第4話:雨のあと、光のまえに(芹沢)
俺たちは、いつの間にか話すようになっていた。
人が少ない図書館は、会話が目立つはずなのに、結芽さんの声は小さくて、空気に溶ける。
俺も自然と声を落とす。
ある日、俺は『風の譜』のあるページを開いた。
端に小さく鉛筆で書かれた文字があった。
——雨のあと、光のまえに。
曲名みたいだと思った。
勝手な決めつけだ。
「この曲、実在するんですか?」
聞いた瞬間、結芽さんが一瞬だけ固まった。
罰の悪そうな顔が、やけに幼く見えた。
俺は、つい笑ってしまった。
「……すみません。悪戯が見つかった子どもみたいで」
「……可愛らしいって、言いました?」
言った。
言ってしまった。
最悪だ。
でも結芽さんは怒らなかった。
頬だけが赤くなって、視線を泳がせて、立ち上がった。
「じゃあ……折角なので、見てもらおうかな」
彼女は司書机の引き出しから、黄ばんだ紙を持ってきた。
線のない用紙に、不格好な音符。
でも、丁寧に書かれている。
タイトルは——雨のあと、光のまえに。
「この曲、私が書いたんです。あの本の作曲家に憧れて」
俺は音符を読めない。
でも、なぜかそこに「時間」が見えた。
書いたときの息づかいみたいなものが、紙に残っている。
「……静かな朝の、まだ誰も起きていない時間みたいだ」
口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。
でも、嘘じゃなかった。
結芽さんは目を見開いて、それから少しだけ肩の力を抜いた。
窓の外は雨だった。
分厚い窓のせいで音は聞こえない。
俺たちの声だけが、図書館の静寂をゆっくり揺らす。
そのとき思った。
音が鳴らないのに、確かに何かが届く。
それは、俺がずっと欲しかった種類の温度だ。
(音がなくても、確かに伝わるものがある。そう信じたくなった人は、どれくらいいるんだろう。)




