第八十三話 紫の魔術
これから行うことは繊細で、もしも曖昧な気持ちのままで試みようとしても、必ず失敗してしまうだろう。
今すぐにでも答えを出さなければならない。
俺はシルフィードをどうしたいのか。どう思っているのか。
そしてこれはあの日、あの小屋の中でシルフィードと再会した夜の続きでもある。
俺はあの時、わからない、と口にした。
どんなに悩んでもわからなくて、時間が経ったとしても答えが見つからなかった。
裏切りは勘違いだった。それがわかっても、心が納得していなかった。
だから俺はもっと単純にわかりやすいメリットだのデメリットだの、そんな計算を頭の中で考えた。
(そうして小屋から出て行く時に、付いてくるなら付いて来い、って言ったんだっけ)
帝都へと向かう旅立ちの日。
所在なさげに俺を見送ろうとするシルフィードに俺はそんなぶっきらぼうな言葉をかけた。
その言葉を聞いてシルフィードは少しの間呆然として、それから満面の笑みを浮かべたのだ。
はっきりとした答えを出さずに、俺はそんな言葉で逃げてしまった。
シルフィードに対する答えを有耶無耶にして、そうしてここまで来てしまった。
『…………』
俺とマリーを守るように背中を向ける小さな少女。
影ながら俺のことをいつも助けてくれた。憎しみの言葉を投げかけようと俺を見捨てなかった。
俺の……俺と契約した風の精霊。
いつも明るくて無邪気な少女の姿に俺は元気を貰っていたのかもしれない。
毎夜のように見ていた悪夢も、シルフィードと過ごしている内に少しずつ減っていった。
起きた時にはどんな夢かも思い出せないようなものだったが……。
体が汗でびっしょりといつも濡れていたから、きっとミライがいなくなった時のことを思い出しているのだろう。
あるいはあの館での惨劇のことかもしれない。
そんな時、いつもシルフィードは俺の傍にいてくれた。
飛び起きて興奮状態に陥っていた俺を正気に戻るまで優しく風が撫でていた。
柔らかな風に俺はようやく気付き、そして頬に暖かなぬくもりが触れる。
シルフィードが慈しむように俺の頬を撫でていたのだ。
(いつの間にか……)
そんなことを、そんな日常を繰り返している内に。
初めはシルフィードがいることに違和感しか感じなかったのに。
シルフィードがいて当たり前だと思うようになってきていた。
(これが……その答えなのか?)
信じることを嫌い、臆病になっている俺にははっきりと断言することは出来ない。
言葉にしてしまえば、また裏切られてしまいそうで怖かった。
だけれど俺たちは繋がっている。契約という力が言葉にしなくとも伝えてくれる。
だから俺は伝えたいと思った。
この気持ちを、言葉に出来ない言葉を君に。
『……っっ』
その瞬間、びくり、とシルフィードの背中が震えた。
きっと彼女にもこの気持ちが伝わっているのだろう。
細かく震えている姿に、俺は無性にどんな顔をしているのか知りたくなった。
今は一方通行で俺が気持ちを伝えているだけで、シルフィードの心がどうなっているのかもわからない。
ただ、きらりと一滴、何かが地面に向かって落ちていくのだけは辛うじて見えたのだった。
「……もういいですわ!」
ようやくマリーの治療も終えようという中、プリムラの苛立った叫び声がフィールドに響いた。
何事だ、と視線を向ければ注意を促していたリラにプリムラが不満を爆発させてしまったようだ。
「急にどうしたのプリム?やっぱり様子がおかしいよ。そんな声を荒げることなんて今までなかったじゃない」
驚いているのは何よりもリラだっただろう。
そこまで怒りを顕にするとは思っていなかったのか。
傍から聞いていれば口うるさく注意されているだけのように思えた。
プリムラは激情のままにリラを睨んだ。
その迫力に気圧されたリラは身を引きながら離れる。
突然の仲違いに観衆はざわめく。なんだなんだ、仲間割れか?と囃し立てる声さえあった。
そんな周囲の喧騒すら外に置いて、リラは困惑気味にそれでもプリムラに話しかけようとしていた。
リラの手がプリムラに伸びようとした次の瞬間、信じられないことが起きた。
「……え?」
炎が袈裟斬りにリラの体を走る。何が起こったのかもわからず彼女は小さく呟いた。
そんな声が何故だがはっきりと聞こえてきた。
目の前で起きたことを頭が認識しない。鮮やかな、それこそ迷いも躊躇もない斬撃。
リラの手を拒絶するように……プリムラが彼女を斬った。
突然の凶行に斬られた本人でさえ呆然とする。
しかしそれだけでは終わらなかった。
プリムラは左手に持っていた炎の騎士盾をシールドバッシュの要領でリラを殴り飛ばしたのだ。
まるでスローモーションのようにリラの体が軽々と飛んでいく。
その光景に誰しもが言葉を失うのだった。
「リラ、貴方のことは友人だと思っていたのですけれど、私の邪魔をするならいりませんわ」
淡々と冷たい言葉が静寂に満ちた空間に空しく響いた。
プリムラの言葉を耳にしても、俺は周りの人間と同じように動揺してしまい動けなくなっていた。
まるで物のように地面を転がっていくリラ。
時が止まった空間でプリムラだけが動いているかのような錯覚。
空間を作り出した主は何事もなかったかのように顔をこちらに向けたのだった。
「さぁ、続きをしましょう。ミコト」
まるで血糊を払うように魔剣を振って歩き出す。
リラがどうなったかなんてもうその頭の中には存在していない。
瞳の中にあるのは俺だけだった。俺だけを執着している。
『ミコト……プリムラは異常なのです』
それは再三シルフィードが俺に告げていたことだった。
事、ここに到って俺はようやくその言葉に耳を貸すことが出来た。
生徒の間では黒という立場に驕ることはせず、分け隔てなく皆と接していたというプリムラ。
優しくて思いやりがあり、常に彼女の周りには人が集まっていたという。
そんな彼女が変貌してしまったのは俺のせいだと思っていた。
いや、少なからず今だってそう思っている。
「うふふ……」
だがこの執着は異様だ。まるで俺以外の人なんてどうでもいいと思っている。
友人という存在に憧れ、小さな子供たちが仲良く走り去る姿を羨ましいと言っていた彼女はもういないのか。
時が経てば全ては移ろいゆく。
その言葉だけで全て証明できるのか?
いや、それでも変わらないものだってあるはずだ。それがプリムラにとっては友人という存在だったはずなのだ。
俺に友だちだと言いながら、リラを切り捨てる。
友だちであろうとしているのに友だちを邪魔者だと吐き捨てる。
そんな矛盾を抱えている今のプリムラが正気だとは思えない。
「ミコトっ」
焦るようにマリーが声をあげる。それだけで俺はなんとなく察して頷いた。
マリーは立ち上がり、あんな恐ろしいことをしたというのにプリムラのことなんて見向きもせずにリラの元へと駆け寄っていく。
彼女を治療しようというのだろう。魔術障壁もなくプリムラの攻撃を受けたのだ。
リラも制服を着ていたから多少の防御力はあっただろうが、重傷であるのは間違いない。
プリムラは走って行くマリーを一瞥するだけで何もしなかった。
彼女の興味はもう俺にしかないのだろう。
俺の両腕の火傷はすでにすっかり治っていた。
自分で回復魔術をかけたとしてもこんなにうまくはいかないだろう。
さすがだな、と思いながら俺はスキルを発動させながらプリムラを見る。
プリムラに対して冷静になった今だからこそ感付く。もしかしたら、と。
トゥルースサイト。真実を見通す瞳。
常時発動型のスキルであり、普段はあまりに見えるものが多いため抑えている力だ。
それをあますことなく開放する。途端に飛び込んでくるたくさんの情報に軽い頭痛がした。
相手の魔力を見るだけならここまですることはない。意識を少し強くするだけでも見えてくるだろう。
だが俺が見たいのはそこに隠されているだろうある痕跡だった。
そしてその直感は当たっていた。
(くそがっ!くそっ、くそっ!!!!)
叫びあがりたい程の強い衝動に駆られる。それは後悔と怒りによって引き起こされたものだ。
トゥルースサイトによって見えたもの。
それはプリムラの魔力である燃え盛る炎、その中に潜んでいる紫色のモヤのようなものだった。
魔力は属性によって色が変わる。火の属性であれば赤に、水の属性であれば青に。
そして紫は属性としては混合。火と水を組み合わせる特殊な魔術として使われている。
その効果は……対象の精神異常。
『しっかりするのですよミコト。何があったのです?』
シルフィードに宥めてもらい、どうにか平静を取り戻す。それでも燻っている感情はなくならない。
自分へのあまりの馬鹿さ加減に後悔と怒りが募り、プリムラに精神異常の魔術をかけた奴を心底憎む。
俺はシルフィードに自分の見たことを話した。
こいつも俺と同じように感じたのか、姿さえ見えない術者に怒りを顕にしていた。
(お前の言葉にもっと耳を傾けるべきだった……)
『今はそれよりも考えることがあるのですよ!来るのです!』
そう、プリムラの異常の原因が見つかったとしても決闘は終わらない。
プリムラは嬉々とした表情で走り寄ってきていた。
その速さはブーストをかけた俺よりも速い。高速思考の助けを借りて始めの斬撃をかわす。
かわされることなど始めから承知の上とばかりに炎の騎士盾での殴打が続く。
盾の射程は短くともその攻撃範囲は面。
接近された時点で回避は難しく、魔術障壁で受けることを選択する。
ガキン、と固い物でもぶつかり合った音が響いて難を逃れる。
「いい判断ですわね!」
喜びの声をあげてもその手は緩めず、剣と盾のコンビネーションで隙のない連続攻撃を続く。
よほど訓練をしているのか、細身の体だというのに疲れ知らずに止まることがない。
反撃を打ち込む機会は何度か訪れたが、無手で攻撃するわけにはいかない。
あの鎧に当たれば逆にダメージを負うだろう。防具がない部分を狙おうにも騎士盾がうまくカバーしていた。
戦い慣れている。如実にそれを感じた。
「プリムラ!お前は操られているんだ!正気に戻れっ」
「うふふ!その他人行儀でない口ぶり、好ましいですわっ」
説得を試みようとしても聞く耳を持ってくれなかった。このまま説得を続けても効果は薄いだろう。
避け続けるのにも限界がある。あのエンチャントライズという魔術が切れるのを狙うか?
それはいつ、どこまで持続する?
切れたとしてもかけなおされたら?
他の手段を回避しながら目まぐるしく考えるが、やはり有効な手段は一つしかなかった。
(シルフィード)
『言わずともわかっているのですよ。私は貴方の精霊なのですよ?』
退避していたシルフィードに一瞬だけ視線を向ければ、にっこりとした笑顔が出迎える。
あいつ……。
必死にプリムラの攻撃を避けているというのに、思わずつられて笑ってしまいそうだった。
シルフィードの力を借りる。
つい先日の俺なら考えもしなかったこと。あの時の再現が出来ればおそらくプリムラの力にも引けを取らない。
そして真っ向からプリムラと戦い打ち勝ち、彼女にかけられた魔術を解く。
それがここまでプリムラの状態に気付くことが出来なかった……俺に出来る唯一の償いだ。
「こうやって踊るのも楽しいですけれど、そちらからアプローチしてくれないのも興ざめですわね。
……そうだわ。ミコトの得意な距離で戦うなら積極的になってくれるかしら」
そう言って猛攻を繰り返していたというのに、あっさりとプリムラは手を止めて俺から距離を離した。
一向に汗をかいていない様子からして、あれが全力というわけでもないのだろう。
俺は額にかいていた汗を拭いながら、シルフィードに心の中で合図を出す。
ここが好機。戦況を変えるのならば今しかない。
魔剣を振りかぶり、あの飛翔する高速の斬撃を繰り出そうとしているプリムラの足元で。
シルフィードが退避している間に仕掛けていたラピッドボムが炸裂した。




