第5話:音を言葉にしてくれる人(結芽)
彼が言葉をくれるたび、私の中の音がほどけていく気がした。
ずっと閉じ込めていた旋律。
誰にも聴かせなかった音。
それが、彼の一言で「呼吸」し始める。
「ここ、眠たそうな感じがする」
「こっちは、スキップしてそう」
「ここは……思い出をそっと撫でてるみたい」
彼は音符が読めない。
なのに、私の中の「意図」に触れるみたいに言葉を選ぶ。
それが怖くもあった。
近づけば近づくほど、失ったときの痛みを想像してしまうから。
でも。
彼が私を見て笑うと、
図書館の空気まで柔らかくなる気がした。
ある日、彼が楽譜の一小節を指差した。
「ここ、何でか分かんないけど……誰かを待ってる感じがする」
私は息を呑んだ。
その旋律は、私が「誰にも届かなくていい」と思いながら書いた音だった。
届かないことを前提にした音。
だからこそ安全だった音。
「……待っていたのかもしれません」
口に出すと、胸の奥が少し痛んだ。
でも彼は、頷いた。
「音楽って、誰かに届けるために生まれるんですね。だから、僕にも届くんだ」
その言葉が、私の怖さをゆっくり溶かした。
だから私は、家で何度も書いては消して、やっと完成させた一枚を持ってきた。
封筒に入れて、彼に手渡す。
「これは……あなたの言葉から生まれた曲です」
タイトルは——『静かな旋律』。
彼は目を見開いたあと、静かに笑った。
「僕の言葉が、音楽になるなんて……嬉しいです」
その瞬間、私の指先が震えなくなった。
楽譜の上で、ふたりの影が重なっている。
そして気づいたら、彼の手が、私の手に触れていた。
音のない世界で、触れた温度だけが、確かな旋律になった。
(これは恋なのか、救いなのか。あなたなら、どちらだと思いますか。どちらでもいい、と言えるほど静かな気持ちになったことはありますか。)




