第七十二話 再会は突然に
今朝の寝起きは上々で、顔の上にシルフィードがべったりと張り付いて寝ていた以外はなかなかいい朝だった。
ぺいっ、と投げ捨ててからベッドを抜け出して背伸びを一つ。体が伸びる気持ちよさと共に段々と意識が目覚めていく。
後ろから文句の声が聞こえてきたが黙殺を決め込み、外に出る為に着替え始める。
きゃー!という黄色い声がまたしても後ろから聞こえてきたが再度の黙殺。
こいつに構っていたら一向に話が進まないことは、日頃一緒にいるおかげでそろそろ理解してきた。
悲鳴を上げつつもシルフィードが凝視しているのが体を這うような視線であからさまにわかったが、それも努めて無視する。
薄暗い町並みが少しずつ日が当たることで色を取り戻していく光景。
朝特有の風景が視界に過ぎっては流れてゆく。
一定のペースを保ちながら、頭の片隅でなんだか不思議な光景だな、と思っていた。
俺は体作りの一貫として毎日欠かさずに街中を走るようにしている。体が鈍ることを嫌ったからだ。
誰か特訓できるような相手でもいればもっといいのだが、グリエントで見つけるのは難しいだろう。
それはさておき、今日は特に空気が澄んでいるような気がした。
走り終えた後、公共の水飲み場で喉を潤していた俺はそんな空気を腹いっぱいに吸い込んでいた。
清々しい。スポーツ選手にでもなった気分だ。
これから宿に帰って朝食をとれば、ちょうどいい時間に登校できるだろう。実に順調だった。
もしかしたら今日何かいいことでもあるのかもな、と乙女な思考になりつつ帰路につく。
まさかその予感が別の意味で当たっていたとは、その時の俺は気付きもしなかった。
事の発端は唐突に。思いがけない姿になって現れる。
今日も相変わらずマリーに対しての微妙な空気が教室に漂い、俺は心の中で舌打ちをしながら表では人の良い笑顔でクラスメイトと接していた。
今日は何の授業がある、宿題はやってきた?などと何の変哲もない会話を繰り返していた。
活気のある騒がしさが教室を包み込みこんでいた。このまま先生が来るまでは思い思いに皆過ごすことだろう。
そんな中、まるでそれを切り裂くように教室の扉が勢いよく開かれる。
急いで走ってきた生徒が教室に飛び込んできたのか。
誰もがそんな風に思いながら気軽に視線を扉の方へと向けた。
何気なく向けた視線は少しだけその人物に留まり、それからまた騒がしく友人たちとの会話に戻るだろう。
誰もがそう思っていた。
だが視線はその人物に縫い止められる。焔の髪を持つ美しい女の子から目が離せなくなる。
勝気そうな切れ長の瞳は誰かを探すように教室中を見渡し、周りの視線なんて一つも気にしていなかった。
余程急いでいたのか肌に薄っすらと汗が浮かび、赤みが増した頬は彼女の美貌を更に引き立たせる。
俺に慣れているであろう同じクラスの連中でも、男女問わず見惚れている奴らが何人かいるようだった。
「あれって三年の……」
ぼそぼそとそんな話し声を聞こえてくる。どうやら先輩であるようだ。
俺はそんな先輩から何故だか目が離せなかった。
確かにあの人は美人だが、俺は別にそういう意味で彼女を見ていたわけじゃない。
もっと別の意味で……。
自分でもよくわからない。わかっているが、わかっていない。そんな気持ちだったのだ。
何処か奇妙な懐かしさを感じながら俺がずっと見ていると、彼女の彷徨っていた視線が不意に俺の視線と交差した。
「……あっ……」
彼女の口から漏れ出るそんなささやかな声が、どうしてだか俺にははっきりと聞こえた。
視線があった彼女は一瞬だけ驚きの表情を作ると、その次の瞬間には泣き笑いのような……感情が複雑に入り混じった表情を浮かべる。
切ないその表情からは今にも涙が溢れてしまいそうだった。
そんな顔を向けられる意味がわからない。
俺が戸惑うよりも先、彼女はいても立ってもいらずといった感じに俺の方へと駆け出した。
短い距離を走りながら万感の思いを込めて俺の名前を叫ぶ。
「ミコトっっ!!」
「!?」
俺はこの学校ではちょっとした有名人だから別に俺の名前を知っていても不思議じゃない。
よく声を掛けられる事だってあるし、握手してください!などというどこぞのアイドルまがいのお願いをされたことだってある。
だが、この先輩のようにいきなり抱き締められたことなんて一度もなかった。
スレンダーな見た目に反して意外と胸はあるのか、柔らかく大きなふくらみが体に押し付けられる。
俺の首の後ろに回された腕はきつく結ばれ、二度と放さないとでも言うかのようだった。
密着されたこの状態では女性特有の甘い匂いが呼吸をする度に否応なく鼻腔に入る。
俺の冷静さを奪うには十分なものばかりだった。
「ちょ、ちょっと待て。俺になんで……」
素の自分が出ていることさえ気付くことが出来ず、なんとか彼女を離そうとするものの意外と力が強い。
無理に離そうとすれば傷つけてしまいそうで怖かった。
周りに助けを求めようにも、唖然としてしまっていて誰も頼りに出来そうにない。
クラスメイトの中にマリーもいたのだが、どうしてだか不機嫌そうにこっちを睨んでいた。何故だ!?
こんな時に限ってシルフィードは宿に置いてきてしまったのが悔やまれる。
まだ眠いのです……とか眠気眼にいうものだから、これ幸いにと静かに抜け出してきたのだ。
最近べったりだったからちょうどいいと思っていたのだが……くそ、しくじった。
「やっと……貴方に、私は……」
ぽつぽつと俺にだけ聞こえるような弱い声で彼女は呟く。不明瞭な声で片言ずつしか聞こえない。
細かく震えているその姿はまるで幼子のようだった。
迷子の子供がようやく親を見つけ、その胸に飛び込んでしがみついているかのような。
俺よりも年上の人に言うことでもないだろうが、そんな印象を抱いた。
困り果ててしまった俺に救いの手を伸ばしたのはクライブ先生だった。
いつの間にか始業の時間になったのだろう。
彼女と同じように教室のドアをくぐった先生はいきなり抱き合っている二人(一方的)を目撃し、驚きながらも声をあげた。
いいぞ。普段は頼りなくて何の特徴もない先生だと思っていたが、やるじゃねぇか!
「君!こんなところで何をしているんだ!」
「…………」
「って、おもいっきり無視されてる!?これが二人の世界ってやつなのか!?」
ひどくショックを受けたように仰け反って、クライブ先生は教卓に手をついて寄りかかった。
前言撤回。やっぱり頼りになんねぇわ、この先生。自分でどうにかするしかないようだ。
俺は多少強引にでも体を捻ってこの抱擁から抜け出すことにした。
って、このっ……な、なかなか抜け出せない!
よほど鍛えているのか、一般的な女子と比べるまでもなく力強い。
本人は意識的にしているわけでもないのだろう。抱き締めてうわ言のように小さな声を呟いているだけだ。
少し冷静さを取り戻した俺は高速思考を使って彼女のことを観察する。
いい匂いがするだとか、体柔らかいなだとか、どうでもいい情報を省きながら情報を整理する。
視界の端に映り込んだのは黒の記章。クロユリ。実力者ぞろいのエリートクラス。
三年の先輩でもあるらしい。なかなかの有名人らしいが、今までそんな話を聞いたことがない。
今まで休んでいたか、あるいは所要で学校に来れなかったか。
俺がただ単に聞き逃していた可能性もある。
どちらにしてもそんな人が俺に用事があるとは思えなかった。ただの興味本位か?
だが……向けられた感情を思えばそれだけではない気がする。
俺もこの人を知っている。そんな気がするのだ。
どちらにせよ、考えるだけでは答えに辿り着けない。
高速の世界に到って出した結論は現状の打破にはほど遠いものだった。
抱き付かれた状態のままでいるわけにもいかず、俺はせめて彼女が何者であるかだけでも知っておきたかった。
本人の許可なくあれを使うのはマナー違反に違いないが、決断した後の俺の行動は速かった。
「心技体の理を今ここに、アナライズ」
相手のステータスを覗き見れば、魔道具などの特殊な装備でもない限り隠すことは出来ない。
それは名前でも同じことだ。例え偽名を使っていようとも、アナライズの前では本当の名前が示される。
俺はアナライズで彼女の名前を知ることが出来た。
知った上で、俺は信じられないものを目にしたような面持ちでステータスを凝視していた。
俺がこの世界で産まれて幼少期を過ごしたリヒテンという街。心の奥底から幸せだったと断言できるあの時。
俺が初めてミライ以外の人とまともに話し、過去のトラウマから素直になれなかった子供時代。
それでもひどい遠回りをしながら俺はある女の子と友達になった。
残念なお嬢様。マイペースで変な所はあったけれど、周りに元気をくれた紅の髪を持つ女の子。
ほんの少しの間だけ俺と友達になったその子の名前は……プリムラ・ローズブライド。
そう、見違えるように成長を遂げたその子は今、俺の胸の中にいる。
「ミコト、私……ようやく探し当てましたわ。ずっと、ずっと……探していたんですの」