第六十話 侵食
残酷な描写がありますので苦手な方は気をつけてください。
あたしはそれはもう必死に走った。泣きたくなる程走った。
師匠に鍛えてもらったおかげで体力には自信がある方だったが、それでも息が切れる程に走った。
……あたしの体力を奪ったのは、主にトラップがひしめく廊下を全力疾走したせいではあったのだけど。
ともかく、あたしはようやくゴールに辿り着いた。
目的の場所についたというのに休ませてくれない妖精さんに恨み言を抱きながら……扉を開く。
そこであたしはようやく妖精さんに本当の意味で感謝をすることになる。
何故なら、黒い羽を生やしたミコトのいる場所へと連れて行ってくれたのだから。
「なにあれ……」
呆然と呟いて立ち尽くすあたしに誰も気付かない。おかげでじっくりと見渡すことが出来た。
頭と胴体のようなものがついている青い物体に覆い被さっているのは……シュトラウセ?
状況がよくわからない。
ミコトの状態もそうだし、えっ、床が割れてぐちゃぐちゃになってる!?
この試合会場の床や壁は魔術に対して強い抵抗がある特殊な物のはずよね。
一体どうなっているの……?
そう思って戸惑っていたあたしだったけど、本当ならすぐにでも動くべきだったのだ。
「ミコト?」
シュトラウセを見下ろす形で傍にいたミコトが、彼を押し退けて青い物体に向かって手をかざし始めた。
一体あれに何の意味があるのだろう。ミコトの表情も隠れていてよく見えなかった。
それにミコトの右手が何か……こう、揺らいでいるような?目の錯覚?
あたしが眉を寄せていたのも束の間、変化は急に訪れた。
青い物体を中心に唐突に大きな魔法陣が現れた。驚きに目を見張る。
あんなに大きな陣は見たことが無い。それに……なんて禍々しい。
魔法陣……魔法のように強力な魔術を使う際に使用する陣、というなんともややこしいものだけど、それは使用する魔術によって色々と違いがある。
例えば紋様が違っていたり、陣の形だったり。
一番の簡単な特徴は陣から発する光。使う属性によって発光色が決まっているの。
火なら赤、水なら青、風なら緑、土なら茶といったようにとてもわかりやすかったからよく覚えてる。
それがあの魔法陣の光の色はそのどれでもない。
黒色。何でもその色で飲み込んでしまいそうな怖い色だった。
「…………!!」
シュトラウセはいつもの彼らしくなく、突き飛ばされた後は大人しくされるがままにされていた。
だけどその時だけは顔色を変え、ミコトにしがみついて何かを叫んでいるようだった。
あたしはとても嫌な予感がして、どうにかしなきゃとは思っていたけれど、肝心の方法がわからない。
それにあそこに近づくには何か怖くて、足を踏み出す勇気が出ない……結局あたしは見守っていることしかできなかった。
黒色の魔法陣は程なくしてその光を失っていった。
光が収まった後は特に何も起きなくて、ただの杞憂だったのかな、と胸を撫で下ろした。
だけどまだ何も終わっていなかったんだ。いえ、むしろこれからだったんだ。
急にキーン、と甲高い音が頭の中に響いて思わずしかめっ面をしてしまう。
けして音はそこまで大きくないけど、妙に心を不安にさせる嫌な音だった。
「えっ!?」
片手を頭に当てながらその時にあたしが見たものは、ミコトの傍で空中に浮かんでいる青い物体。
その真下には光を失った魔法陣があった。
少しずつ魔法陣は小さくなり、青い物体に向かって吸い込まれるように消え、まるで鼓動でも打つように青い物体が震るえてそれに応える。
新しい命が産まれるかのように震動を続け、その青い体をあますことなく黒色に染めてゆく。
嫌な予感が更に高まる中、青い……いえ、もう真っ黒な物体はブシュッという生々しい音を響かせて手足がはえていった。
あたしはその時になってようやく、あれがただの物体ではなく人型の何かだということに気付いた。
あれが人の形を作った時、悪寒が背中を走った。
あれがどういうものなのかは知らない。だけど本能があれは表に晒し続けてはいけないものだと感じていた。
「アルトロン……これでお前は俺のものだ!ははは、あはははは!!!」
場違いな高笑いはミコトからだった。アルトロンとはあの黒い人型のこと?
普段は捻くれて滅多に笑わない、人前だと作った綺麗な笑顔しか見せないミコト。
そんな彼が初めて見せた大笑いは、これまで一度としてみたことがないぐらいに楽しそうだった。
豹変しているミコトの姿に困惑するあたし。笑い声が木霊する中、ふとした拍子に耳に掠める小さな音が聞こえた。
耳を澄ましていなければわからないようなか細いものだったけれど、時間が経つにつれて鮮明に聞こえてくる。
それは小さな女の子のとても悲しそうな嘆きの声だった。
『ミコト……ミコト。私の声が聞こえないのです?届かないのです?どうして何も応えてくれないのです?
私はやってきたのです。あの時のように逃げたりはしていないのです……。だから応えてください。ミコト……』
「妖精さん、なの?」
『マリー!私の声が聞こえるのです!?』
「うん、最初はよく聞こえてなかったけど、今はちゃんとわかるよ。それよりミコトはどうしちゃったの?」
声は聞こえど姿が見えない妖精さんに頷きながらあたしは尋ねた。
ミコトが何かをその胸の中に抱えているのは知っていたけれど、あれが隠していた本当のミコトだっていうの?
彼はあたしには何も話さない。何も教えてくれない。
だからミコトが何を考えているかなんてあたしにはわからない。
だけど時折見せてくれる不器用な優しさが、冷たいだけの人なんかじゃないってことを教えてくれていた。
『マリー、ミコトは……』
妖精さんの声が聞こえるよりも早く、真っ黒な体を持っているアルトロンと呼ばれる人型がゆらりと動き出した。
向かう先はひび割れた笑顔のようなものを貼り付けているシュトラウセの所へ。
どう見てもよくないことをしようとしている……!!
その時になってようやくあたしは動き出したのだけれど、全てが遅すぎた。
ゆっくりと動いていたのも数秒、アルトロンはあたしの目では追えない速度で加速する。
気付いた時にはもうシュトラウセの前にまで移動して、その太い腕を叩きつけていた。
「ぎゃあ!!や、やめ……ぎゃう!!」
獣があげるような悲鳴に骨が砕ける鈍い音が部屋に響いた。
思わず踏み出していた足が止まってしまう。まさかそんなことが平然と起こってしまうなんて夢にも思わなかった。
怖気が走る音の競演は一度だけではなかった。
アルトロンは指揮者のように何度も何度も腕を振るって、シュトラウセという楽器を奏でている。
あまりの光景にあたしは口元を覆って気持ち悪さを堪える。
(だ、ダメ……こんな所で立ち止まってはいけない。きっとあのアルトロンを動かしているのはミコトだから)
あのままでは遅からずシュトラウセが死んでしまう。止めなくてはいけない。
その一心で吐き気を無理やりに押さえ込み、あたしはミコトの元へと駆け出した。
「どうだ?裏切りの味は。最高だろう?もっと味わえよ、じっくりとな」
「ミコト!!」
「…………ん?」
凄惨な光景を少し離れていた場所で眺めていたミコトにあたしは叫んで呼びかけた。
ようやくあたしの存在に気付いたミコトは何の気もなしに振り向く。
……あれを見て、ミコトはずっと笑っていたらしい。
薄笑いを浮かべながら気持ちの悪いぐらいに爛々と輝く瞳があたしを射抜いた。
本当にこれがあのミコトなのだろうか……?
「…………誰?」
「……え?」
「……ああ、いや、そうか、マリーか。お前、ようやくトラップだらけの通路を抜け出してきたんだな?
どうだ、怪我はないか?お前は攻撃魔術は使えないけど、回復魔術は使えるからそんなに心配してなかったんだけどな。
無事なようで安心したよ。あいつは役に立ったみたいだな、よかったよかった」
いやに饒舌に、にこやかな笑顔をつけてあたしのことを気遣ってくれる。
それが普通の状況なら嬉しく思っていたかもしれない。こんなにあけすけに心配してくれることなんてなかったから。
……彼の後ろでは今もシュトラウセが抵抗も出来ずに虐待されている。
ミコトの優しさの裏では耳を塞いでしまいたくなるような音が響き続けている。
こんな異様な状況下だというのにミコトは普通すぎた。
「あ、あれを止めないと!ミコトがあの黒いのを動かしているんでしょ!」
「そうだよ。あれはもう俺のものだ。俺の言うことなら何でも聞く」
「だったら早く止めないとシュトラウセが死んじゃう!!」
「あぁ確かに。マリーの言うとおりだな」
え、と驚く間もなくミコトは視線をアルトロンに向けるとぴたりと動きが止まった。
「マリー、回復魔術、得意だよな。奴にかけてやってくれ」
予想外に聞きわけがいいのにも驚いたが、あたしはその言葉にも軽く驚くことになった。
残虐な行為にも笑顔を見せていたミコトだから、歯止めが利かなくなっていると思っていたから。
少しだけ安堵を覚え、どういうことなのかミコトに問いただしたかったけれど、今はシュトラウセを助けるのが先決だった。
ぴくりとも動かなくなったシュトラウセに急いで近寄っていく。
「うっ……」
見るも無残な姿になっているシュトラウセに、一瞬だけ手がとまる。
ひどいってものじゃない。シュトラウセの体に無事な所なんて一箇所もない程に痛めつけられていた。
それでもどうにか生きているようで、ひゅーひゅーとか細く呼吸をしていた。
あたしは気を持ち直し、自分の両手をシュトラウセの体に当てた。
両の手の平に意識を集中させ、目を閉じる。暖かな魔力が両手に宿っていくのを確かに感じながら詠唱を始めた。
「大地の息吹よ、風の安らぎよ。生命の担い手となって彼の者を癒し、安寧の時をここに約束せん。フルヒーリング!」
風と土の混合魔術。回復魔術に適正があるといわれたあたしのとっておき。
あたしの魔力では一度ぐらいしか使えないけれど、その効果は折り紙つきだ。
淡い緑色の光がシュトラウセの全身を包み込み、見る間に傷が癒されてゆく。
呼吸も次第に安定していくが、あたしが油断してはいけない。
最後まで集中力を切らすことなく、汗がびっしょりと滴り始めた頃、ようやく治療が終わった。
「……ふーっ。これでもう大丈夫、かな」
「お疲れさん」
ぽん、とあたしの肩を叩いたのはミコトだった。清々しい程の笑顔であたしを労ってくれた。
思わずあたしは先ほどまで起こっていた現実を忘れて、同じように笑顔を返そうとした。
なのに……ミコトが次に言った言葉で何もかもが壊れていく。
「これで奴をもう一度痛めつけられるよ」
固まってしまったあたしとは違ってミコトは何処までも笑顔のままだった。




