再び始まる3
人ごみを私は嫌う。最近は特に、人ごみを避けるようにしている。
私の通学時間はいつも早めにしている。丁度人々の通学時間を避けて。そうするとせかせかと忙しくした沢山のサラリーマンやOL、私と同じ制服の学生たちに会わなくてすむからだ。
横断歩道で信号が青になるのを私と共に何人かの人々がじっと待っている。信号がなかなか青にならない。いつもより遅い気がする。それは多分私の気のせいだと私自身分かっていた。遅い気がするのは早くこの場から離れたいからなのだとも分かっている。
道路を渡った対面の信号機の隣に男がいる。
私はそれが自分に気付かないうちに早くこの横断歩道を渡りきり離れてしまいたい、そう思っていた。
街の中それらは時に普通の人と変わらずいるため、知らずに横を通りすぎて、後で気付くことがある。けれど、今日のように分かってしまうことがある。それらは私が気付いていると分かると、私に憑いてこようとしたり、何か訴えてくるのだ。
あの人は今日初めて見る人だ。きっと最近死んだ人なのだろう。それも突発的な事故か何かで。目の端で捉えたその人の服装は汚れている。血の染みかもしれない。
嫌だなぁ。あの人は、何か怖い雰囲気を持っている。早く青になれ。
私がそう無意識に肩に掛かる鞄を握りしめ、念じているとパッと青に信号の色が変わった。
私は少しホッとして急いで渡った。でもその人に気付いていることを気付かれないように走らず、速歩きでそれの横を通る。
その時、声が聞こえた。
「気付いているくせに……」
私はその瞬間、ぶわっと鳥肌が立った。
そしてそのまま私は後ろを振り返りそうになる自分を抑えて、不安な気持ちを抱えて学校に向かった。
朝が早いこの時間の教室はいつも通り、まだ数人しかいない。勉強をしようと朝の空き時間に来ている者が一人、部活にこれから向かおうとする者が3人、後は何となく早く来てしまった者が私の他にもう一人。
私は教室の中を自分の席に座るまでに、さりげなく見回し早い時間に来る生徒の考えを予想した。
席に着いたとき、ふと誰かの視線に気付き、私はうつ向いていた顔を上げた。すると、私と視線を合わせないようにわざとらしくクラスの何人かが顔を背けた。
この二週間ほとんどのクラスメートたちは、私をまるで腫れ物を扱うかのように接し、時々こうやってちらほらと様子を見てくるのだ。
私は初めのうちは、居心地の悪さを感じて気が滅入っていたのだか、今では慣れてしまって逆に苛められていたときより、今の方がずっと楽なのではないかと思うようになった。
私は先ほどの視線を何でもなかったかのように振る舞い、学校指定の紺の鞄から教科書やノートを机に仕舞った。そして朝のホームルームの時間まで小説でも読もうと、文庫本を一冊前に出した。
教室は初め私が入って来た当初は薄暗かったが、どうやら誰かが教室の照明をつけたようで窓から射す朝の光りを、電気の強い光りがかき消していた。
私の手元の本はずいぶんと見やすくなり、私は直ぐに小説の物語に引き込まれていった。
それから私は周りが目に入らなくなるほど集中していた。そのせいもあって、私はその暫く後、何人かに自分の名前が呼ばれていたことに全く気付かなかった。
「……おい櫻……おい、櫻井」
「え。あ、はい」
私は飛び上がるように本から目を離した。
私は自分の名前を怒鳴り声で呼ばれて初めて自分に声をかける者がいることに気付いた。
「お前、馬鹿にしてんのか。無視してんじゃねぇよ」
私の机の周りには三、四人の女子が取り囲み、私を苛立たしげに睨み付けていた。
そして私に酷く腹を立てながら声をかけるのは、長い髪を茶色に染めた綺麗な女の子だった。
えーと確か、橋本さんって言ったかな。自分の記憶を少し呼び覚まし、彼女を再認識する。そうだこの人は自分を苛めていたグループの中にいた人だ。
そこで初めて今自分が危機的状況にあることに気付いたのだった。
「ついて来い」
橋本さんは冷たく私にそう言いすてると、ぞろぞろと私を無言で睨み付ける者たちを引き連れて教室を出て行った。
私はその後を小さくなってついていった。
彼女たちについて歩く間、私の心はじわじわと恐怖が増えていき満たしていく。
私は勘違いをしていたのかもしれない。苛めなど怖くないなんてどうして思ってしまったのだろう。最近私の中では幽霊騒ぎで、あれらより怖いものなんてないと思っていた。けれど今の自分は幽霊も苛めも怖がっている。入院する前より悪くなっているのではないか、私はふとそう思った。
五階にある理科準備室の前まで来ると橋本さんは、盗んできたのか何故か持っている鍵で開け、入って行く。そして彼女を筆頭に私も含め中に入る。最後に入った私はいつもの習慣で、理科準備室の扉を後ろ手で閉めた。
室内はカーテンの隙間からもれる外の光りで薄暗い。どうやら照明は点けないようだ。
彼女らは思い思いの座り方で実験器具を退かしながら、机や椅子に座る。実験器具や生物の模型に剥製があって、中はごみごみしていて全員が入るとそれで満杯になった。
橋本さんは黒板に寄りかかりながら私を睨み付けている。
「あんたさぁ、自殺のふりしたら終わりだと思ったの。ていうかその自殺って、私たちに仕返しのつもりでやってんの」
彼女は私を高圧的に責める。その言葉を初めに、周りから私を強く非難する声があがった。
「お前、何で学校来てんの。キモいんだよ」
「ホントに死ねよ」
「自殺未遂したら、皆に可哀想だって言われると思った」
「パフォーマンスの自殺何かいらねぇんだよ。自殺すんだったらホントに死んどけよ」
私は頭の芯から冷えていく自分が分かった。
彼女たちの恐ろしい言葉は私に考える力を無くさせていく。
私が暫く彼女たちの言葉を聞いているだけで何も答えずにいると、段々と彼女らの口調は激しくなっていった。
「何で黙ってんの」
うつ向いてしまった私に橋本さんは上から冷めた口調で苛立ちを表した。
私は恐ろしくて顔が直ぐにはあげられないでいた。すると、私の髪が強く引っ張られ、そのまま顔を無理やり上げられてしまった。
「い、痛」
「何で黙ってんの」
思わず彼女の腕を掴むと隣から私の足に容赦なく蹴りが入る。
「あ、う」
私はこの理不尽な行いに、怒るどころかただただ怖いという気持ちだけしかなかった。
「私の言葉が理解出来ないの。それとも、耳が悪いとか」
彼女は、嘲るように私に浴びせかける。
「じゃあ、その耳意味ないよね。真奈ぁ、ハサミ取ってぇ」
私は橋本さんの楽しげな言葉に一瞬、何を言っているのか分からなかった。けれど直ぐにその彼女の意図が分かり、私の体から冷や汗がブワッと吹き出す。
そして抵抗して逃げ出そうとした私を周りから彼女たちが強く押さえつけ、とうとう逃げられなくなった。
真奈と呼ばれた笹原さんがハサミを文房具がまとめてある棚の引き出しから、一本取りだし、橋本さんに渡す。
私を見る彼女たちの目が笑っていた。
「クスクス」
後ろから楽しそうに笑う声が聞こえる。
「クスクス」
右隣から笑う声。
「クスクス」
左、斜め前からも笑い声。
絶体絶命だ。私の耳が、耳がなくなる。
私の瞳には橋本さんが嬉しそうに持ち上げるハサミしか目に入らない。
徐々に近づく冷たいハサミ。
「はぁ、はぁ、はぁ」
呼吸が速くなる。
汗で前髪が湿っていく。
時間の進みが私の周りだけゆっくりになっていった。
キーン、コーン、カーン、コーン。
一時間目開始のチャイムがなった。
「あ、一時間目数学じゃん」
彼女のハサミが私の耳の隣で止まり、そのまま下ろされた。
「こいつ構ってたら、出席数ヤバくなんだけど。教室戻ろう」
「何、橋本出席数ヤバいの。うける」
「何処にうけんだよ。笹原、現国この前足んないって言ってたじゃん」
「絵菜、数学の伊田嫌いぃ」
それぞれ思い思いに喋りながら、理科準備室を出て行こうとする。そしてとうとう、彼女たちは私への興味を失ったのか、そそくさと私を一人置いて理科準備室を出て行ってしまった。
足が萎えてしまった。腰が抜けたのかもしれない。
私は暫く橋本さんたちが去った後も、理科準備室の中で座り込んで動けないでいた。
そうやって動悸が落ち着く頃には、一時間目の授業が半分は過ぎてしまっていて、もう授業に出ても意味がなくなっていた。
そこで私は同じ階にある図書室で少しの時間をつぶすことにした。
図書室は理科準備室から反対側に位置し、この階のおよそ半分の広いスペースを取っている。
私は汚れたスカートを手で叩き、乱れた髪や服を一通り直したら、気をとりなおして図書室へ向かった。
通常図書室には国語教諭で学校図書館司書の神原先生が扉を開けると、すぐ前の受付に座っている。しかし私が訪れた時には、タイミングが悪かったのか受付には先生がいなかった。
私は授業をサボっていることを指摘されずにすんだと一安心し、図書室に入っていった。
今の時間に図書室には生徒はいないはずと人の目を気にしないで、ダラッと本棚との間を歩いていると、男子生徒が立っていた。本を片手にページをめくりながら、落ち着いた雰囲気を出すのはどうやら先輩のようだった。上履きとネクタイの色が青なのは、三年生だ。私は二年だから赤色、一年は黄色と決まっている。
私は本に夢中で全く私に気付かない先輩を避けて一つ後ろの棚の本を探しにいった。
そういえば今私が見ているものとは何なのだろう。幽霊なのだろうから、心霊本とかを調べてみようか。
そう私がふと考えていると、たまたま宗教や心霊関係のある本棚に来ていることに気付いた。
何かいい本は無いかなぁ。
ラッキーだと少し喜びながら、背表紙を一つ一つ脳内で読み上げていった。
「心霊に興味があるんですか」
突然私は、先ほどの先輩に声を掛けられていた。
いきなり現れたので、私は驚き直ぐには答えられずにいる。
すると先輩はブレザーの胸ポケットから折り畳まれたチラシを取りだし、広げながら私に見せてくる。
「もし興味があるんでしたら、このチラシの部活に来てみて下さい」
先輩はそう言いながら私に再び折り畳みながらチラシを渡した。
そして、そのまま後ろに向き去ってしまうのかと思いきや、途中まで歩いて思い出したように振り替えってニヤリと笑った。
「きっと楽しいですよ」
そう言い残すと先輩は図書室を出て行ってしまった。
私は先輩の去った後を見つめながら、ただそのチラシを呆然と握りしめているだけだった。