世界の変化・私の変化
――――はぁ、はぁ、はぁ、はっ、げほ、げほっ。
隣から苦しそうな咳が聞こえ、私はフッと目を覚ます。
またか、と思った。
夜中の2時になると必ず隣のベッドの人は、発作を起こすのだ。
私は毎度の事だからと隣人を無視する。なぜなら、この人のためにナースコールを押したり、声を掛けたりしても無意味だからだ。
私はまた暫くして深い眠りに落ちていった。
「おはようございます。体温測って下さいねぇ」
看護師の柔らかな声で私は朝になったと気付く。
眩しい、まだ寝ていたい。けど、起きなきゃ。
私は自分の重たい瞼をゆっくりと開き、看護師の持つ体温計を見た。
「……おはようございます」
私は、のっそりと体温計を看護師の細い手から受けとると、ギブスの付いた左腕の脇に挿した。そして直ぐにピピっと音が鳴ったので、看護師に気だるげに渡す。
「あら、体温低いわねぇ。また夜中起きてたわね。ダメよ、ちゃんと寝ないと」
看護師は注意を軽い感じで私に伝えて、最後にいつも通り私の身体の調子を尋ねて、隣の患者に移っていった。
「佐久間さん、おはようございます。朝の検温しますよ」
私は左隣の骨折で入院している七十代のおばあさんに、優しく掛ける看護師の声を聞きながら、また布団に潜りこんだ。
五階建てマンションの屋上から落ちて、一週間。
私はあの時運良く近くの高い木がクッションとなり、左腕、肋骨を二、三本折っただけで、また偶々近くを歩いていた人が、直ぐに気付き救急車を呼んでくれたので、最寄りの天坂樹病院に運ばれ助かったのだ。
今私は三0二号室にある窓際の空きベッドの隣、およそ真ん中よりのベッドに入院している。
この窓際のベッドには、肺に癌が出来たおばあさんが入院していたのだが、私が来て一日目に夜中強い発作を起こし、次の日居なくなってしまった。その日の朝、看護師さんに聞くと、右隣のおばあさんは肺癌で亡くなってしまったのだという。私は、そのおばあさんの辛く苦しそうな声を入院初日の夜中にほとんど一晩中聞いていた。急に人が居なくなることや、周りの変化の無さに私は、病院とはこんな所かと驚いていた。
私は屋上をダイブして、少しの怪我で助かっていた。それは私にとって、とても失望する事のはずだった。しかし、実を言うと私は今生きていることに半分安堵している。今の私の気持ちは、またあの恐ろしい教室に通わなければならない深い失望が半分と、両親が思っていたより自分を心配し悲しんでいたことに、生きていて良かったと安堵している。そんな、複雑な心境だった。
右隣のおばあさんや同じ病室の人々の検温が済むと、看護師さんは直ぐに次の病室に入っていった。
「あんた、ほら、起きな! お母さんがお見舞いに来てるよ」
「いいんですよ。せっかく気持ち良く寝てるのに、起こすなんて可愛そうですから」
隣のおばあさんと誰かの声が聞こえてきて、いつの間にか眠っていた私は目が覚め、うっすらと瞼を開けた。
「あら、起こしちゃった。ごめんね、まだ寝てていいのよ」
母は私に優しくそう言い、私の着替えが入った鞄をベッド脇の白い引き出しの上に置いた。
「……お母さん、洗うやつはそれの中に入ってるから」
私は身体を右手で支えながら起きて、母の近く置いてある鞄を指差す。母は少し疲れた顔をしていた。屋上ダイブをやらなければ良かったと、母の顔を見て私は少し思った。
「由紀、何か持ってきて欲しいものある? 退屈なんじゃない? 母さんね、由紀に本借りてきたんだけど、由紀ってこういう小説読んでたかしら」
母は黒のブランド鞄から、東野増子の『カリメオ』を取り出した。小さな文庫本サイズだった。
「ドラマでやってたんだってよ、この小説。あなた、ドラマとかよく見るからいいんじゃないかって借りてきたのよ」
私はそのドラマを見たことがあったので、その小説に興味がわく。
「うん、読んでみる。ありがとう」
私が『カリメオ』を受けとると、母は一瞬ホッとしたような顔をして、次には途端に真剣な表情になった。
「……学校。由紀が退院するまでには、引っ越して変えとくから。でも、もしかしてお父さんの仕事で引っ越すのが遅れるかもしれない。だけどその時は、通うことはないわ」
母が強い眼差しで私をジッと見ながら言った。
「……うん、分かった」
私は母の目を見ることが出来ずに静かに答えた。
深夜二時、また私の耳にあの苦し気な咳が聞こえてきた。私は毎日この時間に何故か目を覚ます。
――――げほっげほっ、げほっ、げほっ。
窓側のベッドは、夜中になるとおばあさんが寝ている気配がする。私は初め、いないはずの左隣のベッドから突然人の咳が聞こえ、とても驚きそしてぞっとした。もうそこには誰も寝ていないのにって。けれど今はそれも慣れ、無視して寝ることが出来る。学校での苛めに対しては順応させることが出来なかったが、こういうあやふやなものに私は、順応性が高いようだった。
やはり、あのおばあさんは幽霊なんだろう。そしておばあさんは死んだ今でも病気により苦しんでいる。変な話だが、きっと幽霊になっても忘れられないほど苦しい病気だったのだ。私はそれに少し同情してしまう。がしかし、それでもああやって突然真夜中の誰もいないベッドの上に、出でこられたらやっぱり怖い。
実は屋上ダイブを生還してから、よく病院内でこのような不思議が起こるのだ。例えば夜中トイレに向かう途中、人の足音が私の横を通ったとか、昼間自販機まで飲み物を買いにいった時、私の前で飲み物を購入している入院患者の影に人の顔が映っていたとか、そんな少し背筋がゾッとする出来事があった。
今晩も私はお婆さんの激しい咳に悩まされる。
早く咳が止んでくれないか、それとも私が夢の中に落ちるか。今日はやけに長いなぁ、と私は思いながら聞くのが辛くなるような咳に、耳を塞ごうとしたその時。
――――けほっ。
ずずず、
――――げほげほっ。
誰かが私の足下から、まるで膝を地面に付け服の布を擦りながらやってくる音が聞こえた。
私は途端に怖くなって、耳を塞ごうとした手を布団から出せずに固まった。今は足下の徐々に近づく音に神経を研ぎらせている。
――げほっげほ。
ずずず、
ばちっ、
ずず、
ベッドのパイプを掴んでしまった。とうとうベッドの上に上がってくる。
私の心臓は先程の平穏な音から、マラソンで何キロも走った後のような速い音を打つ。血管の脈打つ音が全身に響き渡る。
――げほっ。
ずずず、
ずず、
ぎぎぃ、
ベッドの軋む音。重たい体を支え、力を手に強く入れたためベッドに入っているパイプから音が出てしまう。
私の足首は、人がベッドに寄りかかる圧力で深く沈んだ。
来る、近づいて来る、私の顔を見に……。
ずず、
ぎぎぃ、
ぎぎぃ、
――――げほっげほっ。
来ないで来ないで来ないで来ないで。
ずずず、
ぎぎぃ、
ずず、
――――げほげほっ。
ぎし、
ぎし、
ベッドが軋む。私の体の上に乗るようにして、やってくる。
私は音を出さないように短い呼吸を繰り返した。
逃げたいのに、体が動かない。
私には、恐怖により体が硬直しているのか、金縛りにより体が動かないのか分からなかった。
私の腕の隣が交互に沈み、もうすぐ顔の上にお婆さんの顔が現れるだろう。
ずずず、
ぎし、
ぎぎぃ、
ぎし、
ずず、
もう今ではお婆さんの激しい咳は聞こえない。変わりにベッドの軋みと布の擦れる音だけが聞こえる。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで。
私は必死に祈るように、心の中で叫んでいた。しかし、頭ではこの無力な祈りは絶対に通じないのだろうと分かっていた。ただ、早く自分が気絶する事を祈るばかりだった。
ぎし、
――――くるし、い、
ぎぎぃ、
鉄パイプの軋む音と、それに混じるように嗄れた老婆の声が微かに聞こえるようになってきた。
私はその声を聞いた途端、背筋がゾクっと震えた。嗄れた声が私のお腹の上で囁かれたからだ。
もうとうとう、ここまで来てしまった。私が気絶する前にお婆さんは私の顔を覗いてしまう。
――ああぁくるしい。
ぎぎぃ、
――――ぜぇ、ぜぇ。
苦しさを訴えながら、雑音の混じる冷たい息が私の首筋にかかるまで、その顔はやってきた。
そして、私の青白い顔を上からぎこちない首の動きで覗きこむ。
私は一瞬呼吸が止まった。
青い死人の顔は、目が白く濁っていて皺を沢山刻み、苦しげに顔を歪ませている。ほとんど残っていない髪は、汚ならしい灰色の線が顔に触れそうなくらい近くに垂れていた。
――くるしい、ぜぇぜぇ、くるし、くるしい。
私の耳元から直接聞こえるような声が冷たく響く。
恐ろしさに私の思考が停止する。涙が自然と見開いた瞳から、頬を伝って流れる。
あ、あ、あ。
言葉にならない叫びが、麻痺した脳みそを刺激する。
私の意識はそこで途切れた。
「……さん! 櫻井さん! 大丈夫ですか?」
看護師の慌てた声が顔の上から降り注いでくる。
私は看護師に揺り起こされ、次第に意識をはっきりさせていった。
「櫻井さん、大丈夫ですか? うなされていましたよ。顔色も良くないですね」
心配そうに看護師は私の顔を覗き込むようにして、様子を伺う。
私は、暫く頭が働かずに何も言えないでいた。
「やっぱり体調悪いようですから、今日の検査は中止しますね。あとこれから、先生も来ますから大丈夫ですよ」
そう言って看護師は私の脈拍を取ったり体温を測ったりと、何も言わない私に声を掛けながら調べていく。
それから一通り私を調べ正常であることが分かると、看護師は少し安堵の表情を浮かべて、また私に声を掛けて隣の患者に移っていった。
私は夜中の出来事を思い出して、恐怖を感じていた。目はずっと見開いて、白い天井を見つめる。それがまるで恐怖を和らげる行為かのように、私はただひたすらじっと天井を見つめ続けていた。
私はあの時油断していた。自分には、咳の騒音以外に害はないと思ってつい気が緩んでいた。だから私はあんなに怯えてまったのだ。しかし、気を引き締めていても恐怖は弱められなかったかもしれないが。
私に恐怖を与えたのは、生きていた頃は弱々しいお婆さんだった。それが、幽霊という存在になるとあんなにも恐ろしく強いものに見えてしまうのだろうか。
幽霊などの今の私に見えるものは、私に害を与えないものではない。これは、立派に私の心に害を与える。それは私を虐める人々と同じように、私の日常を脅かす敵という存在になるかもしれなかった。
私が布団の中で自分の世界に入っていると、いつの間にかやってきていた母が私の汚れた衣類をまとめていた。
「お母さん! 来てたの?」
私は母が無言で作業をしていたことに、思わず驚きの声を上げた。
「大丈夫よ、起きなくて。母さんやっとくから」
母の表情には何の感情も表れていなかった。昨日来た時より、余計やつれて見えた。
今日は昨日の恐ろしい出来事があったとしても、体調は幾分か良く母の目を見て話せそうだった。
「お母さん、私、起きてたんだから、声掛けてくれれば良かったのに」
母は青白い病人のような顔をして、弱々しく微笑んだ。
「あら、そうだったの。寝てると思ってたわ」
疲れて今にも倒れそうな掠れた声。
「お母さん、大丈夫? 何か、疲れてるみたい。無理に、私のお見舞い……来なくていいんだよ」
昨日までの気まずかった気持ちが母の弱りきった姿を見て、薄らいでいった。そしてもう二度と自殺をしようなどとは思うまい、と心に誓った。
「ごめんね、でも大丈夫よ。由紀は気にしないで、早く体を治すことを考えて」
母は私にこれ以上心に負担を掛けまいと優しい声で気遣っていた。
しかしその気持ちも全く隠せていないため、母が体調不良だということは見え見えだった。
「……お母さん、ごめんね」
私は自分の浅はかだった行為に後悔していた。口からは思わず謝罪の言葉が出る。
「何謝ってるの? お母さんは大丈夫だからね。心配しなくていいのよ」
母はまた弱々しく微笑み、まるで私に元気なところを見せたいがために笑っているようにも見えた。
「……うん、お母さんが大丈夫って言うなら、これ以上言わない。あとお母さん、私退院したら学校、ちゃんと行くよ」
私は母の心労の理由に苛めや不登校が関係していると思った。本当は問題なく学校に通って欲しいと思っているだろうと私は思う。だから、この二つの内一つだけでも問題を取り除いて上げたいと感じたのだ。
私は少しずつ苛められる前の自分に戻ってきているように感じていた。
「そんな! 駄目よ、あの学校には登校しなくていいの。また、由紀学校でい……」
母はどうしても私が苛められていたことを言葉に出来なかった。それは、やはり同室の患者に聞かれるのではという思いがあるからだろう。
「大丈夫。お母さん、私何だか皆にはっきりと、今度は、声に出して嫌だって、言えるような気がするの」
最近私は異常な経験をするようになってから頭がそれらで一杯なため、苛めについてまで頭が回らず、自分が今まで学校で苛めにあっていたなんて信じられない思いだった。
「由紀……分かったわ。貴女の気持ちが一番大事だし、由紀の判断に任せるわ。でも、本当に無理しないでね」
母はホッとしたような、不安な気持ちのようなと複雑な表情をしていた。
それから、私はこの1ヶ月間病院を退院するまでの間に沢山の恐ろしいものに襲われてきた。夜中に足を引きずる音をさせ、廊下を歩き回る徘徊者、必ず同じ時間に激しい咳をして苦しみだす隣人、そして時折見える人と人との間にある黒い影、耳元での誰かによる囁き、そんなものを病院内ではいつも感じていた。
そして、私は1ヶ月という長い入院生活を終え、また通い慣れたあの高校生活に戻っていった。
私の通う高校は私の自宅から三十分とかからない所にある、私立金木犀学園だ。
大きな街の中心に小さく存在し、その近くには赤城駅があり、殆んどの生徒はこの駅を利用して学校に登校する。
校舎は最近建て直し、新しく綺麗でモダンな造りになっている。環境を考えて、トイレの水は雨水を使い、電気は昼間の良く晴れた日は太陽電池で賄っているのだ。
だから、生徒は最新式の暮らしを快適に送っていた。
そして、自由な校風と外国にある姉妹校からの交換留学生やそれをサポートする外国人の先生方が多くいて国際的にも充実している学校だ。私はそんな学校の校風や環境の良さに惹かれ、入学したのだが、今の私の学校での状況はとても自由とは言えず、また精神性としての環境は最悪に悪かった。
けれど私は学校に行く。
学校が最悪な場所だと分かっていて、私はこれから毎日通わなければならない。それは父親の仕事の目処がついて引っ越しの準備が整い、転向するまでの間だけだ。
私が学校に行くのは、両親をこれ以上心配させないため。また、今の自分は入院する前と比べて、苛めをそれほど怖がっていない。私の病院での経験はそれまでの苛めを大したことではないと、楽観的に見させる。
校舎に入る時そして、教室に入る時のあの足が動かないほどの震えや吐き気は無いようで、私は少しだけの緊張で自分のクラス、2年4組の教室の扉に手をかけることが出来た。
私が教室に入るとそれまでうるさいほどに賑わっていたクラスメイトの声が、引き戸の音をさせて開けると同時に一斉に私を見つめて静かになってしまう。
私はシーンとした机と机の間、人間と人間の間を横切って、自分の机に座った。