第四十二話 彼女の贈り物
ミコトが彼女を見た時、最初に思ったのはようやくか、という思いだった。
それは長時間待たされた身としては当たり前の感想である。
だが、呆れ交じりのため息ぐらいはつくけれど、怒ってなどはいなかった。
こんなに待たされるとは思っていなかったのも確かだが、待っている間も暇というわけではなかった。
少年の手の内にある物……学校の大図書館から借りた魔術の教え、という本を読んでいたから。
ミコトの前世ではあまり本を読むということは好きではなかった。
読んだところで記憶は出来ても内容を理解するまでに至らなかったから。
だから読む、というより作業をしている、という面の方が強かった。
しかしこの世界に転生してからは内容も理解できるようになった。これがどれだけの感動をもたらしたかは彼にしかわからないことだろう。
今までは様々な要因から本格的に本を読む機会がなかった。
こうして落ち着いた環境下で本の世界に入り込めたのは初めてといえる。
理解できる、という素晴らしさは転生した直後にも感じたこともあるが、あれとはまた別種の感動だ。
自分の知らない知識を頭に詰め込むことは、白紙の地図を自分の手で埋めていく事と似ているかもしれない。
グリエントに来てからは、シルフィードが呆れるぐらいに本を読み漁っているのだから筋金入りだろう。
マリーなど暇さえあれば本を読んでいる少年を見て、ひどく嫌そうな顔をしているものだった。
高速思考を使えばそれこそ瞬く間に理解できるだろうに、わざわざ自力で読んでいることからもいたく気に入っている様子が窺える。
この世界で初めて、ミコトは趣味というものをもった瞬間だった。
だから趣味に没頭していたミコトは彼女のことを笑顔で出迎えることにした。
彼女が初対面であるから、という理由もなくはなかったが。
「あ、あー!君がクライブ先生が言ってた子っすね!ども、ども」
しばらく硬直していた女生徒だったが、思っていたより早く立ち直ったことに幾分か感心するミコト。
案の定な反応はともかくとして、そのままぼけーっと立っていられても困るだけだ。
遅れたことに気まずい気持ちがあるのか、彼女はそそくさとミコトに近寄って断りも入れずに前の席に座る。
落ち着いた様子はあるが未だに混乱しているのか、はたまたそれが彼女の気質なのか。
判断に迷う所だが、ミコトはぱたりと読みかけの本を未練も残さずに閉じた。
「はい、おそらくそれで合っているかと。一年の緑所属、ミコトと言います。よろしくお願いします」
「これはこれはご丁寧に……。ええっと、私は調律技師科、三年のミスラです。よろしくっす」
まるでこれから名刺でも交換するような会話だったが、自己紹介としてはまぁまぁだろう。
堅苦しさは否めないが、別にこれから親睦を深めるでもないし問題はない。
ちなみにグリエントでは二年になると専門課程に移るか否か選択できるようになる。
何もなければ魔術を更に極める魔術科へと進み、そうでない者は彼女のような専門科へ、という具合に。
専門科といっても一括りではなく、例えば魔道具の作成だけに力を注ぐ科、新たな魔術を生み出す事を研究する科など多岐に渡る。
全体として魔術科より人数は少なくなり、緑や青といった色による区別がない。
その代わりある程度の研究成果を出さなければならず、結果を出せない者は退学を余儀なくされる。
シビアと言えばシビアだが、学園を去る人数は魔術科の方が多いことを鑑みれば一概にどちらが厳しいなど言えないだろう。
そして魔術科とは違って四年課程、つまり一年多く学ばなければならないのも特徴の一つだ。
少数精鋭という言葉が専門科に一番似合うものかもしれない。
「って、緑の子っすか?」
頭を下げていた彼女が少し驚きながら顔を上げる。
あの校長からの頼まれ事だからもっと黒や赤の問題児かと予想していたのに、意外な思いを隠せないミスラだった。
そういえばクライブは優秀な生徒、と言っていたのを今更になって思い出す。
「それがどうかしましたか、先輩?」
ミコトは首を傾げながら不思議そうにミスラを見詰める。
その顔を直視できなかった彼女はもうちょっと遠い席に座ればよかったかも、と思いながら視線を外した。
至近距離から見るにはあまりに破壊力があったからだ。
なるほど、上級生のお姉さま方が夢中になるのも理解できる、と実物を前にしてミスラは思い知っていた。
「な、なんでもないっすよー。あー、そう、そうだ。自己紹介するよりまず謝るのが先っすね。遅れてごめんなさい……」
「いえ、この通り時間も潰せていたので」
そう言ってミコトは机の上に置いていた本を手に取り、ミスラに見せるように掲げた。
三時間もの長い間待たせていたのに少しも怒っている様子がない。
ミスラはミコトの容姿も相まり、これが本物の天使かっ、と胸中を震わせていた。
「それに私に謝るより、クライブ先生に謝った方がいいかもしれません」
「ぅぇっ。く、クライブ先生もここにいたんすか?」
「ええ。二回ほど会いました。最初と数十分前に。二回目に会った時は……青筋立ててましたね」
「立っちゃってましたか……」
「立っちゃってましたね」
最初はミコトをこの教室に案内する為に、二回目は見回りに来た時だった。
まさか未だにミコトが教室にいるとは思わなかったのだろう。
驚きながらどうしてここにまだいるんだ、と質問をされミコトが正直に答えると、クライブは両手で頭を抱えてしまった。
それから平静を装いつつも隠せない怒りをその額に浮かび上がらせ、もうちょっとだけ待って欲しい、という一言を残して教室から出て行ったというわけだ。
「クライブ先生も天使の心を持っていてくれないっすかね……」
「天使の心?」
「いや、なんでもないっす。これ以上遅れたらそれこそ夜になりそうだから、調律やるっすか」
大いに嘆きたい所だったが、個人的な事にこれ以上目の前の子を付き合わせてはならないと思い、心を改めるミスラ。
調律がある週は授業が早めに終わるように調整してあるのだが、もうすでに三時間は経っている。
作業の時間も考えると終わるのは下校時間ぎりぎりセーフかアウトといったところだろう。
「魔導デバイスはそれ……のわけないっすよね」
「そうですね。これは大図書館の借り物ですから。私のデバイスは……」
そうやってミコトは横に立てかけてあった荷物からある物を取り出そうとしたのだが……。
『ふぇ?もうお家についたのですか?』
「……」
思いがけずシルフィードが荷物の間から顔を出そうとしていたので、その顔ごと本で押し潰して収納する。
ふぎゅ、という何かが潰れた時に出すような声が聞こえてきたが、努めて無視するようにして箱を取り出した。
四角い小さな箱を机の上に出してから、そっと、とても大切な物でも扱うように静かにミコトを開けた。
箱の中に閉まってあったのは、
「……指輪?」
「ええ。これを私のデバイスにして欲しいです」
それはシンプルなデザインの指輪だった。装飾も何もない銀の指輪。
取り立てて目立つ所はなく、強いて言えば何か文字が刻まれているぐらいだった。
有り体に言って何処にでもあるような物だ。
「手にとって見ても?」
「……どうぞ」
ミコトは少しの間逡巡して、それから頷いた。
彼のその態度に何か感じたのだろう。ミスラは丁重にその指輪を手にとって眺める。
……やはりどの方角から見てもただの指輪にしか見えない。
刻まれた文字はミスラにしても解読出来なかった点が些か気になる所ではあったが。
古代文字か何かだろうか。少なくとも普段から自分たちが使ってる共用語ではない。
「この指輪、魔術で調べてもいいっすか?」
「はい。魔道具らしいのですが……今どうなっているのかは私にもわかりません」
ふむ、とミスラは頷いた。
魔道具の中には魔術同士が干渉してしまって調べられないこともあるが、それは唱えてみないとわからない。
緊張した面持ちがあるミコトを前にして、手の平に乗せた指輪を注視しながらミスラは魔術を唱えた。
「物質を解読せし光の線。謎を紐解きこの目に表せ。スキャニング」
そうしてもう一方の手を重ね、指輪を包み込む。それと同時に魔術が発動した。
手の隙間から光が漏れ出る光景はミコトを身構えさせるには十分であり、条件反射で止めようとしかけた自分をなんとか制御する。
彼女が唱えた魔術は先ほど呼んでいた本にも載っている魔術で危険性はない。
アナライズの亜種のようなもので物体の構造、性質、素材といったものを簡易的に調べる魔術だ。
魔導具であれば込められている魔術さえ知ることが出来るだろう。
過敏に反応してしまった自分が恥ずかしくなるミコト。幸いミスラは魔術に集中しているようで気付かれなかったようだ。
「……んー。確かにサイズ調整をする簡単な魔術が掛けられているみたいだけど、それ以外は特に……あれ、どうかしたっすか?顔が赤いっすよ」
「い、いえ。何でもありません……。それより、魔術はそれ以外に本当に掛けられていないのですか?」
「何もないみたいっすけど」
「そうですか……」
嘘をついている様子はない、と思う。逐一、彼女の行動をミコトは見張っていたが特に変わった事をしていたわけでもない。
ならばこの指輪……ミライの形見となったこの指輪に掛けられた忌まわしき呪いは消え去ったということだろうか。
ただの一過性のものだったのか。あれから何年も経っているのだからわからない話でもない。
密かにミコトもあの魔術を使って調べていたのだが、確信するまでには至らなかった。
自分のINTの低さによって調べ切れていないのかもしれない、と思っていたから。
考え事をするミコトにミスラは訝しんでいるようだったが、何か声を掛けられる前にミコトから話しかけた。
「では先輩、調律、でしたっけ。それをお願いします。これで終わりってわけではないのでしょう」
「……そうっすね。時間もないことだし、じゃあその指輪を着けてもらっていいっすか」
調律の手順自体は知らないミコトはその言葉に素直に従うことにした。
サイズ調整の魔術が掛けられている為、何処に嵌めようが自動的に調節されるのだが、あえてミコトはあの時と同じように右手の人差し指に嵌めることにした。
問題なく指輪は人差し指にぴったりと嵌る。体にも特に異常はないようだ。
「調律、やるっすけど……あまり驚かないでくれると嬉しいっすね」
ミスラの妙な言い方にミコトは眉をひそめるが、それがどういう意味なのかはすぐにでもわかった。
彼女は左目に掛かっていた眼帯をゆっくりと外し、隠されていたその左目を見開く。
金色。
ミコトの目に飛び込んできたのは金色だった。
異様な金色が目の大部分を覆い、その他の部分は普通の瞳と少しも違わないことが返って不気味さを演出している。
魔性の瞳、とでも言うのだろうか。引き込むような引力がその瞳にはあるかのように目が離せなかった。
ミスラの右目は茶色であり、彼女の髪の色と同じだ。
彼女の体の中でその瞳だけが異色だった。
「魔眼っすよ。あんまり見詰めないほうがいいっす」
「魔眼……」
「驚いているようっすね」
寂しそうに、何処か諦めたように苦笑するミスラ。魔眼に関して何か嫌な思い出でもあるのだろうか。
その態度だけでも色々な苦い過去を推測することが出来たミコトだったが、驚いてしまったことは事実だ。
金色の瞳、しかも魔眼と聞かされて驚かないわけがない。
しかしそれは初めて見たからであり、ミスラが危惧していたようなものとはまた違うものであったのだが……。
ミスラは追求を逃れるように言葉を矢継ぎ早に吐き出す。
「それじゃあ調律するっすよ。ミコトは両手を机の上に出してゆっくりとしてもらえればいいっすから」
思うことがないでもないがミコトは言葉に従って両手を差し出した。
さっきまでの顔はどこへやら、ミスラは真剣な表情に切り替えて魔眼ではない右目を閉じる。
そして差し出した手を自分の手と重ね、いよいよ調律は始まった。
本来、調律には専用の機器が必要になる。
何もない所ではどれだけ凄腕の調律士だろうと出来ることはないに等しい。
ではそれが可能となるにはどうしたらいいのか。
その一つの答えがミスラの魔眼である。
彼女の魔眼は調律の機器であるモニターに該当し、対象の魔力周波を読み取ることが出来る。
それに加え、物に限った話ではあるのだがスキャニング以上の精度で調べることが可能となる。
この場合、その物に置ける許容量……魔力をどれだけ流し込めるか。
浸透率……魔力を損失なく伝えることが出来る率。数値が高ければそれだけ損失も少ない。
同調率……術者とどれだけデバイスがシンクロしているのか。魔力の増幅率に関係する。
……などと調べ上げることが可能となる。
それだけでも大した話ではあるのだが、真骨頂はここからだ。
ミスラはその微妙な周波を感じ取り、その身一つで同調さえ行うことが出来る。
同調とは術者とデバイスの魔力周波を合わせることだ。
同調率を高い値に合わせる調律士こそが優秀だと言われている。
調律の機器が持ち運びも出来ない巨大さで、なおかつその機器を維持する魔力など諸々のことを考えると実に扱いにくい物といえる。
そういう考えにいきつけば、ミスラの利便性がいかに高いかわかることだろう。
未熟な身と言った通りまだまだ自分だけでは調律がうまくいかないことも多いが、やるからには手を抜くことはしないミスラ。
この時も一切の遊びもなく、真剣そのものに取り組もうとした。
しかし、異常を感じたのは調律を始めて間もなくのことだった。
(……え?何、この指輪の許容量は。多すぎるっす……ッッ。こんな小さな指輪なのに)
驚愕に陥りながらも調律を止めなかったのは彼女の意地が成せる業だっただろう。
許容量は素材にもよるが大体はその物の質量に比例する。杖やロッド、スタッフを愛用する魔術師が多いのも格好がつくからだけではないのだ。
然るにこの指輪の許容量は常軌を逸していた。
およそ普通のデバイスの五十倍以上。
一人前の魔術師が魔力を全て注いだとしても、この指輪にとってはほんのちょびっと満たすだけだろう。
しかもまだまだ底が見えてない。果てしなくてミスラには測定できない。
だがミスラの意地を試すように驚くべき事実はそれだけに留まらない。
(浸透率……九十九パーセント!?ただの銀で出来た指輪じゃないっすか!?)
冷や汗が止まらなくなる。ミコトの両手に重ねた手が汗ばみ、動揺が伝わらないか心配になるほどに。
浸透率は上記に説明した通り、どれだけ魔力を正しくデバイスに流せるかの割合だ。
これは物の大きさというより素材そのものが大切になってくる。
例えば木材といったものは自然界に存在していて精霊と触れ合う機会が多い。
魔力の塊ともいえる精霊の傍にいれば周囲にもその影響が出る。故に浸透率が高い素材が取れやすい。
その中でも最高品質、精霊の森と呼ばれる大樹からしか取れないユグドラシルという木材の浸透率は群を抜いている。
取引される価格も破格で、ユグドラシルから作られた杖一本で都心の一等地に五、六軒は軽く家が建てるられる程だ。
それでも、である。
それでも、ユグドラシルという最高の素材をもって作られた物でも、浸透率は九割に満たない。
その事実だけでもミスラは動揺とありえなさから半泣きしてしまいたくなっていたのに、まだまだオマケがあった。
いや、それをオマケといっていいのかさえもうわからない。
(どうちょうりつ…………ひゃくぱーせんと……。は、はは、ははは……)
乾いた笑いが出るのなんて当たり前だった。心の中だけに留めたのは本当に最後の意地だった。笑うぐらいは許して欲しい。
現実のミスラとて口の端がひくひくとして止まらないというのに。
ここに至って彼女はようやく校長先生に謀られたことを理解した。
同調率、それは術者がデバイスといかにシンクロしているか計る数値である。
この数値をどうやって上げるかが調律士としての仕事だ。
百パーセントという数字はまさに調律士いらずの値であるが、その前にありえない数字でもある。
プロの調律士が調律した所で八割後半を超えれば最上。それ以上は天運に任せるしかない。
術者の体調も関係するし、そのデバイスが使われていた年季だって関係ある。
使い込めば使い込むほど同調率だって上がるのだ。
九割を叩き出すにはプロの業、そして術者とデバイスの長年に至る付き合いがなくてはならない。
それでも九割、である。
そう、百パーセントとはまさに夢の数字なのだ。
ミコトとデバイスを繋いだ瞬間に同調率がわかったわけであるが、その時に彼が初めてこの指輪と同調した、という感覚はミスラにもわかった。
彼女とて何十人、何百人と調律してきたのだ。初めて同調した者とそうでない者ぐらいは区別がつく。
つまり、今まで一度としてこの少年は指輪と同調していなかった、ということである。
(どういうことっすかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?)
驚愕の極み、ここに現る。
もはや理解という理解が追いつかない。
これならばミスラの感覚が狂っていると思った方がまだマシだった。
それでも、自分の感覚を信じるならば、いや待て、わからない。
このミコトという少年が実は何百歳であるとか?いやいや、それでは初めて同調したというあの感覚は?
やはりわからない。指輪のスペックを見ても古代遺物級、いやその上をいく伝説級と称した方が正しい。
そんな世界に一つしかないような物がどうして?なんでそんな物と百パーセント?どうなってんの!
理解不能ながらも仮説を立て続けるミスラは正しく研究者である。
その内の一つ、荒唐無稽な仮説をここに立てる。
ミコトという少年の中に熟練の魔術師がいるという仮説。
それが正しいかどうかなんて、ミスラにはもはや理解のしようがなかった。




