辺境の小さなハーブ屋と、今日の風
ある森の奥、人があまり来ない小さな谷間に、ポツンと一軒の木造の小屋があった。屋根には苔が生えて、煙突からは細い煙がゆらゆらと立ち上がっている。
玄関先に吊るされている看板には、丁寧だけど少し歪んだ文字でこう書かれている。
『ハーブと蜂蜜のお店 ~今日はゆっくり~』
店主の僕は、3年前にこの世界に飛ばされてきた、元普通の会社員の佐藤悠馬、27歳。
えっ、転生ボーナス?チートスキル?
…あったよ。一応。
「植物育成(超スロー)」っていう、滅茶苦茶地味なスキルが…。
戦闘力ゼロ。
攻撃魔法ゼロ。
移動速度も普通以下。
正直、ハズレだと思った。
でもその代わり、植えたハーブは驚くほど美味しく育ち、香りも濃厚で、効能もちょっとだけ強めになる。
だから僕は、この辺境の場所でひっそりと、小さなハーブ屋を経営している。
今日も朝の光が柔らかくて温かく差し込む中、店の裏の小さな畑に出る。
ラベンダーがふわっと紫の波を作り、カモミールが白い小さな花をいっぱいつけている。ミントは、勝手に増えて、畑の半分を占領しようとしている。
「みんなおはよう。今日も元気だね。」優しく語りかける。しゃがんで葉っぱにそっと触れると、まるで返事をするみたいに朝露がぽたりと落ちる。
午前中は収穫と乾燥作業。
午後になると、たまに村の誰かがやってくる。
今日のお客さんは、狩人見習いのリナちゃん(たぶん16歳くらい)。まだぎこちない笑顔で、扉の鈴を鳴らす。
「こんにちは、悠馬さん。あの…またカモミールティーはありますか?」
「もちろん。昨日摘んだばかりのやつだよ。蜂蜜もつけてあげる」
リナちゃんは頬を少しだけ赤くして、カウンターの椅子に座る。
店の中はハーブの優しい香りと、薪ストーブのパチパチという音だけ。
外では風が木の葉を揺らし、遠くで鳥の鳴き声がするだけ。
リナちゃんが小さなカップを両手で包みながら、ぽつりと言う。
「…ここに来ると何だか、心臓の音がゆっくりになるんですよね」
「それはよかった。僕もそうだから」2人で小さく笑う。
特別な会話はない。
冒険の話も、魔王の話も、恋バナも出てこない。
ただ温かいお茶を飲んで、外の風の音を聞いて、
「今日もいい天気だね」とだけ言う。それだけで十分だった。
夕暮れ時になるとリナちゃんは「また来ます」と手を振って帰っていった。
僕は店の扉を閉めて、裏の小さな縁側に腰を下ろす。
空は茜色に染まり、遠くの山の稜線が柔らかく霞んでいる。
優しく吹く風が頬を撫でて、ラベンダーの香りがふわっと運ばれてくる。
「…明日も、こんな日だといいな」
誰に言うでもなく呟いて、僕はゆっくり目を閉じた。
この世界に来てから、一番大切なことを学んだ気がする。
幸せってこんな風な些細な日常で、実はすごく静かな音なんだな…って。
―終わり―




