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辺境の小さなハーブ屋と、今日の風

作者: 空野 翔
掲載日:2026/01/31

ある森の奥、人があまり来ない小さな谷間に、ポツンと一軒の木造の小屋があった。屋根には苔が生えて、煙突からは細い煙がゆらゆらと立ち上がっている。

玄関先に吊るされている看板には、丁寧だけど少し歪んだ文字でこう書かれている。


『ハーブと蜂蜜のお店 ~今日はゆっくり~』


店主の僕は、3年前にこの世界に飛ばされてきた、元普通の会社員の佐藤悠馬、27歳。

えっ、転生ボーナス?チートスキル?

…あったよ。一応。

「植物育成(超スロー)」っていう、滅茶苦茶地味なスキルが…。


戦闘力ゼロ。

攻撃魔法ゼロ。

移動速度も普通以下。

正直、ハズレだと思った。


でもその代わり、植えたハーブは驚くほど美味しく育ち、香りも濃厚で、効能もちょっとだけ強めになる。

だから僕は、この辺境の場所でひっそりと、小さなハーブ屋を経営している。


今日も朝の光が柔らかくて温かく差し込む中、店の裏の小さな畑に出る。

ラベンダーがふわっと紫の波を作り、カモミールが白い小さな花をいっぱいつけている。ミントは、勝手に増えて、畑の半分を占領しようとしている。

「みんなおはよう。今日も元気だね。」優しく語りかける。しゃがんで葉っぱにそっと触れると、まるで返事をするみたいに朝露がぽたりと落ちる。


午前中は収穫と乾燥作業。

午後になると、たまに村の誰かがやってくる。

今日のお客さんは、狩人見習いのリナちゃん(たぶん16歳くらい)。まだぎこちない笑顔で、扉の鈴を鳴らす。

「こんにちは、悠馬さん。あの…またカモミールティーはありますか?」

「もちろん。昨日摘んだばかりのやつだよ。蜂蜜もつけてあげる」

リナちゃんは頬を少しだけ赤くして、カウンターの椅子に座る。

店の中はハーブの優しい香りと、薪ストーブのパチパチという音だけ。

外では風が木の葉を揺らし、遠くで鳥の鳴き声がするだけ。


リナちゃんが小さなカップを両手で包みながら、ぽつりと言う。

「…ここに来ると何だか、心臓の音がゆっくりになるんですよね」

「それはよかった。僕もそうだから」2人で小さく笑う。

特別な会話はない。

冒険の話も、魔王の話も、恋バナも出てこない。

ただ温かいお茶を飲んで、外の風の音を聞いて、

「今日もいい天気だね」とだけ言う。それだけで十分だった。


夕暮れ時になるとリナちゃんは「また来ます」と手を振って帰っていった。

僕は店の扉を閉めて、裏の小さな縁側に腰を下ろす。

空は茜色に染まり、遠くの山の稜線が柔らかく霞んでいる。

優しく吹く風が頬を撫でて、ラベンダーの香りがふわっと運ばれてくる。

「…明日も、こんな日だといいな」

誰に言うでもなく呟いて、僕はゆっくり目を閉じた。


この世界に来てから、一番大切なことを学んだ気がする。

幸せってこんな風な些細な日常で、実はすごく静かな音なんだな…って。


―終わり―


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