33. 還された指輪
それは「ヘルメスの指輪」と言うらしかった。
謎に包まれた伝説の古代吸血鬼であり錬金術師、ヘルメスがヴラド3世の時代より何世紀も前に、特別な材料で錬金した幻の指輪であるらしかった。
夫人の持っていた指輪は、オリジナルのものを真似てその後の時代に作られたもので、ヘルメス本人が錬金したものより、効力とその魔力は薄いという。しかしそれであっても伝説の指輪とされ、成田君————本名をシオン・ナリタ・アレール・ルモンと言って、17歳で吸血鬼に転生したフランス人と日本人のハーフらしい————が百年間探し続ける価値のあるものだったのだ。
その指輪の具体的な効力としては、身につけた者に、太陽の光や聖水、十字架やニンニクといったあらゆる吸血鬼が苦手とするものに対して耐性を作り(いわば免疫のようなものだ)、人間の食べ物などの異物に対しても抗体をつくるようなものだった。
まあ、吸血鬼を無敵にし、あたかも人間に化けさせられるようなこの魔法の指輪は、確かにハンターが吸血鬼たちには絶対に渡したくない代物だっただろう。吸血鬼ハンターの末裔に代々伝わる家宝の指輪として、本多君のひい爺さんがわざわざ屋敷に結界を張ってまで守ってきた理由は、頷ける。
そして、本性を表したあとでも、「人間になりたかった」という本音は変わらなかった成田君にとっては、喉から手が出るほど欲しかったものに違いない。
しかし最近まで、そのドラえもんの道具並みに便利な指輪を手にしていなかった彼は、一体どうやって今までの高校生活を人間と同じように送れてきていたのだろう。
「努力で何とでもなるさ。人間の社会に溶け込むためならクソ不味い食べ物だって、地獄みたいな晴れの日だって、人間と同じように喜べるよう数百年訓練したんだ。
みんなと学校で昼ごはんを食べた後はトイレで全部吐き出していたし、かわいい女の子とデートに行く時だって、いかにも美味しそうな顔をしてパンケーキだろうがタピオカミルクティーだろうが何だって口に入れてやったさ、その子の血で口直しができるって思えばね」
と、キャッスル・ブランに連行されて吸血鬼専用の手錠(たま爺が開発したものらしい)をかけられた上で、東城の「こういう奴には脅迫や尋問は効かない。逆の手段で行く」という考えで与えられた血液パックをちゅーちゅーと吸いながら開き直ったように言った成田君には、感心さえした。
ちなみに、今まで付き合っていた女の子たちには気づかれないほど微量の血をそれとなくいただいて、怪しまれる前には関係を終わらせていたらしい。この前のサカヅキたちに比べれば、まあ、マシな方なのかもしれない。
「ま、純吸血鬼に比べればいくらか人間に近い僕らにとっては楽だよ」
と、成田君は東城を見上げて笑いながら付け足した。
東城の臨機応変な尋問法の成果か、もとからあまり隠す意思がなかったのか、成田君はペラペラと事の次第を口にした。
「フランスに僕のマスターがいてさ、彼が近々日本でも勢力を広めたいって言ってきたんだ。ああ、そう、一花ちゃんがこの前来てくれたミントローズは、彼がフランスでやってるパティスリーの日本一号店だよ。
で、彼が日本に来る前に、『周りを整えておけ』って言われてね。『特に、東城聖という奴が近くで活動していないかどうか』、で、もしいれば早々に始末するか、少なくとも牽制しておけって。
でもそんなこと急に言われたってさ、表向きは学園の王子様こと成田紫苑を演じ、裏では成田財閥を仕切る忙しい僕にはちょっと無理がある。それに僕のマスターが嫌がるほどの吸血鬼を、このか弱い僕が倒せるわけないだろ?顔に傷でもついたりしたら嫌だしね。
そこで、僕がこの高校にやってきた一番の理由である吸血鬼ハンターの本多君……君を思い出したのさ」
成田君が本多君の方を見上げたので、あたし達もふと彼に視線を向ける。
本多君は裏切られた悔しさや怒りが混ざったような複雑な表情で、震える拳を握っていた。
長年友達だと思っていたやつに、実は騙されて利用されていたなんて知ったら、あたしはすぐには信じられないだろう。しかも、あのように恐れていた吸血鬼が実は「こちら側」で、信じていた友人が「あちら側」だったなんて。
「でもいきなり吸血鬼やハンターの話なんかしたら怪しまれるだろ、それに欲しかった指輪がもうすぐで手に入りそうだったんだ。少しずつ情報を小出しにして、将良が自ら東城聖をやっつけてくれるのを待つことにした」
東城はしばらく成田君を冷ややかに見下ろしていたが、徐に口を開いた。
「吸血鬼ハンターを自覚した本多が真っ先に狩る吸血鬼はお前だと思うがな」
そういった東城の横で、本多君は無言でその狡猾な吸血鬼を睨みつけている。
成田くんはその静かな殺気に少し気圧されたように、ハハ…と乾いた笑いをこぼした。
「……それは楽しみだね」
そんなこんなで、「ヘルメスの指輪」は無事に本多君の元に返された。
いつしか忘れ去られていた、自分の家系に秘められた重要な役割を自ら復活すべく、そして二度と吸血鬼に騙されたり利用されぬよう、己や他の人間を守るため、本多君はその日より吸血鬼ハンターとして修行することを決めたのだ。
しかし、実際に家に残っているハンターの遺産はかなり少なく、何をどうすれば吸血鬼ハンターとしてやっていけるのか解らず愕然としていた本多君に、「僕が教えよう」と直ぐに提案したのは東城だった。本多君は感謝こそしたが、
「えっと、でも、吸血鬼が吸血鬼ハンターを育てていいんですか?」
と、困惑した顔で言った。まあ、普通に考えればおかしなことだ。狩られる側が狩る側に狩り方を教えるなんて。
しかし東城はそれにも表情一つ変えずにさらっと答えた。
「ああ、僕の仕事が減ってちょうどいい」
自分は狩られないという自信があるのか、やはり合理主義なのか、自分を吸血鬼だと自覚していないのかあたしにはよくわからないが、本多君はその言葉に「そうですか…」と曖昧に返すしかなかったようだ。
そしてついにあたしとオカルト同好会の面々、また本多君に成田君(嘘でも一応うちの生徒なので、騒ぎにならないよう監視付きで一時釈放されたのである)も無事に全てのテストを終え、後はその結果をもらって、晴れて夏休みを満喫できるという喜びと解放感に満ちた7月の最後のことだった。
あたしはカフェの営業が終わったキャッスル・ブランのカウンター席に頭を突っ伏して涙ながらに足を揺すっていた。
「な〜んで〜〜」
「こっちの台詞だ。信じられないな、あれほど君のために説明してやったのに」
東城はコーヒーミルを掃除しながら、まったく、と呆れたように呟いている。
「だから〜それが〜落とし穴だったんだってば!」
あたしがなおもグダついているのを無視しながら、彼は切り替えるように言う。
「で、補修はいつなんだ?」
「うう…とりあえず、夏休みの最初あたりですかね……」
あたしは落胆して重い声で答えた。文系が壊滅的なのは今回が初めてではなかったが、やはりあれだけ事前に勉強会をして、今度こそはとやる気に満ちていたあたしにとっては、かなり失望的な結果だったのである。
「え?東城聖から世界史を教わった?」
学校でばったり会った成田君と、警戒心を持ちつつも、きっと彼も高校生活を壊されたくないだろうと信じて、少し廊下で立ち話をしていた時のことである。
成田君はあたしが「うん」と頷くのを見て、あははは!といきなり大笑いをした。あたしがムッとして「何が可笑しいのよ!」と返すと、成田君はようやく笑いをおさえて言った。
「そんなの、一花ちゃん、高校の暗記テストなんかじゃまったく使えない雑学だよ。逆に頭が混乱するじゃないか」
だから僕と勉強しておけばよかったのに。今頃は一花ちゃんを僕の別荘に招待して、二人で楽しく湖畔でピクニックできたのに、とあたしを襲ったことなんか忘れているのか、それともまだ諦めていないのか、なおも全く掴めない態度を取る成田君を見て、あたしはさっさとその場を離れたのである—————
「それに、いつもはもっと点が取れるはずの理数系だって、そんなに良くなかったしな……。あたしってやっぱり呪われてるのかも」
「何にだ?」
東城がちらりとこちらを見たので、あたしは皮肉っぽく言ってみた。
「吸血鬼に。だって毎度命を狙われて学業どころじゃないんだもん」
東城の探偵助手をするようになって、命の危険を感じたのはもうこないだで二回目である。いくら東城が守ると言ってくれたって、守る以上に危険な目に遭っていては元も子もない。それに、今回はなんとなく囮になったような気分でもあるし。
「まさか、あたしのことわざと狙わせてる!?」
あたしがハッとして東城を見ると、
「そんなことする訳ないだろう。大体、餌扱いしていたのは向こうのほうだ」
と、彼は真面目な顔で返した。
「成田が君をマークしていたことは知らなかった。君がそれを報告しなかったからな」
と、鋭く包丁を研ぐ仕草はいつもより荒っぽく、その横顔を観察すると、何となく怒っているようにも見える。
「え?マーク?」
「成田のことだ、色仕掛けか何かで君に近づいていたんだろう、血を得るために」
あたしはなおも表情の変わらない東城を見つめながら、成田君があの日屋上で言っていたことを思い出した。
そうだ、成田君はあたしを東城の助手だとは知らずに近づいてきたんだった。成田君があとから明かしていたことを聞けば、今までもあのように女の子を誘って血を得ていたのだ。最初こそ、突然距離を近づけてきたのはおかしいと思ったが、成田君の学校での噂を聞けばさほど変に思うこともなかったのである。
「だってまさか吸血鬼だなんて考えもしなかったんだから!ちょっとチャラい男子が口説いてきたとしか思わなかったんだもん」
「だから、それをなぜおかしいと思わなかったんだ?」
「ちょっと待って。モテないあたしが口説かれた時点でおかしいって気づけって言ってる?」
無礼極まりない吸血鬼への怒りを抑えながら言うと、東城はそんなあたしを一瞬驚いたように見つめ返す。
それから「ふっ」と笑いを溢したかと思うと、どうやらツボに入ってしまったらしく、しばらく包丁片手にくくっと肩を震わせながら笑っていた。
あたしはそれを見て宙を仰ぎたくなった。この吸血鬼のツボは、あたしがどんなに賢くなろうとも永遠に理解できないだろう。
「いや、そんなつもりで言ったんじゃない」
東城は、はあ、とようやく笑いを抑えてそう言ったのち、なんとなく視線をずらして小さくため息をついた。
「すまない、僕の責任を君に押し付けようとしていた」
そして東城はいささか自嘲気味に、
「……自分の失敗で不機嫌になるようじゃ父さんと同じだな」と独り言のようにこぼす。
こんなことを言う東城は、あまり見たことがない気がした。あたしはどう声をかけていいかわからず、「えっと…」と、とりあえずよくわからないが励まそうとした時だった。
東城の手がふとこちらに伸びてきて、あたしの左の首筋にそっと触れた。驚いて固まっていると、東城がカウンター越しにあたしの方へ顔を近づけてくる。
……え?
あたしは三度目のデジャブを感じた。しかし今回ばかりは以前の二回目と全く違い、心臓が胸から飛び出して今度こそ死んでしまうんじゃないかと疑ったほどだ。
成田君ならともかく、普段絶対に自分からその手を優しく差し伸べることのない東城が、なぜか普段とは違う表情であたしを見つめている。
おかしい、おかしい、もしかしたら東城の皮を被った成田君なのかもしれない……と意味のわからない仮説を打ち出していると、東城はスッと何かを確認した後、すぐに手を離した。
そして微かに、あたしを安心させるような笑みを浮かべる。
「大丈夫だ。牙の痕はない」
次回、 34. 軽井沢へ
あたしを避暑地のデートに誘ったのは、果たして東城の皮を被った成田くんなのか、それとも、成田くんの皮を被った東城なのか?




