。
一時的に理性を取り戻した俺は高速思考を使い、頭を冷やした。
今の顔を見られてしまえば何を言われるかわからない。
現実の時間にして数秒。だが俺にとっては数千倍にまで引き伸ばした時間である。
それだけ平常心を取り戻すのに時間がかかった。
「……いえ、外がどうなっているのか確かめたいと思いまして」
「今は非常事態だ。それは許可しない。安全を確保するまでは誰一人として敷地内から出ることは許さん」
安全の確保……?
思わず鼻で笑ってしまいそうになる。そんなものここにありはしない。
ライラックの先ほどの言葉もそうだが、奴がこれに関係しているなら必ずろくでもないことが起きる。
喜劇と称した胸糞の悪い、奴だけが喜ぶショーが始まることだろう。
ここまで大掛かりなことをしたのだ。キャストたる俺たちを逃がすはずがない。
胸中の思いを顔に出すことなく俺は振り返る。
ライラックは僅かの間だけ俺の顔を見詰めていたが、時間が惜しいのか何も言わずに講堂の方へと颯爽と歩いていった。
そんなライラックの背中を見て、俺も講堂の方へと歩いていく。
行動を起こすのは今ではない。感情に駆られて動いても、奴の手の平で躍らせられるだけだろう。
そうは思っていても、やはり心は完全に制御できていない。
今も一人だけで飛び出して行きたいという気持ちが残っている。
(それはダメだ。もう二度と失敗は繰り返さない)
俺一人だけではまだダメだ。そんな力はない。全身の血が煮えたぎる程悔しいが、まだ奴には届かない。
彼岸の実力差はまだ埋まっておらず、あの時の俺より今の俺は確実に弱い。
利用できるものが必要になる。手ごまとなる何かが。
俺にとっての手札となるもの、一つはシルフィード。もう一つは森羅万象という力。
だがこれだけでもまだ足りない。後は……。
そうして俺は講堂の入り口まで戻ってきて、そこに広がって座るたくさんの人々を見た。
不安そうに顔を見合わせている生徒たち。先生に詰め寄って何が起きているのか問い質す者。
収拾をつかせようと壇上で声を張り上げる先生。クライブも対応に追われているようだった。
ライラックは早速とばかりに先生たちに指示を出しているようだ。
あの女は慌てふためく様子もなく、こういう状況に慣れているかのような立ち振る舞いをしている。
実力も先生たちの中でもトップクラスだろう。油断のならない女である。だがしかし。
「……そうだよ。利用できる奴らならこんなにたくさんいるじゃないか」
ぽつりと洩らした俺の言葉は喧騒の中に混じって誰にも届くことはなかった。
しばらくして講堂の中は一応の落ち着きを取り戻していたが、未だ生徒たちの動揺は収まっていなかった。
それはそうだろう。講堂の窓にはカーテンさえ引かれていない。外の光景は丸見えだった。
講堂の中は魔道具によって明かりは保たれているが、それが尚更、外との明暗の差をはっきりと感じることができる。
突然、薄暗くなった外の光景を見て平静でいられる奴は少ないだろう。
「ここがダンジョンの中、というのは本当ですか!?」
「確実、とまでは言えません。ですが、ほぼ間違いないでしょう」
「信じられない。ダンジョンの中に転移することは不可能なはず。
何処かの大きな洞窟の中にでも転移させられた、という方がまだ信じられる。
それでもまだ信じがたい事実ではあるが……間違いではないのですか?ライラック先生」
俺はシルフィードを通しての先生たちの会話に聞き耳を立てていた。
魔術でも聞こうと思えばできるが、それはさすがに察知される可能性が高い。
シルフィードならば俺のように精霊でも見えない限りは悟られることはない。
壇上の辺りに集まった大人たちの周りには、生徒たちは誰もいないかった。
ただでさえ動揺している生徒たちに聞かせたくない話なのだろう。
「私はこのダンジョン……この階層にまで来た覚えがあります。
グリエントがまるまる入り、それでも遠くの壁さえ、天井さえ見えない大広間。
土と草の匂い、踏みしめる土の地面は何処までも平坦に続いている。それに気配がするのですよ」
「気配……?」
「ええ、おびただしい程の魔物の気配が。わかりませんか?この雰囲気、そして空気が私に確信を抱かせるのです」
「そんな馬鹿な。私には気配なんてもの感じられませんよ!?やはりライラック先生の勘違いでは……」
感覚的なものの話をさせられても納得できない。
確かに目に見えた証拠でもないと信じられない話ではある。
だが、今この時、緊急事態になっているということは誰にだってわかることだ。
見たこともない場所に学校ごと転移させられている。それだけでも異常事態であるのは間違いない。
悠長に口論なんてしている暇なんてないだろうに、一部の先生たちは声を荒くして叫んでいる。
その大きな声が生徒の不安を更に煽っているというのに、気付いてもいないのだろう。
それだけ大人であるこいつらも動揺しているということだ。
「…………」
「考えても見てください!そもそもこんな大規模な転移なんてこそありえない!
魔術師としての常識から逸脱しているっ。きっと外の薄暗さもまやかしに決まっている。
精神に異常をきたす魔法薬でも散布させられたか、幻術にかかっているのですよ!!
そうだ。治癒魔術を今から皆でかけていきましょう。そうすれば……」
「黙れ」
「あ……えっ……」
ただ一言。ライラックのその一言によって饒舌になっていた教師の口が止まった。
別段、ライラックは声高に一喝したわけでもない。
短い言葉の中に込められた力のようなものに、あいつが威圧させられてしまっただけだ。
ヒートアップしていたその場の空気は、まるで水でもぶちまけられたかのように冷えていく。
「……失礼。過ぎた言葉を言いました。しかし、ここは冷静にならなければならない時です。
非常事態だからこそ私たちがしっかりとしなければなりません。後ろを見てください」
ライラックの言葉によって呆けていた先生たちは、流されるように後ろを見た。
そこに揺れたまなざしで自分たちを見ている生徒たちがいた。
思い思いに講堂の中に座っているが、皆が皆、これからどうなるのか不安に苛まれている。
それを見て、はっ、と何かに気付いたように目を見開く大人たち。
「私たちには守らなければならない子供たちがいます。
そんな子供たちの前で私たち大人が無様な所を見せてどうするのですか。
しっかりとしなさい。ちゃんと自分の周りを見てください。
貴方たちは一人ではないでしょう」
「…………すみません、ライラック先生。あまりに動揺していて一番大切なことを忘れていました。
そうですね……私たちは一人じゃない。守らないといけない子供たちがいる」
「そうです。一人ではありません。それに子供たちだけじゃない。私たちだっているでしょう。
一人ではけしてありません」
「あっ……」
今まで見たことのない優しい顔で笑うライラックに、彼女の周りにいた誰もが男女問わずに見惚れていた。
……あっちはあれでもう問題ないようだな。
しっかりしてもらわなければ俺が困る。まだ幕さえあがっていないのだから。
しかしライラックの行動にさすがの俺も少し驚いた。
こんな事態になっても動揺の一つさえ見せないのは予想の範囲だったが。
てっきり自分に従えとばかりに統率を図るものばかりと思っていた。
くさい三文芝居に先生たちはすっかりと騙されているようだったが、果たしてあの女が本心から言っているかどうかなど誰もわからない。
案外、本当にそう思っているのかもしれないが、どっちみち俺には関係ない。
あの女が、大人たちが俺の役に立つかどうか。それだけだ。
「ねぇ。先生たち、大丈夫かな。何か大きな声で話していたけど……」
小さな声でそう俺に話かけてきたのはマリーだった。
意識を会話にとられていて若干反応が遅れたが、マリーは周りのことが気になるようで気付かれていない。
俺の周りには同じクラスの連中が集まっていた。
といってももちろん全員ではない。今日、ダンジョン実習に参加する予定の奴らだけだ。三馬鹿にマリーと後は数名程度。
普段は陽気な三馬鹿もさすがのこの事態に神妙な顔をしていた。
「さぁな。何か揉めているのは確かのようだが、よくわからない」
ここで真実を伝えたとしても意味はない。大人たちと同じ結論に俺は至っていた。
そう……と気落ちした様子のマリー。何かしらこの空気を払拭する情報が欲しかったのかもしれない。
俺はそんな元気のないマリーを見ても、心が少しも動くことがなくなったことに気付く。
落ち込んでいるマリーの姿を見たら、今までの俺なら何かしようとしたはずだ。
ゆらゆらと波の上に浮かんだ板のように揺らめいていた俺の心も、ここに到りようやく覚悟が出来たということだろう。
それはすなわち、何ものでも切り捨てるという覚悟。
呆気ないほど簡単に、何か工程をすっ飛ばしてしまったかのように、邪魔になれば俺は迷うことなく目の前の女を切り捨てる。
(……?)
だが何処かで違和感が拭いきれない。気持ちの悪い感覚だった。
それはまるで誰かに無理やり選ばされているような、いや違う。これは俺が選んだことだ。
頭を振って違和感を頭の中から飛ばしていく。
元々、そう大したことでもなかったのだろう。それだけで元の俺に戻っていった。
『ミコト。帰ってきたのですよ』
タイミング良くシルフィードが生徒たちの頭の上を飛びながら戻ってきた。
シルフィードは胡坐をかいて座っていた俺の太ももの上に腰を下ろすと、何とも言えないような表情で俺を見上げる。
何かあるのかと頭の中で聞けば、シルフィードは俺を見詰めながら心の声で応えた。
『ミコト……何か……何かあったのです?最近のミコトはわからなくなっているのです』
(わからなくなっている、とはどういうことだ)
『何かモヤがかかっているようにはっきりとしないのですよ。何かおかしくなってはいないのです?』
何もおかしくはなっていない。むしろ正常に戻ったともいえる。
余計な感情は邪魔でしかなかった。それをぐだぐだと俺は持ちすぎていたのだ。
(お前の気のせいだ。そんなことより、今はこの状況のことを考えた方がいい)
『そう……ですね。変なことを言ってしまいました。ごめんなさいです』
(それで、お前なら外がどうなっているか探れるか?)
俺が動いてしまうとどうしても誰かの目に付いてしまう。ならばこそのシルフィードの出番だった。
しかし、どうやらシルフィードに頼むまでもなかったようだ。
窓際にいた生徒が甲高い悲鳴をあげる。その生徒は尻餅をつきながら後ずさっていた。
指先は窓の外を差しながら、瞳の中を恐怖で満たしていた。
近くにいた生徒が視線をその先に向けた途端、同じような反応をして仰け反っていた。
そこには本来ならここにいるはずのない魔物の姿が中庭に現れていた。
それも一匹や二匹ではない。
十、二十、三十と続々と数を増やし続けて見渡す限りを埋め尽くしていく。
蠢く木々のような魔物は群れをなせばなしているほど、怖気が奔るような生理的嫌悪を引き出していく。
実習を通して魔物を見慣れ始めていた生徒たちも、この光景には誰もが口を開き声のない声をあげていた。
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