34. 軽井沢へ
夏休みに入ったため生徒の姿のない教室で、神妙な面持ちで「真田さん」と教卓越しに呼びかける先生に、あたしは「はい…」とぼーっとしながら返事をした。
東城が普段見せない表情を見せることでこんなにもあたしの脳内の疑問符が増えるのか、とか、自分の失敗っていうのは、なんの失敗のことだったのか、とか、父さんってヴラド3世のことだよな、と、取り止めもない思考が頭に浮かんでは消えていたため、補修なんて集中できるものではなかった。
「 “歴史は常に勝者と権力者によって綴られている” ————こんなことを記述問題に書き記した生徒はあなたが初めてです、真田さん」
「へ?」
あたしは聞き覚えのある言葉に思わず間抜けた声を出して先生を見返した。
そういえばどうしてもわからない記述問題に、空白で出すよりかは……と思って、東城の名言を書き残した記憶が蘇ってくる。
目の前の先生は、なぜか噛み締めるようにうんうん、と頷いて言った。
「先生は感心しました。真田さんは、もしかすると意外と勘のいい子かもしれないという先生の見込みは正しかったようです。こんな視点で歴史の有り様を根本から問う、それはまさに歴史という学問に対する鋭い切り口です。真田さん、これを機会に歴史研究同好会を立ち上げませんか?」
あたしは呆然としながらも、ほとんど反射神経で「いや、遠慮しておきます」と答えていた。冗談じゃない、これ以上よくわからない同好会に時間を取られるなんて。
結局、東城の名言に救われたのか呪われたのかよくわからないが、補修の代わりに、自分の好きな時代や歴史について自由にレポートを書くという自由研究が出されたのである————まあ、わざわざ学校に赴かなければいけない補講と比べれば、いささか楽かもしれない。
「よかったじゃないか」
その話を聞いた東城は、ケーキをカットする手を止めて、こちらを一瞥して眉を上げる。
待ちに待った夏休みは、とうとう鬼探偵が慈悲を見せてくれたおかげで、キャッスル・ブランでのバイトは週1日となった。
カフェの利用客は学生のみならず様々な年齢層であったが、冷房の取り付けられていない(なんとこのご時勢に、だ)このカフェをわざわざ利用しようとする客は他の時期に比べて少ないようだった。
それでも先週は、最後の足掻きを見せて「難攻不落だけど最高にイケメン」の「聖くん」をビーチに誘おうとするいつもの女子大生たちは、小型の手持ち扇風機を顔の真横にくっつけながらやってきて、「お願いっ!」っと嘆願していた。
東城聖がビーチにいるという想像が、この想像力豊かなあたしでさえ描けないほどに「東城とビーチ」———いやもっと正確に言えば、「夏の楽しいイベントやアクティビティと彼」は全くと言っていいほど似合わないものだった。というか、何をやるにしてもこの炎天下の中に彼を数秒以上留めておくということが物理的に厳しいだろう。
アイスコーヒーをくっと飲み干したサラリーマンが、「ご馳走さん」と短く言って店のドアの小さなベルを鳴らして去ったあと、あたしは店内の角に唯一据え置かれた、でかい昭和風の扇風機の目の前に座り込み、「あ〜あ」と無駄に口を開けてだらしない声を出した。
吸血鬼は日陰であれば温度は関係ないのかというほど、東城は夏でも長袖シャツに黒ズボンで、冷房のない店内においても汗ひとつ掻いていない様子だった。
「吸血鬼は汗かかないの?」
あたしが半ば羨ましく東城を横目で見ると、「ああ」と彼はなんてことのないように頷いた。
「新陳代謝のシステムが根本的に違う」
と彼は何やら難しそうな言い回しを使ったが、確かに汗だくだくになって、「暑い〜〜、血のアイスが欲しいい」と叫んでいる吸血鬼は想像しにくかった。
「それで、先ほど補講で学校に行かなくて良くなったと言っていたが」
あたしがさっき接客の合間に東城に話しかけていたことを思い出したように、彼は口を開いた。
でも、その話をまたわざわざ持ち出すということは、もしかしたら「学校に行かなくていいならもっとバイトに入ってくれ」とか「わかってはいると思うが、探偵事務所は年中無休だ」とかまた鬼のようなことを言い始める予兆のような気がした。
次の言葉に備えて精一杯身構えの姿勢をとった時だった。
「僕と一緒に軽井沢に来ないか?」
「は?」
東城の言葉に、あたしは思わず、モップ掃除をした後でもない床で滑りそうになった。なんとか体勢を整えてあたしはまじまじと東城を凝視する。
———夏休みの軽井沢へ。東城があたしを誘っている?
「まさかやっぱり、東城の皮を被った成田君だったの…?」
「は?」
今度は東城が、持っているケーキカットナイフをずるっと落としそうになっている。
「いや、成田君に、夏休みは軽井沢の僕の別荘に来なよって誘われたんだよね…」
「まさか頷いたわけじゃないだろうな?」
「頷くわけないよ、あたしを襲おうとした吸血鬼だよ?」
「…あいつも軽井沢にいるとなると、面倒だな。やはり逃さないでおくべきだったか…」と東城は独り言のように呟いてから、あたしに向き直って答えを急かすように言った。
「まあそれはいいとして、来るか?来ないのか?」
このぶっきらぼうな感じは確かに紛れもなく東城聖ではあるが、彼がなぜ軽井沢にあたしを誘っているのかは謎だ。
「来れば特別にボーナスを出す」
「え?」
「貴重な夏休みなんだろ?君の時間外労働に対する対価だ。まあ、言うほど夏休みの予定は入っていなかったようだが」
東城はそう言いながら、サッとナイフを布巾で拭く。ん?ちょっと待って。労働?
「あの、軽井沢に何しに行くの?」
「?もちろん、これだ」
と言って東城は黒い前掛けのポケットから綺麗な若草模様の封筒を取り出した。
滑らかで上品な模様の封筒だが、宛名と差出人の名はない。あたしは不思議に思いながらも中の手紙を取り出した。
「 拝啓
血液探偵事務所 ご担当の探偵様へ
突然のお便り、失礼致します。無礼は承知でございますが、貴方様が私と直接お会いする時までは、私の名は伏せておきたいのです。勿論、これを受け取った貴方がこの依頼を承諾してくださり、こちらへ赴いてくださればの話ですが。
さて、ここ数日、私は誰にも打ち明けられない悩みを抱え、悩みあぐねていた末に、ネット情報を探って貴探偵事務所に辿り着き、あなた様の評判を拝見してこのようにお手紙を出した次第です。どうか、貴方の腕を見込んで依頼したい件がございます。
詳細についてもまだ言うことはできませんが、もちろん、依頼料については了承しておりますし、合言葉もお会いした時にお伝えしようと思います。ご承諾いただけるようでしたら、こちらの住所へいらしてください。お会いできるのをお待ちしております。
住所
長野県北佐久郡軽井沢町○◯12−34
ペンション・サンライズ
敬具
今は名のない依頼者より」
あたしはその綺麗な筆跡で書かれた丁寧な手紙をもう一度封筒にしまい込みながら、そう言うことか、と納得するように一人で頷いた。
つまり、血液探偵事務所の特別出張調査について来いという訳ね。依頼内容はまだわからないにしても、軽井沢にまで行っても仕事かと思うと、大きなため息をつきたくなる。
「何だその顔は?」
実際に無意識にため息をついていたのだろう、東城は目を細めながらあたしを見ていた。
「いや、やっぱり夏休みだからと言って浮かれちゃダメだよね。東城があたしに休暇をくれるわけないんだから」
「来るか来ないかは君次第だ。それとも何だ、他に予定があるのか?」
ないだろう、とでも言いたげな顔に、あたしは「うっ」と言葉に詰まる。
本当はあたしだって若者の特権を大いに使って夏休みを満喫したいところだったが、家族は「家族旅行」と言うアイデアを忘れ去っているかのように忙しそうにしているし、あたしには夏っぽい遊びに誘ってくれる仲のいい女友達もいなければ、「一緒に花火を見たいな」と夏祭りに連れて行ってくれる恋人もいない。
それに徹也は、夏休みは海の家の住み込みバイトでがっぽり稼ぐんだ、と意気揚々と湘南の海へ旅立っていった。
「一花も、遊びに来いよ!俺、今年こそサーフィンに挑戦したいんだ」
と徹也は言ったが、あたしはもともと海が好きではなかった。小さい頃に溺れかけたことがトラウマとなって、恥ずかしながらこの歳になっても泳げないのである。
「四六時中事件に振り回されるということもないだろう、見たところこのペンションはかなり人気らしいし、軽井沢なら観光やレジャー施設もある。東京よりは過ごしやすいだろうし、普段の依頼よりかは楽しめるはずだ」
東城はそう言って、軽井沢に行かないという選択肢をあたしに残さなかった。
まあ、彼の言葉にも一理ある。いくら依頼とは言っても、この猛暑の東京を離れて、憧れのリゾート避暑地である軽井沢に滞在できるのだ。
「もちろん交通費宿泊費食費はこちらが持つ。こんなに美味い話はないと思うが」
そんな最後のひと押しで、現金なあたしは喜んでうなずいていたのだった。
次回、35. ペンション・サンライズ
憧れの避暑地、憧れの湖畔のペンション。初夏の風が吹き抜ける、そんな美しい風景の中……陰鬱鬼畜吸血鬼の上司は爽やかに労基を無視していた。




