第九十九話 謎多き国、フリューゲルにて
遥かなる尾根と呼ばれる山脈がある。
そこは人が移動するには険しすぎる環境の中に存在している。
自然が偶然に作った道が辛うじてあるにはある。
だが人一人が通るのに精一杯であり、山肌を沿うように出来ている為、落下する危険性も高い。
また上空には魔力を拡散させる磁場のようなものが発生しており、魔術や魔道具で越えようとしても無駄だった。
他に存在しているルートといえば、山脈を挟むようにして鬱蒼と広がる森がある。
道としては歩きにくいものの、いつ足を滑らせるかわからない山道よりはマシといったところか。
しかし、そこは魔物の巣窟にもなっていて三歩進めば魔物にあたると言われるぐらい生息数が多い。
魔物としての個の力も強く、完全なる魔の領域となっていた。
かの有名な帝国のフリューゲル侵攻の際にも、森の中だけは避けて通ったという話だ。
軍事力に最も優れた帝国でさえも断念したという森に進んで入る命知らずはいない。
だからフリューゲルへと続く道の中でも、比較的楽な道は山道しかなかった。
「ふふんーふふー」
そんな死と隣り合わせの道を一人の老人が鼻歌混じりにスキップしていた。
老人が進む度にからからと、狭く出来ていた道のかけらが谷底へと落ちていく。
崖下を見れば眩暈がするような高さ。底は霞がかっていてわからない。
今、わかることはここから落ちてしまえばまず命はないということだけだった。
「ほっ、ほっ、ほっ」
軽快に足を弾ませて進む老人の足取りには迷いがない。
標高はすでに三千メートルを越えた所である。
なのに老人は息苦しさの一つも覚えていないようで、幅の狭い危険な山道をずんずんと進んでいた。
それからしばらくして、ようやく広い場所に老人は辿り着いた。
十人程度は休めるような広場で、地面も平らになっていて腰を落ち着けるにはちょうどいいだろう。
広場を進むとまた狭い道が続くようであった。
汗さえもかいていない老人にとって休憩すら必要ないのか、腰を据えることなく老人はそのまま歩き出す。
と、その時である。
老人の背後から声が聞こえてきたのは。
「何者だ、貴様。この先に何の用がある」
敵意に満ちた声は一つだけだったが、老人が振り返った時にそこにいたのは二人の男女だった。
どちらも老人に比べれば大分若く、特に女の方に到っては少女とも呼べる年齢だった。
男の方は鍛え抜かれた肢体を服の間から覗かせ、それ以上に雄弁に語るのは圧を伴った視線の強さだろう。
一本道だったはずの山道からどうやって現れたのか……その答えさえ与えないかのように男は鋭く老人を睨む。
「何の用と言われてものぅ……行き着く先など一つしかあるまい?」
「一度しか言わぬ。あそこは人間が立ち入るような場所ではない。早々に立ち去れ」
「そうはいかない事情があるんじゃがのぅ……」
「事情ってなに?」
剣呑な視線を突き刺す男の影から少女がひょっこり顔を出し、素朴な疑問を老人に投げかける。
ほっ、と声を出して老人は軽く驚き、それ以上に慌てたのは睨んでいた男である。
シズルっ、お前は大人しく後ろで見ているという約束だったではないかっ、と先ほどの強面もどこへやら慌てふためいている。
シズル、と呼ばれた少女は下ろした髪を二つに束ね、三つ編みにした小さなおさげが特徴的な女の子だった。
男と同じ黒い髪に眠たそうに伏せられた瞳。そういう顔立ちなのだろう、瞳の中はしっかりと老人の方を見ていた。
その身長と体つきからして年齢的にはミコトたちと同じくらいだろうか。
幼い印象が残るものの整った顔立ちをしており、将来はきっと美人になると持て囃されそうな女の子だった。
「ほっほっほっ。ずいぶん可愛らしいお嬢ちゃんじゃの。シズルちゃん、残念じゃが秘密なのじゃよ」
「秘密……なの?」
「そうじゃのぅ。秘密なんじゃ」
「秘密なら……仕方ないね」
そうは言いつつも残念そうな声を出し、唇を少しだけきゅっと上げて拗ねた顔を見せるシズル。
にっこりと好々爺とした態度を崩さない老人だったが、内心、そんな少女を見て老人は悶えていた。
今更ながらではあるが、この老人はグリエント魔術学校の校長でもあるシェイム・フリードリヒその人である。
であるなら可愛い少女が目の前でそんな表情を見せたのなら、シェイムとしては興奮するしかあるまい。
「貴様ぁ!どうしてシズルの名前を知っている!!」
そんな危ないゾーンに陥りかけたシェイムを現実に戻したのはそんな怒声だった。
無粋な奴じゃのぅ、とシェイムが顔を上げれば男は顔を真っ赤にして怒っていた。
隆起した筋肉が怒りと共にせりあがり、シェイムは嫌なもんを見てしまったと心の中で嘆く。
「そんなものお主が言ったからに決まっておるじゃろうが」
「何っ!?ぬぬぬ……そう言われてみれば口にしたような気がしないでもない。
だがしかし、お前みたいな怪しい奴にシズルをシズルと呼んでいいわけがなかろう!!」
「おとさま、でもシズルはシズルだよ?」
いや、そうではあるのだがな……と男はシズルに向き合って弁明をし始める。
その姿は隙だらけであり、まさに攻撃をしてくださいと言っているようなものだった。
そんな気はシェイムには毛頭なかったものの、面白い男じゃのぅ、と自分の髭を撫でながら思っていた。
男はそれでもシェイムを追い出そうと躍起になるが、その度にシズルの悪意のない邪魔が入る。
いよいよ収拾がつかなくなり始めてきた所に、新たに一人の人物がそこに現れた。
まさしく現れた、といった表現が正しい唐突な登場。
背後から現れたその気配にシェイムはゆっくりと振り返り、そしてその姿を見て快活に笑った。
「久しぶりじゃの、ヨズク」
「やはりお主であったか、リード」
音もなく現れた妙齢の男はシェイムと同じように、まるで久方ぶりの親友でも会ったかのような笑顔を浮かべるのだった。
フリューゲルという国があまり他国に知られていないのは、その立地が天然の要塞に囲まれていることにある。
上空からの浸入は不可能に等しく、地上から行こうとすればそれもまた死と隣り合わせだ。
唯一まともと言われる道には常時監視の目がつけられていて、密偵が忍び込む余地はなかった。
そんなフリューゲルという国……国民からは空の国とも呼ばれるその場所にシェイムは足を踏み入れていた。
なるほど、空の国と言うだけはあってそこはとても空に近しい場所だった。
まず、どの場所にいたとしても空を見るのに遮るような物があまり存在していない。
意図的に作られているのだろう。建物があったとしてもせいぜいが二階建てどまりであった。
文明的には帝国よりも一歩も二歩も劣っているのか石造りの建物が多い。
道の舗装も土を均している程度であり、おそらく帝国の貴族などがこの国の現状を見ればどこの田舎かと失笑することだろう。
のどかな雰囲気は確かにどこぞの片田舎といったところであったが……一つだけ違うところもある。
明らかに人が立ち入れないような場所がいくつも存在しているのだ。
例えば絶壁に囲まれた土地に立てられた一軒家。傍には橋もなく、ジャンプして渡ろうとしても到底届かない距離にある。
例えば崖の中に作られた洞窟のような家。入ろうとするのがまず難しく、ロープでも用意すればあるいは、といった感じである。
そんな場所がいくつも点在しているのだ。
日常を過ごそうとするにはあまりに不便であり、生活するには困難であるといえるだろう。
こんな場所で過ごそうとするのなら、背中に羽でもはえてなければ無理という他にない。
「ここはあまり変わらないのぅ……」
シェイムは久しぶりに訪れたフリューゲルという国をじっくりと見て回った後、ヨズクの案内で彼の家へと訪れていた。
他所の国の人間という珍しさもあって視線を集めていた様子であったが、シェイムとしては気にならない。
あのシズルの娘の父がストーカーよろしく、いつまでも付いてきたのはシェイムといえど少々気にしているようだったが。
なにせ鬼の形相で草葉の陰から睨んでいるのである。あれが女子なら大歓迎なんじゃがのぅ、とシェイムはため息をついていた。
時間にしてあれから二時間ぐらいといった所だろうか。
実の所、一悶着あった場所からフリューゲルまではそう遠くない位置にあった。
だからこその監視の目があの場所にあったというわけなのだが……。
シェイムは簡素な部屋の作りを目にしながら、お茶の用意をしているヨズクに話しかけた。
「ヨズクよ、小さな女の子……シズルちゃんだったかの。もしやあの娘はお主の知り合いか?」
「相変わらず目敏いな。そうだ、あの娘は私の孫にあたる。手を出したらリード、ただでは済まさんぞ」
「そう怖い顔をするでない……全く、わしを何だと思っておる」
「性欲の権化だな。いい加減見た目に伴って歳相応に枯れろ」
「久方振りにあったというのにこの仕打ち、ぞくぞくするのぅ?まぁ冗談はさておき、じゃ。ならばあの男はあの時の坊主か……」
懐かしむように目を細めるシェイムの目の前に湯気が立つ茶碗が置かれた。
そうしてヨズクもその対面に座ると、束の間、静かに二人はヨズクが煎れたお茶を飲むのだった。
「……まずいな」
「まずいのぅ」
自分が淹れたお茶に顔を顰めるヨズクに間髪入れずにシェイムは同意を示した。
お茶の味は渋すぎて、風味といったものが消し飛んでいた。おそらく、茶葉を長く湯につけすぎたせいだろう。
軽くため息をついたヨズクは茶碗を机の上に戻すと、腕を組みながらシェイムに訊ねる。
「リード。お主が私の顔を見にわざわざここに立ち寄ったのではないのだとわかっている。
でなければこの数十年間、一度として私に連絡すらいれなかった理由の辻褄があわんからな」
「引っ掛かる言い方じゃのぅ……」
「ふん。確かにここは外界から途絶された国だ。踏み入ることは容易ではない。
それでもお主ならやりようがあったという話だ、馬鹿者」
「……一度、一度だけの、連絡を取ろうとしたことがあった。それはお主の妻、シズカさんが逝った時のことじゃ」
「…………知っておったか」
「風の噂で、じゃがな。……当時のわしにはかける言葉が見つからんかった。何を言えばいいのかわからなかったのじゃ。
情けないのぅ。自分のことを世界一の魔術師だと豪語しておったくせに、友にかける言葉さえ浮かばなんだとは」
シェイムはその時、悔やむように顔を俯かせた。そして昔のことを思い出していた。
それはずいぶん昔の話。シェイムがまだただのシェイムであり、見果てぬ希望をその胸に抱いていた時の話だ。
何か面白いことはないかと生まれ育った村を飛び出したシェイム。
成人の儀を成すために外界を見て周らなければならなかったヨズク。
二人が出会ったのは偶然の産物であり、お堅いヨズクと軽薄なシェイムは水と油だった。
何の因果か二人はチームを組むことになり、そこから始まった冒険はまさに波乱万丈だった。
何度となく危ない目にあい、ダンジョンで死に掛けた事なんて手と足の指の数を足したとしても足りない。
時には人に命を狙われたこともある。切磋琢磨しながら強くなっていく二人を邪魔者だとそう思っていたのだろう。
あるいは財宝目当てだったのかもしれない。数々のダンジョンをたった二人で制覇した彼らには相当の金があったのだ。
どちらにせよ、その全てをシェイムとヨズクは跳ね除けてきた。
卓越した魔術と磨きぬかれた武術によって。向かう所、二人に敵なんて存在していなかった。
それが終わりを迎えたのはヨズクが運命の出会いをしてしまったからだろう。
シズカとの出会い。その名前の響きから、思わず見惚れてしまう美しい黒髪から、ヨズクはすぐに同郷の者だと気付いたのだった。
「シズカさんはここの言葉で言う所の名は体を表す、じゃったかの?そんな女性じゃったな」
「……そうだな。そして茶の淹れ方が抜群にうまかった」
「ほっほっほっ。そうじゃの。お主が淹れたこのお茶とは比べるのも失礼なぐらいにの」
「抜かせ。ずっと練習しているがいつまだたってもうまくならん。私とこれの相性は悪いに違いない」
ヨズクはそう言って指の背でこつんと茶碗を叩いた。
中身はまだ入っており、一石を投じられた湖面のように揺らめく。
シェイムはまずいと言っていたヨズクが淹れたお茶に手を伸ばし、全て飲み干した。
やはりそのお茶は渋くて苦かった。まるでそれは今の自分の心のようだ、とシェイムは思っていた。
「……大変じゃったの、ヨズク。あの時、何も出来ず、何も言えずにすまなかった」
「殊勝な態度をとるな気持ちが悪い。リードよ、さっき言ったお前の言葉も嘘ではないのだろう。
しかしシズカが逝った時、お主はそう容易く動ける身分にはなかっただろう。私も風の噂で耳にはしていたからな」
「…………」
「グリエント、だったか?お主が学校の先生になるとはな。世の中、どう転がるかわからんものだ」
シズカの凶報と時を同じくして、シェイムは帝国での地位を確立し、魔術学校を創設しようとしていた。
当時、士官学校や貴族の子弟学校というものは存在していたが、魔術を専門とする学校は一つとして存在していなかった。
おまけにシェイムが掲げるのは門扉を狭くし、一部の上流階級に学ばせることではない。
誰でも学ぼうとする意志があるものならば門を叩けよ、さすれば魔術の真髄を授けよう。
そんな理念の下に生み出されたのが今のグリエント魔術学校である。
「私はこの国での重役を担っている。だからその苦労、少しは理解しているつもりだ。
前例のない事柄を上の者に認めさせるのは、並大抵の苦労ではない。
そんな大願を放って置いて私のところに来たのなら、尻を蹴飛ばして追い出してやったわ」
「ヨズク……」
「私は歳相応になれ、とは言ったがそんな情けない顔をしろとはいっておらんぞ。
似合っておらんから、いつもみたいによからぬことを考えてそうな顔でもしておるといい」
それは彼なりの許しであったのだろう。
ヨズクが本当の意味で許していないなら、今頃シェイムはこの国に入ることさえ出来なかっただろう。
シェイムとしてはその覚悟もあった。しかし、結果としてそれは杞憂に終わったようだ。
長年、シェイムの心の中に突き刺さっていた棘がその時になってぽろりと抜け落ちる。
安堵が心の中に広がっていき、それを隠すようにシェイムはあえてテンションを上げてヨズクに突っ込みを入れた。
「相変わらず不躾な男じゃな!わしだって年がら年中、よからぬことなんて考えておらんわいっ!」
「リードよ、私の孫を見てどう思った?可愛かっただろう」
「お持ち帰りしたいのぅ!!」
テンションを上げすぎて、ついいつもの調子で答えてしまったシェイム。
今のは本心百パーセントである。本心だからこそ、性質が悪すぎた。
「…………」
「…………ま、待つのじゃ。どこへ行く?何を棚を漁って……ちょ、それは現役時代に使っていた裂空!?
そんなもの拳に装着してどうするのじゃ。……わかったぞい!!わしと会って当時のことを思い出し、懐かしくなったのじゃな?
そうかそうか。お主もわしと同じ気持ち……ぬわーーーーーー!?!?」
「この場でお主を滅することがあの娘の為だと確信した。死ぬがよい」
「そんなラスボス風なことを言われても……NOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!」
ヨズクの家では、それからシェイムの叫び声がしばらく絶える事はなかった。
幸いにしてヨズクの家は人里から離れており、大きな騒ぎになることはなかった。
それがシェイムにとっても幸いだったのかは知る由もない。
「して、お主の用件というのは何なのだ」
「ちょ、ちょっと待つのじゃ……わし、おじいちゃん。たいりょく、ない」
「私と同年代であろう。茶でも飲むか?」
「体力お化けの主と同じにするでない。それに今、その茶を飲んだら噴き出す自信があるのじゃ……」
「そうか。先ほど飲み干しておったから、気に入ったのかと思った」
と、言いつつ二人が暴れて倒れてしまった大きな棚をひょいと戻すヨズク。
現役から退いたとはいえ、ヨズクの怪力は未だに健在のようだった。
もしもヨズクの拳が一度でもクリーンヒットしていたら、シェイムはあの世へと直行していただろう。
全く冗談じゃないわい、と愚痴を零しながら後片付けを手伝うシェイム。
ヨズクもヨズクなら、シェイムもシェイムだろう。
疲労が見えるもののシェイムは幾分か回復しているようである。見た目にそぐわない体力を持っているようだった。
そうして後片付けも大体済んだ頃、ようやく椅子に腰を下ろしてシェイムは一息ついていた。
壁のあちこちには破壊の後が見えるが、今はそのことは置いておこう。
素知らぬ顔をしている家主が目の前にいるのだから、とりあえず話を進めることにしたシェイムだった。
「あー、えーと、用件じゃったかな。さて、何から話をすればよいのか迷う所じゃの」
「ふむ、長くなりそうなのか?それなら私からも一つ、話があるのだが先によいか」
「ほっ?お主からの話とな?よいぞ。話している間に整理がつくかもしれぬ」
「そうか……」
そう言ったっきり、ヨズクは口を閉ざしてしまう。
何やら雰囲気からして重そうな話題のようだ。
どちらかといえば寡黙なヨズクではあるが、言いたいことははっきりというタイプである。
そんなヨズクが言いよどむ程の話。シェイムは姿勢を正し、ヨズクの話をちゃんと聞くことにした。
しかし、ヨズクのその話す内容にシェイムは驚くことになる。
それはシェイムが話そうとしたことと、おそらく無関係ではない。
ヨズクは全てを話すと、机の上で祈るように手を組み合わせながら切実に訴える。
「……フリューゲルはこのままであれば、ゆっくりと滅亡へと向かっていくだろう。
私はこの国が好きだ。色んな国を見て回ったが、やはりこの空の国を愛している。
だから守りたい。この国の未来を、そして我が子供たちの行く道を……。
だが、私にはその方法がわからないのだ……一体どうすればいい、どうすればいいのだ」
その言葉の重みと喘ぐように苦悩するヨズクの姿に彼が悩み続けた歳月が窺い知れる。
答えのない問いに必死にしがみつき、答えが見つからないとしても諦めることなく探し続けている。
シェイムは開いた口を一度閉じ、思いを巡らせる。
友のその姿に、手を伸ばしてやりたいと思っている。いつかは差し伸べられなかった手を、今ならば。
しかし、シェイムが持っている物は淡い希望である。
ともすればすぐにでも吹き飛ばされ、消えてしまうような儚いものであった。
人は絶望の中に希望を見た時、それに縋り付いてしまう。助けて欲しいと切に願っているから。
だがその希望が消えてしまった時、真なる絶望が訪れる。
希望を失った者は絶望の更なる底を見ることになるだろう。
もはや立ち上がることさえ出来なくなる。それは希望という名の底なしの落とし穴だ。
しかし。
「あの子が……シズカの名前からその名がつけられたシズクが……最後の子に私はしたくないのだ。
リード、いやシェイム・フリードリヒ。貴方の知恵を私に貸して欲しい。
この国を救う手立てを私に……。教えて欲しいのだ……ッッ」
しかし、ヨズクのこすり付けんばかりに頭を下げたその姿を見て、その言葉に込められた思いを感じ取って。
シェイムは長い葛藤の末に決断するしかなかった。
希望をあの子に託すしかないと、思い至ったのだ。
「一つだけ」
「…………?」
「一つだけ、可能性がある」
「お、おぉ……それは真か?本当にこの破滅から逃れられる手段があるのか?
……何でもいい、その方法を私に教えてくれっ。私にできることなら何でもしよう。だから!」
「落ち着くのじゃ、ヨズク。それと顔をあげてくれ」
「その方法を知るまではあげられぬ。頼む、どうか、どうか……」
「全くお主は……」
どこまでも愚直な男じゃ。
ぽつりと呟いた声は小さくて、いつまでも懇願するヨズクの耳には届いていないだろう。
苦笑しながらも、シェイムは彼の肩に優しく手を置いた。そして話し出す。
これは可能性の一つだ、と。
それは確実な手段ではない。付け加え、今すぐに解決できることではない、とシェイムは前置きとして話した。
ヨズクは頷く。今のフリューゲルの現状を考えれば、例え僅かな可能性であったとしても構わない。
それにヨズクの種族は長命であった。
時間がかかったとしても数百年単位でなければ問題はない。
未だに若々しい外見を保っているヨズクを見ればそれは一目瞭然だろう。
同年齢で自分だけ老いた姿になっていることについて、ちょっぴりそのことを気にしているのは爺だけの秘密である。
「ならば話そう……これは神の呪いについての話じゃ」
「リード、それはまさか」
ヨズクの言葉をシェイムは手で遮った。
何か言いだけなヨズクはそれで押し黙る。シェイムが話すことは昔々の更に昔、神話の時代の話だった。
昔話を語りながらシェイムは思い浮かべる。金色の髪の少年のことを。
母親に似て美しい容姿をしながら、憎しみの炎を抱いているあの子供のことを。
彼はありえない存在だった。それはステータスやクラスといった能力面という意味ではない。
言い方を変えるならば、産まれるはずのない存在だったのだ。
(ミライとあの男から子が産まれることなぞありえぬはずじゃった……。
いくら愛し合ったとしても神の呪いには逆らえぬ)
なのに彼は産まれた。そして何と言う因果か、シェイムの前に現れたのだ。
半信半疑で疑いつつも、シェイムは動向を見守った。
いくら本人がミライの子供だと言っても、実は他人の空似ではないかと内心では思っていたのだ。
決定的だったのは新人戦でのクロイツとの戦いの時。
森羅万象を発現した時のミコトは荒ぶる力に翻弄され、暴走していた。
それをいち早く察知したシェイムは大急ぎで席を立った。何故ならあの力を発現した者はその力に耐えられる事が出来ない。
森羅万象の使い手は時折現れては、その強大すぎる力に自ら押し潰される。
シェイムが長年生きてきた中で確認できた使い手は五人。その中で四人は森羅万象によって死亡している。
生き残った一人はミライである。彼女はうまくその力と付き合っていた。
シルフィードという精霊のサポートがあったおかげでもあるだろう。
その点だけを言えばミコトもシルフィードと契約している。
精霊の力があればある程度は森羅万象も緩和できていただろう。
しかしここで問題なのは、ミコトが森羅万象の力を暴走させつつも、自らの力だけで収めたというところだ。
そんな芸当は精霊の契約者であろうと出来ない。暴走したが最後、甚大な被害を周囲にばら撒きながら自滅する。
それは過去の使い手たちが証明していた。
例え風の魔術師として優れた力を持つミライであっても間違いなく命を落とす。
(森羅万象の力にも耐え切る体……。エルフともう半分の血……)
遠く遠く、帝都のグリエント魔術学校にいる彼をシェイムは思う。
それはいつものふざけた調子ではなく、真摯に彼の行く末について思っていた。
(ミコトは破滅を望むのじゃろうか。あの力を十全に発揮すれば、おそらく誰も敵うまい。
あるいは、望めばこの世界すらも……しかし)
今シェイムがヨズクに話している通り、彼はフリューゲルにとっての希望ともなる。
ヨズクの顔が除々に明るくなっていっている。これはまぎれもなくミコトのおかげである。
フリューゲルに訪れるであろう金色の髪のエルフがこの国を救う。
そんな御伽噺のような話をシェイムはヨズクに話していたのだ。
破滅か、救いか。
小さな体に込められた大きすぎる力を宿した少年は一体何を成すのか。
それは全てを知る賢者と言われるアークウィザード、シェイム・フリードリヒにも見通せることではなかった。




