第六十八話 決別
黄昏に染まる教室の中にはまるで止まったかのような時が流れていた。いや、事実この世界は止まっている。
そこはどれだけの時間が経とうと変わりようのない世界。
ある少年が生きていた、もう戻ることが出来ない過去の遺物。
心象世界と呼ばれるこの場所で、ミコトと瓜二つのようであり、今の彼より若干幼げな少年が寝息を立てていた。
いずれ美しく咲き誇る、そんな願いを母から込められた少年の名は咲という。
机の上で腕枕をしてすーすーと寝入っているサキは一向に起きる様子はなかった。
例え彼のそんな姿を眺める黒い影が突如として現れたとしても。
「ヨクネテイルネ?ドンナ、ユメヲミテイルノカナ?」
口もないというのにその影の言葉は部屋の中に不思議と響いた。
男性のようでもあり女性のようでもある、その蠱惑的な声に応える者はいない。
さらりと流れる金色の髪に手を伸ばそうとしていた影だったが、何かに気付いたかのように動きを止める。
「……オヤ?モウキヅイタノカナ?」
影はそんなことを呟いた。そして廊下の方を振り向くような動きをとる。
形そのものが黒く塗りつぶされている影には、前と後ろがどうなっているかもわからなかったが。
ともかく、影は廊下の方を見たのだった。
教室の入り口となっている、教卓がある前の方にある扉。そのスモークガラスの向こうに人影が見えた。
一部分しかガラスの向こうには映っていなかったが、その体躯は細身で小柄だった。
女性とおぼしき人影は扉の前に立ったままで、教室の中には入ろうとはしない。
声を発する様子も見られず、沈黙を保ったままだった。
ゆっくりと黒い影はその人影の元へと歩いていく。
並べられた机の間を歩きながら教卓の前を横切り、たっぷりと時間をかけてその扉の前へと立った。
ガラスの向こうの人物は微動だにもしない。
人形のように固まっているその人物に黒い影はおかしそうに話しかけた。
「ヤァ、ゴキゲンハ、イカガカナ?イツモ、オツカレサマダヨ?」
「あの子たちに手を……出さないで」
その声はやはり女性のものだった。押し殺した硬い声に黒い影は苦笑を洩らす。
「セイキュウダナァ。モット、カイワヲ、タノシモウ?」
「…………」
「ドウシテ、ボクガ、ココニイルッテ、ワカッタノカナ?」
「……影の数が明らかに少なかった。だから何か起きていると思ってサキのことが心配になった。そうしたら貴方を見つけたの」
「ナルホドネ?コレガ、アイ、ッテヤツナノカナ?」
殊更面白いものでも見つけたかのように上機嫌に、近場にあった机の上にひょいと黒い影は飛び乗った。
ぶらんぶらんと足を振りながら肩を揺らすその姿は、まるで子供のようだった。
「貴方は誰なの?そんなにはっきりと喋ることが出来る影なんて見たことがない」
「フフフ、アハハ!ワカラナイ?ワカラナイノ?オシエテアゲヨウカナ?ドウシヨウカナ?」
「っ!だったら強引にでも消えてもらうしかないわっ!」
「ウタウ?ウタエバイイヨ!ソレハモウ、ボクラニトッテ、タダノコモリウタダ!」
黒い影は唐突に身を乗り出し、滑るように扉の僅かな隙間から廊下側へと抜け出した。
影には元々形なんてものは関係なかったのだろう。
彼女の前へと躍り出た黒い影は寸分違わずに元の形へと戻っていた。
驚きに目を見張った彼女……ミライはしかし、毅然とした態度をとって影へと向き合う。
「私は……私は歌うわ。何度でも。例え声が枯れ果てようとも。子供たちの為に歌い続ける」
「ケナゲダネ?ダケド、ムダダヨ?ボクラハ、ミコトノカナシミ、ミコトノイカリ、ミコトノニクシミ。
ミコトガ、ソノスベテヲ、ステナイカギリ、ボクラハ、ウマレツヅケルヨ?」
「……悲しみはいずれきっと癒えるわ。ミコトの周りにはたくさんの優しい人がいるから。
怒りも憎しみも、幸せな時を過ごせば忘れさせてくれる。ミコトは幸せに生きていいんだよ」
「ダケド、ミコトハ、ソレヲノゾンデイナイヨ?」
「そんなことない。今はそれが見えなくなっているだけ。私が死んでしまったから……でもそんなことは気にしなくていいの」
「…………」
「ただ幸せでいてくれたら、それだけで私はいい。仇をとろうとしなくていいの。だから貴方も……」
「……ナーンニモワカッテ、ナインダネ?」
「え?」
ぬぅっと影はその場から体を伸ばして、ミライの顔を間近から覗きこんだ。
生物ではありえない動きに本能的な嫌悪感が刺激される。
体を引こうとしたものの、ミライは黒い影から目を離すことが出来なかった。
「ミコトガ、カカエテルヤミ。ソレハ、ヒトツジャナイ。アノヤカタノサンゲキ。ミテイタヨネ?」
「ッ!!」
「クリカエシ、クリカエシ。コロシ、コロサレ、ウラミ、ウラマレ、ナキサケブコエガ、イマモ、ミコトヲオソッテイル。
シアワセ?ソンナモノデ、コノコエガ、キエルノ?」
黒い影の声に怒りも憎しみもなかった。
純粋な子供がなんでもないことを大人に訊ねる時のように、ただ不思議そうにしているだけだった。
すぐに何も答えられないミライを嘲笑するように、忍び笑う黒い影。
だがミライはきっ、とした眼差しをもって影をにらみつけた。
「確かにそれは消えないかもしれない。もしかしたらずっと、死ぬまで聞こえ続けるのかもしれない。
だけど私は知っているの。いつかきっと笑顔になれるから」
「ウソダネ?ドウシテワカルノ?」
「だって私も、とても辛い……それこそ死んでしまった方がよかったと思っていた頃があったから」
「…………」
「私はそれでもたくさんの人に助けられて、愛する人を見つけて、それからようやく心の底から笑えるようになった。
長い時がかかるかもしれない。その間にもっと苦しいことがあるかもしれない。
でも大丈夫。ミコトはきっと大丈夫。なんたってミコトは私の子供なんだよ」
そうして最後には柔らかにミライは笑った。
ミライの言葉には現実的な確証なんて一つもない。自分がそうなったから、ミコトも同じようになるとは限らない。
荒れ狂ったミコトのあの姿を見ていれば、そんな未来があるとは到底思えないだろう。
だが、そこには絶対的な母親の信頼があった。
子供のことを信じる強い絆がその笑顔には現れていた。
黒い影はうろたえる。とても顔を覗いてはいられなくなり、体を元に戻してしまう。
あまりの眩しさを感じた黒い影は、あれだけ饒舌であったのに無言のままに体を床に溶かして逃げ帰った。
それを見届けたミライは、そっとスモークがかかっていない窓から教室を覗いた。
金色の髪を持つ少年……サキの姿がそこにはあった。
未だに眠り続けているが、ミライにはもうすぐ少年が目覚めることがわかっていた。
黒い影がいなくなった今、その呪縛は解かれるだろう。
サキの存在は少なからずミコトにも影響を及ぼす。だからこそ黒い影は邪魔をされない為にもサキを眠らせていたのだった。
目を閉じたままのサキの姿を目に焼き付けて、ミライはサキに向かって手をかざした。
彼女の手の平から光の粒子のようなものが飛んで行き、サキの体を包み込んでやがて消えていった。
それに何の意味があるのかはサキが気付くことはないだろう。
誰もいない廊下を一人歩み去る。
影は何処にも見えない。あの自意識を持つ影も姿を現すことはなかった。
そう、あの黒い影の存在を忘れてはならない。
「やっぱり、ここじゃダメなんだろうね……」
ふと、歩いていた足を止めるミライ。
周りはすでに同じような廊下が続くばかりの光景。この世界では当たり前の光景だった。
心象世界。それはその人の思いによって何処へでも飛んでいける。
思いが強ければ、サキがいる教室のように固定されている場所だって存在している。
そう、思いがとてつもなく強い……ミコトの深層へといけばあの黒い影の根源へと辿り着くかもしれない。
だがそれはしかし。
ミライは振り返る。そこは長い廊下が続くばかりで果てがない。どれだけ進んでいこうとも、終わりがない永久回廊だ。
あの教室へと行くには心を強く持って進んでいくしかない。
それも、ここにいるからこそ簡単に辿り着けたのだった。
深層へと行ってしまえば、おそらく後戻りすることは難しくなる。サキに会うことも出来なくなるだろう。
「……」
ミライの迷いは一瞬だった。
金と黒がまばらとなった髪をたなびかせ、深層へとその足を進めていく。
時間が刻々と迫っているのはミライも感じていたことだ。
自分の体の変化も然り、時折影たちの声が聞こえ始めていた。
あの黒い影のようにはっきりとしたものではなかったが、それでも呪いに影響を受け始めているのは明白だった。
(私が私でいる内に……)
決着をつけなければならない。
毅然として顔を上げた彼女の表情には、もはや迷いは見当たらない。
胸の奥では子供たちのことを思い浮かべながら……そうして彼女の姿は廊下から消えてなくなった。




