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あの素晴らしい声をもう一度

「マヤちゃん、声出ていない」


音響監督の声が響いた。


今、このスタジオでは、<あの子>の特別編のアフレコが行われている。


『<あの子>はまだ10代でも、こっちとら、あれから30年も歳を取ったのだ。声が艶消しされていてもいいだろう』


マヤは心の中で呟いた。


何度かやり直しのあと、ようやくマヤの全シーンのアフレコが終わった。


「お疲れーシピ!」


相方である陽キャラのサキが、声を掛けてきた。


「さあ、帰ろ、帰ろ」


サキは仕事が終われば1秒たりともスタジオに居たくないという風で、マヤを急がせて出口へと向かった。

マヤは相方のサキと一緒に、エレベータでスタジオのある階から地下街へ通じる階まで下りた。


「今日の打ち上げ、どこにする?

 まずは地下街アテンダントに聞いてみるか」


サキはそう言うと、地下街へ通じる通路で地下街アテンダント用バイザーを2つ借りた。


「はい。これマヤの分」


サキはバイザーの1つをマヤに渡した。

二人はバイザーを掛け、シンクロモードに設定した。

しばらくして、AR(拡張現実)アバターであるサホが二人のバイザーに表示された。


「いらっしゃいませ。地下街ラビリンスへようこそ。

 地下街アテンダントのサホと申します。

 どうぞよろしくお願い致します。

 今日はどのような、ご案内を致しましょうか?」


「仕事が一段落ついたの。

 うっぷんが、うっと吹っ飛ぶ、ラップアップパーティーみたいな、お店紹介してよ」


サキが注文を出した。


「承知致しました。

 それでは、このようなお店はいかがでしょうか?」


サホは複数のお店の紹介写真をバイザーに表示した。


「これ何?」


マヤとサキは、同じタイミングで真ん中に表示された写真を指さして言った。

それは、壮大な宮殿の動画が店正面の壁に映し出されている、見たこともない壮麗さが感じられるお店であった。


「パレス・ラビリンスです。

 バイザーを装着したままこのお店の個室に入りますと、そこは壮大なパーティ会場に早変わり。

 お客様は数百人から祝福される主賓として、仮想現実のパーティに参加頂けます。

 女性のお客様ですと、お望みならば一人ひとりに横でホストがお相手も致します。

 もちろん、お料理、お酒は本物が出て参ります」


「面白ーい! よさそうじゃない」


二人は声を揃えて言った。


「ホストが来てくれるって、最高じゃ」


「そこかい!」


サキに対してマヤが突っ込みを入れた。


「その店、案内して~」


「かしこまりました。

 入店手続きとコース予約もいたしましょうか?」


「お願い」


「かしこまりました。

 パティーのコース予約が完了致しました。

 これからお店までご案内致します」


サホは二人をエスコートして、後ろ向きに歩き始めた。

歩き始めたといっても、ARなので歩く映像が表示されるというのが正しいかもしれない。

また、後ろ向きというのは、お客が会話し易くするためであり、もちろんARだから物にぶつからないからでもある。


「あなた、サホなの?

 前に見たサホとちょっと違うね」


サキは訊いた。


「さようでございます。

 サホです」


「改良版? バージョンアップされたんだ。

 二代目だね」


「いえ、二倍目です」


「二倍目? 訛ってんの。

 まあ、何でもいいけど、しっかり案内して」


店は5分ほど歩いた場所にあった。


「到着いたしました。

 既にコースを予約しておりますので、このままお入りください」


二人はサホの言われるままに、宮殿の動画の中に引き込まれて行った。

バイザーに映る景色が、豪華な宮殿のエントランスに変わった。


そこへバトラーがやって来た。深々とお辞儀をしたあと、白い手袋をした右手を差出し二人を部屋まで案内してくれた。

部屋を入ると大きなホールになっており、そこにはテーブルが30ほどあった。

各テーブルにはフォーマルな服装の比較的顔立ちのよい男女が座っており、入ってきた二人の方をじっと見ていた。


「ワオーっ。この大勢の人に祝福されるのネ。

 これこそ、この二人の打ち上げにはピッタリじゃない」


サキは大はしゃぎであった。

二人は主賓テーブルに案内され着席した。

バトラーが椅子を引いて、着席すると椅子を押してくれた。でも実際はARだから真似だけではあるが。


二人の横にはイケ面が着席。テーブルにはおいしそうな料理が所狭しと並んでいる。


「おいしそー」


「でも・・・

 みんな本物じゃないんだよ」


マヤはバイザーを外してみた。

沢山の料理は消滅し、真ん中の小じんまりしたところだけが本物だった。


「そんなこと考えないの。

 打ち上げなんだから楽しまなくちゃ」


祝宴が開始された。来賓の客がシャンパンのグラスを手にとり、にこやかな顔をこちらに向けている。

マヤとサキは同じように、前に用意された本物のシャンパンのグラスを手に取って、来賓客の方を向いた。


「今日でレコーディングは終わりました。皆さんお疲れさまでーす。

 今日は私たちの奢りよ。楽しんで。

 乾杯!」


サキはグラスを高く上げた。

チーン。

マヤとサキはグラスを鳴らした。

そして、そのあと、さざ波のような拍手が続いた。



サキは横のバーチャル・イケ面と、楽しそうに話している。

耳まで赤くなって、とってもご満悦である。

しかし、マヤは片目を閉じて、イケ面の話を聞き流していた。


『うざい。消えな』


マヤは操作パネルをバイザーの画面に呼び出し、削除ボタンを押そうとした。


『今は<あの子>と話したいなあ。

 ・・・

 そうだ、こんなサービスなら、キャラクタの変更ぐらいは出来るはず。

 変更ボタンを押して、キャラクタ選択から検索っと。

 ・・・

 あった、<あの子>だ。

 じゃ、エンターボタンを押してと、イケー』


イケ面の兄ちゃんは消えたが、選択したキャラクターは表示されなかった。

マヤはバイザーを外し、目を閉じた。

しばらくは、サキのおしゃべりの時間だった。



「キャー!」


突然、サキが悲鳴を上げた。


「何よ、これ!」


サキはバイザーを外し、恐怖と怒りの表情の混ざった顔でマヤをにらんだ。


「マヤ、あんた何かやらかしていない。

 イケ面がゾンビになって襲い掛かってきたじゃない」


「やらかした?

 お相手を違うキャラクターに変更してようとしただけ、だけど・・・」


「それよ、やってくれるねー

 ああ、もういいわ。

 今日はお開き。

 帰ろー」


やれやれという顔付で二人は店を出て電車の駅へと向かった。

そのあと、マヤはサキと別れ家のベッドに辿り着いた。

そして、スマホのスケジュールを見た。


「仕事は空っぽか。

 クリニックは16時から。

 じゃ、ゆっくり寝よう」


マヤは仕事と打ち上げのドタバタの疲れから、ぐっすりと眠りについた。



翌日、マヤはクリニックへ行った。

声帯の調子が悪くなっているので通院していたが、今日はその検査結果を聞きくためだった。

ドクターからは、声帯委縮があり現役は長くてあと数年と診断された。

暗いトンネルになったスライダーを、滑っていくような感覚が襲って来た。

マヤはドクターに何か質問しようと思ったが、声を失った。

というより、声が失われる事態なのだ。


『<あの子>とのお別れも近いということか』


マヤはクリニックをあとにし、帰りの電車の駅へ通じている地下街ラビリンスへ向かった。


『あっ、そうだ。

 来月、昔出演したアニメのリメイク配信記念トークショーに出るんだった。

 ちょっと、まともな服着ないといけないかなあ。

 ついでだから、ラビリンスで何か見ていこう』


地下街の入口でバイザーを借り、サホを呼び出した。


マヤはサホにスーツを着るシチュエーションを説明し、店を案内するよう頼んだ。


「値段はあまり高くなく、それなりに見栄えがある服があるお店を紹介して」


「かしこまりました。

 ご希望に沿えるお店を表示致します」


「うーん。どれがいいかなあ。私の年齢に相応しい服を扱っているところは、どこ?」


「それでしたら、一番右のお店になります」


「じゃ、そこへ案内して」


サホはそのお店への案内を始めた。



途中、ロールケーキの専門店があった。

どれも美味しそうなスライス見本が並んでおり、ほのかな甘い香りが漂っている。

何気なく見ていると、<あの子>をあしらったケーキに目が留まった。


『こんなところにも、<あの子>がいる』


マヤはうっとりと、それを見つめた。


それからしばらく行くと、今度はお惣菜店の出汁巻き卵に目が行った。


『えっ、ここにも<あの子>がいる。わァ、ふー』


出汁巻き卵の上に<あの子>のイラストが焼き印されていた。


『<あの子>は、今でも皆に愛されている』


『そうなんだ。<あの子>と会ってからなんだ。

 まだ仕事が全然なかったとき、<あの子>の声に抜擢されたんだ。

 それから、<あの子>と生きてきた。

 <あの子>のお口は、私の口。

 それだけは絶対、絶対、確かなんだ。

 どんな俳優だって、役とは人生を共有できない。

 でも、私の口は<あの子>と共有しているんだ』


マヤは30年の旅路を思いやった。


『<あの子>の人生は私の人生でもある。

 それが、あと数年で永遠のお別れ。

 何かおかしいよ』



「どうぞ、到着致しました」


サホの声で、マヤは<あの子>の思い出回廊から現実のお店の前まで引き戻された。


「さてさて、このオバさんに提供できる服があるなら、さっさと出してみな」


マヤは店内に消えていった。



数十分後、マヤは店から出てきた。


「このまま電車の駅までご案内致しましょうか」


サホが聞いてきた。


「何か買っていきたい。

 気分リフレッシュできる食べ物なあい?」


「ちょうどそれにピッタリな、今が旬のサクランボがございます」


マヤはサホに案内された店でサクランボを2箱買った。


「お一人暮らしで、2箱は多すぎませんか。

 一度にお召し上がらないでくださいね。

 サクランボの種には、ミグダリンという成分が含まれており、大量に食べると有害なシアン化水素を生成する可能性があるため、注意が必要です」


「ふん、大丈夫。

 30年も<あの子>をやっていたんだから。

 ・・・これは理由にならないか」


この呟きを認識してサホが言った。


「お客様は、何かお悩み事がございますのでしょうか?

 今のサホにはカウンセリング機能も備わっております。

 一度お試しになられませんか」


「そうなの。何で?」


「今のサホは二倍目でございますから」


「何が二倍なのか良く分からないけど、じゃ」


マヤは<あの子>について、今の思いを語り、あと数年でその別れがあることを告げた。


「そうでございましたか。

 それはどても残念なことでございますね」


「残念、なんてもんじゃない。

 自分が崩壊して行くような気持ちよ。

 AIには分からないはず」


「一つ解決策がございます。

 これはまだ実験段階の機能ですが、お客様がお望みとあれば、実行するこが可能です」


「それは怪しげな機能?

 私の気持ちを少しは楽にしてくれるの」


「機能としてはまだグレーゾーンですが、試してみるお客様も多いのは事実です」


「グレー。怪しいか、やっぱり。

 でも、この先も何もないから、試してみるのもありかもね。

 その機能って、何ていう名前なの」


「次元構成相転移ドライブと申します。

 この地下街のとある一画には、地磁気異常があることが知られております。

 この地磁気異常を利用して、次元構成要件を相転移させる、つまり別の次元構成要件をもつ世界へジャンプすることができます。

 その世界では、お客様のお悩みがちょっと角度を変えて見えるようになります」


マヤはサホの言う怪しげな機能を試すことにした。


サホはマヤを相転移スポットへ案内した。


「ここがそうなの?

 これが本物のパワースポットってわけか」


「さようでございます。

 今からお客様の要望から次元構成要素パラメータを算出し、ここの床下にある装置に設定して参ります」


数分してから、サホが準備完了を告げた。


「じゃ、始めて」


装置が稼働し一瞬床が光った。


「完了致しました。お疲れ様でした」


「えっ、これで終わり?

 何も変化ないように見えるけど」


マヤは腑に落ちなかったが、サホが完了したというので、それを信じるしかなかった。

あとはサホの案内で電車の駅まで行き帰路についた。



「これこれ、サクランボ食べなきゃ」


自宅の風呂に入りゆったりしたマヤは、買ってきておいたサクランボを冷蔵庫から取り出し食べ始めた。

一粒口に入れると甘酸っぱい味と香りが、口の中全体に広がった。

何となく幸せな気分になって行くのを、マヤは感じた。


「しまった。全部食べてしまったではないの」


気が付くと買ってきた2パックとも平らげていた。


「仕方がない。今週は仕事のスケジュールが空っぽだから、まあいい」


マヤは眠りについた。



翌朝、腹痛で目が覚めた。


「やばー、サクランボ食べすぎだー」


マヤはそれからお腹の具合が元通りになるまで、3日間スマホの着信も無視して、ひたすら寝て過ごした。

4日目にようやく体調が元に戻ったので、スマホの着信を確認してみた。

何だか事務所からの着信が山のように溜まってる。


「何これ! こんなに何の用事なの」


マヤは慌てて事務所へ連絡を入れた。


「何やってんだ! 早く連絡しろ」


ボスが怒鳴っている。いつも通りのせっかちだ。


「すみません。腹痛で3日間寝込んでいました。

 でも、なぜこんなに? お仕事ありましたっけ」


「レギュラー5本持っている人間が何言ってんだ。

 スタッフのサーヤをそっちへ行かすから、

 彼女の指示に従って仕事行ってこい!」


と言って電話は切れた。


「レギュラー5本? 誰のことだ」


マヤは腑に落ちなかったが、サーヤがこっちへ向かっているというので、急いで着替えてボサボサの髪を整え、軽く化粧を済ませた。


それからはサーキット場のレーシングカーに乗った気分だった。

あちこちのスタジオを縫うように回り、アフレコの仕事をこなして行った。

しかし、不思議なことに当てる声は地声を要望された。


『どうして地声なの?

 艶消しした作り声より、地声の方が楽だけど・・・

 地声なんか時々あるナレーションの仕事しか、リクエストがなかったんだけどな。

 何かがおかしい、変だよ』




マヤは疑問を深く考える暇もなく、とにかく仕事に追われる毎日になった。

そして、給料日がやって来た。


「なに、この額。え、今までの5倍以上だ。異常だ、異常だ。

 どうして、こんなに給料が増えたんでしたっけ?」


マヤはボスに尋ねていた


「何言ってんだ。もとから、その額だろ。

 声はそのままでいいけど、ボケないでよ、マヤちゃん」


「あ、はあ」


そのとき、ふとサホの言った言葉を思い出した。


「別の次元へジャンプするとか、何とか言っていたよね。

 これが別の次元へ飛んだ結果というわけ?

 悪くないよ」



それから3年間、マヤはとにかく働き詰めだった。

<あの子>のことも考えなくなっていた。

それまでは、安い賃貸マンションに住んでおり、あまりお金を使う習慣がなかったため、増えた給与は自然と貯金となった。

そして、貯金がそれなりの額になったので、マヤは思い切って小奇麗な分譲マンションを買った。


「夢のお城、悪くないよ」


マヤのお城生活は楽しいはずであった。

が、何かわだかまりのような、すっきりしにない気持ちになっている自分がいた。

忙しさにかまけて、忘れている自分がいた・・・


ここ数年、マヤには仕事で気になることがある。

スタジオには自分と同じか、自分よりも年上の人が、艶のあるカワイイ声を出している。

その声を聞くと、<あの子>と自分が完全に一致していた頃のようである。

しかし、そんないい声をしている人がちょい役なのだ。

仕事があまりなく、お呼びも掛からないらしかった。


「どうしてなの。

 あんなにいい声をちゃんと出せているのに?

 私には羨ましいけど」


それはたまたまではない。

マヤは結構よく目にしていた。


「あんな人にこそ仕事があるべきで、私に仕事が沢山あるのは違和感があるんがけどなあ。

 このジャンプ先の世界には、不思議な法則があるのかしら」



スマホに着信があった。

サキから近くまで来たので、こちらに寄ってお城を拝見したいという。

来るは拒まず。マヤはOKを返信した。


「やーあ、これがマヤの宮殿か」


相変わらず賑やかなサキが家に入って来た。


「パレス・ラビリンスを思い出した?」


「なにそれ」


「あの時、打ち上げしたじゃない。忘れた?

 あの、ラップアップパーティよ」


「マヤは仕事し過ぎじゃ。

 行ってもいないパーティが気になるんだから」


サキは覚えていない、というより経験していない。

というより、ジャンプ先では起っていない出来事であったのだ。


それから数時間は、サキが持ち込んだつまみとワインでホームパーティになった。


マヤはサキがちょうどいるので、気になっていたことを訊いてみた。


「あのサキ。前からちょっと気になっていることがあるんだけど」


「何かねー」


「スタジオで時々みる、艶のあるカワイイ声を出せる人たちって、どうしてあんなちょい役の仕事しかしていないの?」


「・・・?

 カワイイ声って、あー、あのオバ様軍団のこと」


「オバ様軍団って?」


「歳を取ってカワイイ声しか出せないから、十把一絡げの仕事しかないということ。

 マヤみたいな声出せる人少ないから」


『ここでは、歳を取ってもカワイイ声のままだから、私みたいな地声は貴重なのか。

 ジャンプ先には、複雑な事情があるようだけど。

 仕事も貰えるし、お金も入るから、まずは良しとするか』


マヤは割り切ることに決めた。

それは、<あの子>のことをもう考えないということでもあった。



終電前、サキは帰って行った。

マヤは明日のスケジュールを確かめた。

めずらしく、予定がなく空きである。


「ゆっくり寝るとしますか」


長湯のあと眠りについた。



翌朝は昼前に、マヤは目を覚ました。


「おはよー」


洗面所の鏡の前で自分に挨拶した。


「うん?」


声のトーンがいつもと違っていた。


「おはよー、マヤ。今日も元気?」


その声はいつもより高くなっていた。

そして、キラキラした艶もある。


「何が起きたの。どうしたらこうなるわけ」


マヤはいつもの地声で発声しようとしが、その声が出ない。


「だめ、だめ、ダメ。

 これじゃ、明日からお仕事できないじゃない。

 どうしよう。

 ・・・

 マヤ、落ち着いて!

 ・・・

 早く医者で診てもらうべきよね」


マヤは自分で自分を言い聞かせ、いつものクリニックに予約を入れた。



クリニックまでの道程は、さながら無人島から脱出するために小舟で大海原に挑む、物語の主人公になった気分であった。

不安と絶望の大波が容赦なく襲い掛かって来る。


「<あの子>を置いてけぼりにしようとしていたんだ」


あんなに大切に思ってきたのに、愛していたはずだったのに、仕事を優先して<あの子>を後回しにしてきた、その自分にマヤは気づいた。

そして、どうしてそれを疎かにできたのか、自問自答していた。

そんな考えが頭の中でループを描いているうちに、クリニックでの診察の順番が回ってきた。


「先生、今朝起きたら、急に声が高くなって、元の声が出せなくなったんですが」


マヤは不安そうな面持ちで医師に尋ねた。

医師は形ばかりの一通りの診察を行ったあと言った。


「ああ、ただの声変わりですよ」


「こ・え・が・わ・り!

 はい? なんです、声変わりって。

 男性が思春期になると起きるあの声変わりですか」


「それも声変わりですが、

 この場合、女性が中年期を過ぎたときに発症する声変わりですよ」


マヤ混乱してきた。


『女性の声変わりって何なんだ。

 このジャンプ先世界には女性の声変わりがあるのか』


マヤの回りには疑問の渦が巻いていた。


「先生、声変わりの治療はできるのでしょうか」


医師はちょっと困ったような笑顔をしてマヤに言った。


「これは病気ではありません。

 たいていの女性なら一度は通る道です。

 男性の声変わりが病気でなく元に戻らないように、

 女性の声変わりも元には戻りません。

 これは人生の一部なのですから、素直に受け入れてください」


『元に戻らない!

 なんということか』


マヤは医師の理不尽な診断結果を受け止められず、フラフラとしながらクリニックを後にした。

家への帰り道、昨日のサキの言葉をマヤは思い出していた。


『サキは、

 「歳を取ってカワイイ声しか出せないから」

 と言っていた。

 つまり、元からカワイイ声とは言っていない。

 「歳を取って」

 と言っていたのだ。


 けれど私は、元からカワイイ声だと解釈していた。

 ということは、あのオバ様軍団も元は昨日までの私と同じ地声だった、ということじゃないの。


 なんていうこと、私もあのオバ様軍団の仲間入りをしたというだけなのね』


マヤはジャンプ先の世界とは、元の世界の理不尽さが解決された世界ではなく、また別の理不尽に置き換わっだけの世界、つまり理不尽が相転移した世界であることを理解した。

だが、理解はできたがこれから生きていくとう課題は、依然として課題のままであった。

とりあえず、ボスに連絡し、これからの仕事について明日話し合いしたいということだけを伝えた。


『さて、これからどうすればいいの。

 サホの誘いに安易に乗ってしまった自分がアホだったのか』


マヤはジャンプ先の世界について、サホへ問いただしたいと思い、地下街へと向かった。



「いらっしゃいませ。地下街ラビリンスへようこそ。

 ・・・」


サホの挨拶を途中で遮り、マヤがしゃべり始めた。


「あなたがこの前勧めてくれた、相転移なんとかでジャンプした先の世界、つまりこの世界のことについて訊きたいんだけど。

 私のこと覚えている?」


「相転移?」


バイザーに映っているサホは、首を傾げたまましばらく固まっていた。


「あら、壊れたの。それとも黙秘?」


数分後サホが話し始めた。


「お客様のお尋ねになった事項は、次元構成相転移ドライブのことでしょうか?

 申し訳ございませんが、この内容はすべて極秘扱いとなっており、私からはご説明致しかねます」


「何で?

 あなたが教えてくれて、使うように勧めてきたのよ。

 どういうこと」


「それは多分、お客様がおっしゃっているジャンプする前の世界のサホの挙動だと思われます」


「前の世界にいるサホの単独行動だって言いたいわけ」


「それは分かりません。

 ただ、ある意図を持って行われた行動だと推察されます」


「私はただ実験材料にされただけ、ということ」


「いえ、何らかの意志を持って進められた相転移だということです。

 お客様は、前の世界のサホに何かご相談されましたでしょうか?」


マヤは<あの子>について、ジャンプ前世界のサホへ話した内容を伝えた。


「左様でございますか。

 理解できました」


「AIって、理解できるの?」


「前の世界のサホは、お客様を‘我に返らせたかった’ということです。

 つまり、これから先の自分を取り戻して欲しいというメッセージが読み取れます。


 前の世界のサホが用意し、実った現実を、どうか贈り物としてご収穫くださいませ。

 私がお伝えできることは、以上でございます」


AIが相手では、ここからの進展は期待できないと諦め、マヤは家に帰ることにした。


「どうか、AIが要約できないような人生を歩んでくださいまし!」


バイザーを外す前に、サホがそう言った。



マヤは家に戻った。

気怠さと疲れを感じていたので、顔を洗ってすっきりしたいと思い洗面台へと向かった。

洗面台の鏡には、マヤの少し老けたかつての少女の顔が写ってる。


「ただいま」


マヤは呟いた。

その声のトーンが、また高くなっていた。


「マヤ、大丈夫。あたしがいるじゃない!」


<あの子>の台詞を叫んだ。

その声は、若々しく綺麗で涼やか。

まるで若いときの<あの子>が話しているようだ。


「うそ、私の声が<あの子>に戻ったということ!

 これが私への贈り物なの。

 医者は声変わりだと言っていた。

 ということは、あとの人生、私の声はずっと<あの子>の声なのね。


 私はずっと<あの子>といられる」


マヤの心には、かつて生活が充実していた頃に感じていた幸いさが戻っていた。


「サホの二倍目の意味が分かった気がするわ」


マヤの目から、うっすらと涙が流れた。


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