大豊作で領地が貧しくなる!?――領主令嬢は「麦を売らない」と決めました
「今年は大豊作です!」
村長の弾んだ声に、広場が歓声で揺れた。
見渡す限り、麦、麦、麦。収穫を終えたばかりの広場には、袋詰めされた麦が壁のように積み上げられている。
領主である父に頼まれ、今年の収穫を確認しに来た私も、その光景には思わず笑みがこぼれた。
「去年の倍近くあるそうですね」
「はい! こんな豊作は何十年ぶりか!」
村長だけではない。農民たちも笑っていた。
「これなら去年の借金を返せるぞ!」
「うちは屋根を直せる!」
「冬には肉だって買えるぞ!」
今年は天候に恵まれた。春には十分な雨が降り、夏にはよく晴れた。病気もほとんど出なかった。
その結果が、この山のような麦だった。
これほど喜ばしいことはない。
――そのはずだった。
「お嬢様!」
村の入口から若い農夫が駆け込んできた。
「王都から商人が来ました! 麦を買い付けに来たそうです!」
「もうですか?」
「大豊作だって聞いたらしくて!」
広場がさらに沸いた。
ちょうどいい。麦は収穫しただけではお金にならない。売って初めて、農民たちの一年の働きが報われる。
私は村長たちと一緒に村の入口へ向かった。
そこには六台の荷馬車と、何度か領主館でも顔を見たことのある商人が待っていた。
「これはお嬢様。お久しぶりでございます」
「お久しぶりです。今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ」
商人は麦袋を開け、一粒つまんだ。色を見て、匂いを嗅ぎ、指先で割って中身を確かめる。
「うん。良い麦ですな」
農民たちの顔が明るくなった。
「では、今年も?」
「もちろん買わせていただきます」
商人は笑顔で頷いた。
「一袋、銀貨一枚で」
私は聞き間違えたのかと思った。
「……銀貨一枚?」
「はい」
「去年は銀貨二枚でしたよね?」
「そのとおりです」
商人は申し訳なさそうに頭を下げた。
「今年は、この地方一帯が大豊作なのです。王都にもすでに大量の麦が運び込まれております。倉庫はどこも満杯。麦の値段は日に日に下がっています」
農民たちの笑顔が消えた。
「でも、うちの麦は去年よりずっと多いぞ」
一人の農夫が言った。
「去年の倍くらい採れたんだ。値段が半分なら、結局同じじゃないか?」
「……待ってください」
私は振り返った。
「今年、収穫のために人を雇いましたよね?」
「ああ」
「畑も広げました。種麦も去年より多く必要でした。鎌も買い足したと聞いています」
農夫の顔から笑みが消えた。
「去年と同じ売上なのに、今年は去年よりたくさんのお金を使っています」
「……あ」
誰かが声を漏らした。
豊作だった。去年よりたくさん採れた。だから皆、今年は豊かになれると思っていた。
けれど。
「もしかして俺たち……去年より貧乏になるのか?」
広場が静まり返った。
商人が困ったように眉を下げた。
「私も、できることなら去年と同じ値段で買いたいのですが」
「無理なのですか?」
「はい。銀貨二枚で仕入れ、王都まで運べば、売れば売るほど赤字になります」
なるほど。
この人が意地悪をしているわけではない。麦が余っている。だから麦が安くなった。ただ、それだけなのだ。
「他の町へ持っていけば?」
村長が尋ねた。
「おそらく同じでしょうな。この地方全体が豊作ですから」
「じゃあ、どうすれば……」
農民たちが積み上げられた麦を見る。
売らなければ、お金にならない。けれど、安く売れば今年の働きが報われない。それどころか、借金を返せない家まで出るかもしれない。
こんなにたくさん採れたのに。
こんなに皆が頑張ったのに。
「……おかしいですね」
「お嬢様?」
商人が私を見た。
「豊作なのに、誰かが困らなければならないなんて、おかしいです」
「それは……」
「麦がたくさんあること自体は、良いことですよね?」
「もちろんです」
「では、何が悪いのですか?」
商人は少し考えた。
「麦が多すぎること、でしょうか」
「違います」
私は積み上げられた麦を見た。
「麦のままでは、多すぎることです」
口に出した瞬間、自分でも何かが繋がった気がした。
私は商人を見る。
「教えてください。王都では、何なら売れますか?」
商人が目を瞬いた。
「麦ではなく、ですか?」
「はい」
しばらく沈黙したあと、商人の目が積み上げられた麦へ向いた。
「……なるほど」
今度は彼が笑った。
「それなら、話は変わってきますな」
◇
その日の夕方。
領主館の会議室は、普段では考えられない顔ぶれで埋まっていた。
父と会計係。王都から来た商人。村長と農民たちの代表。製粉所を預かる粉挽き。三軒ある醸造所の主人。それに樽職人までいる。
「お嬢様」
村長が不安そうに尋ねた。
「本当に領で麦を買ってくださるので?」
「そのつもりです」
「いくらで?」
「一袋、銀貨一枚と銅貨五十枚」
ざわめきが起きた。
「商人さんより五割も高い!」
「それなら借金を返せるぞ」
「冬も越せる!」
「待ってください!」
今度は会計係だった。
「皆さんは嬉しいでしょうが、こちらの金庫は空になります!」
部屋が静かになる。
「ですから、買った麦をそのまま倉庫へ眠らせるつもりはありません」
私は商人を見た。
「お願いします」
「では」
商人が立ち上がった。
「皆さん。王都では麦が余っております。ですが、小麦粉はそこまで値下がりしておりません」
粉挽きが顔を上げた。
「粉なら売れるのか?」
「売れます」
「うちの水車なら、まだ回せるぞ」
「どれくらい増やせます?」
「夜まで動かせば……倍とは言わんが、今の五割増しくらいなら」
「人は?」
「二人雇えばいける」
会計係が慌てて書き始めた。
「それから、麦酒です」
今度は醸造所の主人たちが反応した。
「麦酒?」
「王都で麦酒の値段は下がっておりません。今年は原料だけが安い」
「そりゃあ……」
一人の主人が腕を組んだ。
「麦がこの値段なら、かなり儲かるぞ」
「どれだけ作れます?」
「今の設備じゃ限界がある。仕込み桶が足りん」
「増やせませんか?」
「作ればな」
「木桶なら俺が作れるぞ」
壁際から樽職人が声を上げた。
「ただ、一人じゃ間に合わん」
「弟子を増やせば?」
村長が言う。
「仕事が続くなら雇うさ」
「続けましょう」
私が言うと、皆がこちらを見た。
「今年だけで終わらせる必要はありません」
すると、農民の一人がおずおずと手を挙げた。
「あの、お嬢様。麦酒だけじゃなくて、パンとかは?」
商人が答える。
「王都まで普通のパンを運ぶのは難しいですな。傷みます。ですが、日持ちする焼き菓子なら可能です」
「うちの女房、焼き菓子なら得意だぞ」
「村にも作れる奴が何人かいる」
「では試作品を作ってみてください」
誰かが言う。別の誰かが答える。また別の誰かが案を出す。
気がつけば、私はほとんど喋っていなかった。
さっきまで大豊作を前に青ざめていた人たちが、今はどうやって麦を使うかで言い争っている。
「待ってください! 一度に喋らないでください! 書けません!」
会計係だけが悲鳴を上げ、笑いが起きた。
父が私の隣で小さく笑う。
「面白くなってきたな」
「はい」
私も笑った。
麦が余っている。
だったら、麦を使えばいい。
それだけのことだった。
「では私は、明日の朝に王都へ戻ります」
商人が言った。
「もうですか?」
「ええ。まず、今日お約束した分の麦は予定どおり買わせていただきます。六台を空で帰すわけにはいきませんからな」
農民たちから安値でも構わない分を買い付け、荷馬車に積むという。
「それと、王都へ戻ったら小麦粉と麦酒、それに焼き菓子の売り先を探しておきます」
「お願いできますか?」
「もちろん。ただし、まだ商品を見ておりませんから、買い付けの約束まではできません」
「それはそうですね」
「試作品を見てもらう約束くらいなら、いくらでも取ってきますよ」
商人は笑った。
「売るのは私の仕事ですからな」
◇
翌朝。
六台の荷馬車は麦袋を満載して王都へ向かった。
そして私たちの仕事も始まった。
農民から麦を買い、代金はその場で支払う。
「本当に銀貨一枚と銅貨五十枚だ……」
「これなら借金を返せる」
「冬の蓄えも買えるぞ」
領主館の金庫は軽くなった。代わりに倉庫は重くなり、そこから麦が次々と出ていく。
「製粉所へ二十袋!」
「こっちは醸造所!」
「焼き菓子の試作分、持っていくぞ!」
水車が回り、石臼が麦を粉へ変える。醸造所では新しい麦酒の仕込みが始まり、樽職人の工房からは一日中木槌の音が響いた。
農夫の妻たちは、領主館の厨房まで借りて焼き菓子を試作している。
「お嬢様、これ!」
「硬いですね」
「日持ち優先!」
「でも美味しいです」
「でしょ?」
皆が動いていた。
私が命令したからではない。自分たちの麦を、自分たちで価値のあるものに変えようとしていた。
小麦粉はすぐにできた。焼き菓子も何度か作り直すうち、王都まで運べそうなものができた。
麦酒だけは時間がかかった。
「まだですか?」
私が醸造所を覗くたび、主人に笑われた。
「酒を急かしちゃいけませんよ、お嬢様」
「分かってはいるんですが」
「待つのも仕事です」
そう言われては仕方がない。
その間にも樽を増やし、仕込み桶を増やし、人を雇った。粉挽きは新しく雇った二人に仕事を教え、焼き菓子を作る女たちは、どの形なら荷車で崩れにくいかまで試していた。
数週間後。
ようやく最初の麦酒が仕上がった。
醸造所の主人が杯に注ぎ、一口飲む。
「うん。これなら出せます」
その日の午後、街道から鐘の音が聞こえた。
「王都から荷馬車だ!」
戻ってきたのは、あの商人だった。
六台の荷馬車には、王都から運んできた塩や布、鉄製品が積まれている。
「お嬢様! 間に合いましたかな?」
「今日、麦酒ができたところです!」
「それはちょうどいい!」
商人は領内の店へ王都の商品を卸しながら、向こうで集めてきた話を教えてくれた。
「酒場二軒、パン屋三軒、それに菓子を扱う商会一軒。まず商品を見せてくれとのことです」
「もうそこまで?」
「商品を見るだけなら向こうも損はしませんからな」
「なるほど」
「問題は、見せたあとです」
商人が笑う。
「買わせるのは、ここからですよ」
◇
二日後。
王都から運んできた品物をすべて卸した六台の荷馬車が、今度はこの領地の商品で埋まっていた。
小麦粉。麦酒。保存の利く焼き菓子。
村長も、粉挽きも、醸造所の主人も、樽職人も、農民たちも門へ集まっている。
「うちの粉、頼んだぞ!」
「麦酒は酒場に持っていってくれ!」
「菓子も忘れないで!」
「分かっていますよ!」
商人が笑う。
「ただし、売れたら私も儲けますからな!」
「たっぷり儲けてこい!」
農夫の一人が叫び、皆が笑った。
「では、お嬢様」
「お願いします」
「売ってきます」
六台の荷馬車が出発する。
私は、その姿が見えなくなるまで見送った。
◇
それから十日。
会計係は朝から何度も窓の外を見ていた。
「まだですかね」
「まだ十日目です」
「十日目です!」
「あなたのほうが落ち着いていませんね」
「領の金庫を見ているのは私なんですよ!」
それはそうだった。
昼を過ぎた頃、領都の鐘が鳴った。
「荷馬車だ!」
門のほうから声がする。
私たちは窓へ駆け寄った。
街道の向こうから馬車が来る。
「帰ってきました!」
会計係が叫んだ。
私は数えた。
一台、二台、三台。
六台。
行きと同じ数――ではなかった。
「……七台?」
まだいる。
八台、九台、十台。
そして十一、十二。
「倍になってません?」
会計係が呟いた。
私は窓から離れた。
「行きましょう!」
領主館を飛び出す。
門へ向かう途中で、鐘を聞いた人たちが次々と家や工房から出てきた。
「商人が帰ったぞ!」
「どうだった!?」
「馬車が増えてるぞ!」
村長も来た。農民も、粉挽きも、醸造所の主人もやってくる。樽職人に至っては木槌を持ったままだった。
十二台の荷馬車には、また王都の商品が積まれている。
先頭の御者台から商人が飛び降りた。
「お嬢様!」
「どうして馬車が増えているんですか!?」
私が聞くと、商人は満面の笑みを浮かべた。
「足りないからです!」
「何が?」
「全部です!」
一瞬、誰も理解できなかった。
「小麦粉は?」
「完売!」
「麦酒は?」
「完売!」
「焼き菓子は?」
「完売!!」
後ろで歓声が上がった。
商人はそれを制するどころか、さらに大きな声を張り上げた。
「それどころではありません! 酒場から追加注文! パン屋から追加注文! 焼き菓子は北へ運ぶ商会がまとめて買いたいと言っています!」
「だから馬車を?」
「六台では足りません! 王都で追加の荷馬車と御者を手配してきました!」
商人が十二台の荷馬車を指す。
「王都からの荷を降ろしたら、十二台全部空きます」
そして、にやりと笑った。
「次はこれ全部に積んでください!」
歓声が爆発した。
「よっしゃあ!」
「もっと作るぞ!」
「水車を回せ!」
「樽が足りんぞ!」
「作る! 弟子も雇う!」
「麦酒は任せろ!」
「菓子焼くわよ!」
誰も私の命令を待っていなかった。
さっきまで商人の周りに集まっていた人たちが、それぞれの仕事場へ勝手に走り出していく。
私はそれを見て笑った。
「お嬢様」
商人が隣で言う。
「はい?」
「私も、ずいぶん儲かりました」
「それは良かったです」
「次はもっと儲かります」
「それはもっと良かったです」
二人で笑った。
その横を会計係がものすごい勢いで走っていく。
「帳簿! 売上! 早く見せてください!」
「ああ、こちらに」
商人から帳簿を受け取ると、会計係はその場で読み始めた。指が数字を追い、途中からその動きがどんどん速くなる。
やがて、ぴたりと止まった。
「……戻ってる」
「何がです?」
「お金です! 麦の買い取りに使った分が、もうかなり戻っています!」
「まだ第一便ですよね?」
「第一便です!」
会計係は顔を上げ、十二台の荷馬車を見た。
「作りましょう」
「はい?」
「もっと作りましょう!」
今度は私が笑う番だった。
◇
それから一か月。
領都の景色は、すっかり変わっていた。
水車は朝から晩まで回っている。醸造所には新しい仕込み場が増え、樽工房には三人の弟子が入った。村には焼き菓子を作るための工房までできた。
街道を荷馬車が絶えず行き来している。
「王都便、出るぞ!」
「北部行きも準備できた!」
「樽をあと五つ!」
「粉はこっちだ!」
あの日の会合にいた人たちが、今ではそれぞれ勝手に動いている。
村長は人手を集め、粉挽きは新しい水車の相談を父に持ち込んだ。醸造所の主人たちは、どの麦酒が一番王都で売れたか競争を始めた。樽職人は弟子を怒鳴りながら、誰より楽しそうだった。
農民たちは、もう麦の値段だけを気にしていない。
「来年は、こっちの麦を増やしたほうがいいらしいぞ」
「酒に向いてるんだってな」
「商人さんが言ってた」
来年の話まで始まっていた。
「お嬢様!」
聞き慣れた声がする。
振り返ると、例の商人が荷馬車の前で手を振っていた。
「今度は何台です?」
「十二台です!」
「全部ですか?」
「全部です。それでも足りなくなりそうですな」
商人が笑う。
「王都だけではありません。北の鉱山町にも販路ができました!」
「では、もっと作らないと」
「お願いします!」
十二台の荷馬車が動き始める。
小麦粉、麦酒、焼き菓子。
少し前まで、売れなくて困っていた麦から生まれた商品だ。
それを見送っていると、会計係がやってきた。今度は走っていない。ずいぶん穏やかな顔だった。
「お嬢様」
「はい?」
「今月も黒字です。それから、麦の買い取りと設備に使った分ですが、このままならもうすぐ全部回収できます」
私は息を吐いた。
ようやく、本当に安心できた。
「来年も大豊作だといいですね」
そう言うと、会計係が笑った。
「ええ」
一か月前なら、きっと言えなかった言葉だった。
今年は大豊作だった。
麦が採れすぎて、値段が下がった。だから私たちは、麦を売るのをやめた。
小麦粉にした。麦酒にした。焼き菓子にした。
すると仕事が増えた。工房が増えた。商人の荷馬車が増えた。領地に入ってくるお金も増えた。
そして何より。
「お嬢様ー!」
遠くから村長が呼んでいる。
「何でしょう?」
「来年の作付けについて、みんなで相談したいんですが!」
「今行きます!」
私は駆け出した。
もう誰も、豊作を怖がっていない。
豊作なのだから。
みんなで豊かになればいい。




