第3話:『風の譜』という本(結芽)
次に彼が来た日、私は少しだけ焦った。
自分でも分かっている。
私は「待っていた」。
そんなこと、ありえないのに。
司書と利用者。
それだけの関係のはずなのに。
彼は展示棚の前で立ち止まっていた。
そこには、私が作った小さなコーナーがある。
「音楽と記憶」
誰も気づかないような棚。
けれど、私はそこに『風の譜』を戻した。
もし彼が、また手に取ってくれたら——と思ってしまったから。
彼が私を見て、驚いたみたいに目を丸くする。
「この展示、あなたが?」
問いの仕方が、不器用で、優しい。
私は頷いた。
「はい。音楽って、記憶とすごく結びついてるんです」
指先で本の背を撫でる。
本を触るときだけ、音楽を触るみたいに慎重になる。
「音が鳴らない場所だからこそ、音を思い出せる気がして」
彼が言う。
「音楽って、聴こえなくても残るんですね」
その言葉は、私の胸の奥へすっと入った。
音楽を失った私の中にも、まだ何かが残っている気がした。
「誰かの言葉が、旋律になることもあります」
そう言うと、彼は少し驚いた顔をして笑った。
「……いいですね、それ」
たったそれだけの会話なのに、私はその日の夜、何度も反芻してしまった。
音のない場所で、誰かの言葉が残る。
それがこんなに温かいなんて、忘れていた。
(彼の言葉は、音を知らないからこそ、私の中にすんなり届いたのかもしれません。)




