第1話:音が怖くなった私(結芽)
私は、音が怖くなってしまった。
拍手も、足音も、誰かの笑い声も。
音が鳴った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んで、息が浅くなる。自分の心臓の鼓動だけが、最悪に大きく感じられて——そのまま世界から逃げたくなる。
だから私は、図書館で働いている。
ここには、音が少ない。
ページをめくる音と、椅子が床を擦る音と、たまに遠くの咳払い。
それらは「生活の音」で、私を傷つけない。
音楽をやめた私が、生き延びるために見つけた、唯一の避難所だった。
この図書館は、立地が微妙で、近くに子どもの施設もない。
だから静かで、その静かさが逆に人を寄せつけない。
監視カメラも多くて、スマホをいじる死角もない。
働く人も少ないし、居座る人も少ない。
——私には、ちょうどよかった。
そんな日々が、色を変え始めたのは、秋の手前の昼だった。
窓の外の木々が揺れていて、曇ったガラス越しに葉の影が揺らめく。
カーディガンを持ち込むべきか考えながら、ふと視線を上げた。
音楽随筆の棚の前に、一人の男性が立っていた。
平日の昼に、きちんとしたスーツ。
老人でも主婦でもない。仕事の匂いがするのに、目だけが少し疲れて見えた。
彼はスマホで何かを検索して、すぐポケットにしまい、指先で一冊の本をそっと引き抜いた。
——『風の譜』。
亡き作曲家の手紙と楽譜をもとに、音楽と人生の交差を書いた随筆集。
私が、音楽から逃げてなお、なぜか手放せずにいる一冊。
その本を選ぶ人は、少ない。
だから、胸の奥がほんの少しだけ浮いた。
彼がカウンターに来る。
私を見ないようで、ちゃんと礼儀のある距離で、低い声。
「お願いします」
私は本を受け取り、バーコードを通す。
慣れた手つきのはずなのに、その日は指先が少し熱かった。
そして、気づけば——司書としてではない声が出ていた。
「その本、選ばれる方が少ないんですよね」
しまった、と思った。
人気がない本を選んだと笑うみたいに聞こえる。
慌てて言葉を重ねる。
「あ、えっと……私、その本が好きで。だから嬉しくて、つい」
自分でも意味の分からない言い訳だ。
恥ずかしさに喉が詰まって、最後にどうでもいい質問を落としてしまう。
「この本、好きなんですか?」
沈黙が流れた。
いつもは心地いい静寂が、その瞬間だけ鋭かった。
私は早口で取り繕う。
「すみません、気にしないでください。変なこと言いました」
けれど彼は、逃げなかった。
「好き、というか……」
少しだけ間を置いて。
「……なんとなく、惹かれたんです。今の僕に、必要な気がして」
その言葉に、胸が鳴った。
——なんとなく。
その曖昧さが、私の人生を作ってきた。
そして否定され、壊れた原因でもある言葉。
でも彼の声は、静かで、芯があった。
言葉を選ぶ間が、音符の休符みたいで、なぜか心地よかった。
理由なんて、たぶんない。
ただ、私は——もう少し彼と話したいと思ってしまった。
それが「恋」なのかどうかも、まだ分からないまま。
(あなたなら、音のない場所で誰かに目を奪われたとき、視線を逸らしますか。それとも、少しだけ、留まりますか。)




