開戦前夜
月明かりの届かない生い茂った森の夜は静寂に包まれている。聴こえてくるのは夜行性の鳥獣達の鳴き声と風が木々の葉を揺らす音だけだ。その音さえも漆黒の闇の中に消えていく。
だが、今夜の森はその静寂を失いつつある。漆黒の闇はいくつもの焚き火の灯りに照され、その周りを囲む木と布で造られた簡易兵舎の中からは男達の笑い声が鳴り響いていた。
ここは王国領国境付近の森。森を抜ければ帝国軍の防衛拠点である砦の目と鼻の先の位置に出ることができ、夜明けと同時にその砦を攻撃し、陥落させることが兵舎の男達の任務だ。彼らは王国軍の傭兵であり、正規兵ではない。
王国軍は王国領を治める複数の貴族達によって構成されている。その中でも強大な四家が戦争の主戦力として重用されており、その四家とは大軍のカーティス家、兵器のノーヴル家、強兵のガイウス家、忠義のアイセン家のことである。王家直属の兵士達はあくまでも首都の防衛に務めており、そう考えると王国軍に正規兵はいないのかもしれない。
この森で夜営を行っている傭兵達はアイセン家の軍に配属された者達の集まりである。
そんな中、一人の男が兵舎から抜け出して、灯りの届く木の根元に腰を掛けた。
「……うるさい奴らだ。ろくに眠ることも出来ない」
そう呟いた男は若く、長身だが細身で黒の服に身を包み、上着として革の外套を羽織っている。木々の間に広がる漆黒の闇を見つめる青い瞳は鋭く、その顔立ちは色白ながら端正に整っている。
だが、この男の一番の特徴はそれらよりも鮮血に近い赤色をした髪だろう。両目に重なるほど前髪は長く、襟足は肩まで伸びている。
男は溜め息を一つ吐くと、静かに目を閉じた。何を考えるわけでもなく、このまま眠りに就くつもりなのかもしれない。
だが、彼の安眠は長くは続かなかった。
「おーい、少年。飲みすぎたか?」
その声に反応し、目を閉じていた男は声のする方に向かって静かに顔を向けた。
そこに立っていたのは、中肉中背で特徴のない麻の服装をした中年の男だった。凛々しい顔つきなのだが、無精髭がそれを台無しにしている。王国人の特徴である金髪を短く刈り上げ、これもまた特徴である青い瞳で心配そうに見つめていた。一人兵舎から抜け出した若い男を心配して、彼を追うように抜け出して来たのか。
少年と呼ばれた男はまた一つ溜め息を吐く。
「……俺は飲んでいない。戦いの前だというのに酒を飲むとは、神経を疑う」
その返答に中年の男はきょとんとすると、すぐに表情を崩して笑い声をあげた。
「はっはっは、いらん心配をしてしまった。せっかく水を持ってきたのに必要無かったな」
そう言うと中年の男は左手に持っていた水筒の蓋を開け、自分で飲み始めた。
「だがな少年、戦いの前だからこそ酒を飲むんだよ。俺たちは明日死ぬかもしれない。そうなると二度と酒にはありつけない」
中年の男はそう言うと若い男の正面に座りこみ、話を続けた。
「まあ、明日の戦いに備えて兵達の士気を上げる意味もあるから別に悪いことではないんだぞ?」
若い男は興味なさそうに聞き流している。
「少年、名前は?」
唐突に名を訊かれた若い男は少し怪訝な顔をする。
「……ジェイドだ」
心底鬱陶しそうに答えたが、中年の男は気にすることもなく。
「俺はカインだ。よろしく」
と、右手を差し出した。握手のつもりだろう。だが、ジェイドはそれに応じることなく顔を背けた。
「おいおい少年、握手を知らないのか? ……さては左利きか?」
カインは右手を降ろして、今度は左手を差し出すが、ジェイドは顔を背けたままである。
「……馴れ合いは好きじゃない」
ジェイドの呟きにカインは残念そうな顔をしながら左手を降ろした。世渡り下手だなぁ、という呟きが聴こえたがジェイドは表情を崩さず、そっぽを向いている。血気盛んな傭兵であればこの時点でジェイドに殴りかかって来てもおかしくないところだか、カインはそのような連中とは違うのか、大袈裟なまでに肩を落としていた。表現豊かな男である。
「ところでトルミアの少年、何で傭兵になったんだ?」
カインの何気ない質問に対し、トルミアの少年と呼ばれたジェイドは顔をしかめる。自分自身が戦争の発端となったトルミア村襲撃事件の生き残りだと気づかれたことに反応した訳ではなく、遠慮なく心に踏み込んでくるカインという男が気に食わなかったのだ。
「アンタには関係ないだろ」
ジェイドはカインを睨み付けた。それは敵意を向ける睨みではなく、拒絶を意味する。
ジェイドの反応にカインは少しだけしまった、という顔をしたが、すぐに右手で頭を掻きながら申し訳なさそうな表情をした。
「ああ~、すまんすまん。おっさんは無神経だからついつい一言多くなってしまう。悪かったよ」
カインはよっこらしょ、と呟きながら立ち上がった。
「そうだ少年、外に長居して体を冷やすなよ。夜も更けてきたし、おっさんは先に兵舎に戻るとするよ」
そう言い残し、カインが兵舎へ戻ろうとする。
「……少年と呼ぶのはやめてくれるか? 俺は二十一歳だ」
ジェイドの声に対し、カインは顔を向ける。
「ああ、じゃ、青年か。すまんすまん」
快活な笑顔で答えて兵舎に入っていった。
「……本当に一言多いおっさんだな」
ジェイドは一言呟き、ここで再び目を閉じた。風の音に耳を傾けながら……。
「……風の臭いが変わった。明日は雨か、降りだす前に戻らないと」
そう呟くとジェイドは立ち上がり、諦めて喧騒の続く兵舎に戻ることにした。