24. ハニートラップ
「かわいいね、一花ちゃん」
成田君の綺麗な目で見つめられ、あたしは自然と顔が赤くなっているのに気づく。やばい、完全に彼にペースをのまれている。
これじゃあ東城の命令にも、徹也の警告にも背くことになる————ぐるぐる考えていると、成田君がふとこちらに顔を近づけてきた。目の前の席から腰を浮かして屈みながら、そっと片手をあたしの頬に添える。
……え?
状況を把握する間もなく固まっていると、すっと顎を上に向けられ、彼の顔が鼻先まで近づいてくる———
と、あたしはそこでようやくその肩をぐっと押しやった。
「ちょ、ちょっと待って!」
成田君は驚いたようにこちらを見つめる。まるで、キスを拒まれたことがないと言ったような顔だ。
……どうやら、徹也の言っていたことは本当らしい。こんなにいきなり、しかも自然な感じでキスを迫ってくるなんて。まあ、この色恋に無関心なあたしでさえドキドキしてしまったんだから、彼にとって遊びと選択の余地は十分にあるのだろう。
「あのー、勉強会だと思ったんだけど」
あたしは苦笑いを浮かべながら元のレールに戻そうとした。
「え、一花ちゃん、本気で勉強する気だった?」
成田君は意外、といったような顔で眉を上げる。私が本気で勉強をする気じゃなかったらなんだと思ったのだろう。
「え、そ、そうだけど」
「だって君いつも補修組じゃん。真面目に勉強する感じだったっけ」
なんでそんなこと知ってるのよ。あたしは成田君の名前も顔も知らなかったのに。
「そ、そうだけど、今回は本気なの!」
「へえ、夏休みに何かあるの?」
「何もないけど、今のところ」
と答えながら、もしかしたら夏休みも東城の小間使いとして終わってしまったらどうしようといささか恐怖に震えた。どうか、東城が情けを見せて、休みをくださいますよう……
「僕と夏休み過ごせばいいのに、きっと楽しいよ。そうだ、軽井沢の僕の別荘にきなよ」
成田君はキスを拒まれたにも関わらず、めげないようだった。というより、前よりもっと積極的になっている気がする。
「あのー、なんであたし?他にたくさん女の子いるじゃない」
現に、あたしはこの『学園の王子様』と二人きりで抜け出してきたせいで、きっと他の女子達の反感を買っているに違いない。できれば争いには巻き込まれたくないものである。
「言っただろ、一花ちゃんは特別だって」
成田君はニコッと笑って言う。あたしは少し怪訝に思った。なんでいきなり、あたしなんだろう。一昨日初めて会ったばかりなのに。それとも特別扱いするのは女の子を落とすための決まり手引き?
「僕になびかない女の子って余計に燃えるからさ」
成田君は相変わらず余裕な態度だったが、その目は一直線にあたしを捉えていた。どこかで聞いたセリフだ。
ああ、なかなか(絶対)振り向かない東城に燃える女子大生達だ。人っていうのは手に入れられないものがあると、余計に欲しくなるものだ。東城の連絡先にしろ、本多夫人が失った富と名声、それに指輪にしろ、みんな自分にないものを求めている
———— ん?
あたしはそこで、目に入ったものを疑った。
確かに、今、視界のすみにきらりと光ったものを見た気がした。あたしはもう一度、開け放たれた窓からの日光に反射した《《それ》》を辿る。
成田君は、「もう夏だなあ」と言いながら制服のシャツのボタンを開けて、空気を入れ込むようにパタパタと白シャツを煽っていた。彼の開いた襟元の隙間から、ネックレスのチェーンが見えて、その先にはキラキラと光る金色の指輪がある。
あたしはそれを認めるなり、ほぼ無意識に身を乗り出して指輪を間近で確認するために彼のシャツに両手をかけていた。
「わあ、一花ちゃん、案外積極的だね?」
成田君は驚いたような、嬉しいような顔をして言う。でもこっちはそれどころではなかった。
「これ、この指輪……」
確かに、夫人は金の指輪だって言ってた。本多家に代々伝わる家宝の指輪。それにこの輝きや滑らかさからして、本物の純金でできてるに違いない。まさかとは思いながらも、東城の言葉を思い返さずにはいられない。
「成田財閥の人物が盗んだ可能性が高い」って……それに成田君は、本多夫人が名前を借りるほど嫉妬していた財閥の息子なのだ。
「ん?きれいだろ?」
成田君はあたしの意図を完全に勘違いしているらしく(まあ、その方がいいんだけど)自分からシャツのボタンを開けてネックレスの先に揺れる指輪を見せてくれた。
あたしは注意深くそれを見つめながら、それとなく聞いてみる。
「うん、とっても。これ、ずっとつけてるの?」
「最近かな。これ、もらったんだ」
「へえ〜…」
どこで?誰から?どうやって?と聞きたいところだが、いきなりそんな尋問をすれば怪しまれるだけ。なんとか勘付かれないように、しかし最大限に彼から情報を得るためには———
よし、もうこの際だ。映画でよく見る女スパイの色気作戦、ハニートラップというやつを使おう。あたしに色気が備わっているとは思えばいけど、幸い成田君はどうやらあたしに興味があるっぽいし、試してみる価値はある。
そう心に決めたあたしは、思い切って席を立ち、成田くんのそばに寄った。身体を少し近づけてみると、成田くんは「おや?」と一瞬眉を上げる。
よし。こうやって敵の気を引きながら、欲しい情報を手に入れられればこっちの勝ちだ。
さりげなく彼の首元にかけられた指輪を手に取ってみると、指輪の内側には、英語っぽい小さな文字が刻まれているのが見えたが、解読はできない。
「わあ、なんかカッコイイ!これ、なんて書いてあるの?」
ミーハーな「普通の女の子」を装いながら聞いてみると、成田くんは「だろ?」と自慢げな顔になる。
「でもなんて書いてあるかはわからないんだ。多分ラテン語かな?」
そう言いながら、彼は自然な感じであたしの腰にスッと手を回してくる。まったく、女遊びも慣れたものだ。こんなにチャラチャラした性格だったとは、爽やかな見た目からは想像もつかない。やっぱり徹也の見解は正しかったのだ。
「さっき、もらったって言ってたけど、誰から?」
あたしは少し顔を寄せながら、上目遣いで聞いてみる。
「ん?僕の親友からだよ」
「親友?」
「そ、君もこないだ会っただろ、将良だよ」
あたしはそこで、ピタッと反射的に体を止めてしまった。まさか、本多君が?どういうこと?
「どうかした?そういや、あの時僕に会う前に将良と何か話してたよね?」
あたしは、とりあえず気を引くために成田君の首に手を回しながら、自然な感じで答えた。
「そう、ちょっと借りてた本があって。将良くんって意外と本とか読むのね」
あたしが当たり障りのなさそうな理由をつけると、今度は彼の方が、少し動きを止めた。
「本?どんな本?」
「え?えーっと、」
吸血鬼徹底解剖の本、なんて言えないので、「冒険物語的な」と適当にごまかすと、成田君は少し訝しげな表情をした。
「あいつと長い付き合いだけど、推理小説しか読まないと思ってたよ」
「えーっと、推理と冒険みたいな、感じだったわ」
……しまった、墓穴を掘ったかもしれない。あたしがぎこちなく付け足すと、成田君がガタリと席を立ち、いきなり本棚の裏に連れていかれる。突然のことに戸惑っていると、成田君はトン、と両脇を塞ぐように後ろの本棚に手をついた。
「一花ちゃん、何か隠してる?」
こちらを探るような視線を向け、低い声で言った成田くんに、心の中で息を呑む。やばい、完全に怪しまれてる。お色気作戦大失敗じゃない……
「そもそも、将良とそんなに仲良かったっけ?」
畳みかけるように詰め寄られ、あたしは言葉を失った。
「えっとー……」
物理的にも行き場がなくなっていて、じわじわと汗が湧いてくるのを感じる。
どうしよう、成田君の立ち位置が全くわからない。
東城は「指輪は中から盗まれた可能性が高い」って言ってた。成田君がさっき言ったことが本当なら、指輪はやっぱり、本多君が自ら母の部屋から盗んだのだろう。
でも、なぜそれを成田君にあげたのかは不明だ。成田君は、これが盗まれた指輪だと知ってるのだろうか?それに、本多君がオカルト同好会に入っていた理由も、結局聞けていない……
あたしはそこで、かなりの間黙ってしまっていたことに気づいた。成田君はあたしの沈黙にますます怪しげな表情を浮かべている。どうしよう、何かいい言い訳……
「あたし達、オカルト同好会に入ってたの」
言葉がふっとでてきた。あまりバラしたくはない事実だったけど、この際何かひとつでも秘密を打ち明けなきゃ、もっと怪しまれる。
「……オカルト同好会?」
成田君はその言葉に少し意表を突かれたように声のトーンをあげたので、あたしは慌てて、しーっと声を潜める。
「そう、これはほんとに誰にも言いたくなかったんだけど……将良君もきっと知られたくなかっただろうし」
「そんな同好会あったっけ」
成田君は眉を寄せて問う。まあ、そうよね。学校の王子様が、オカルト同好会の存在を知らなくても無理はない。
「えっと、UFOの証拠写真を撮ったり、なんか魔術の本を読んだり儀式をしたりする同好会?」
あたしが視線も定まらずにぎこちなく説明すると、成田君は「ふーん……」となんとなく身を引く。
彼の両手はもう後ろの本棚から離れていて、内心胸を撫で下ろす。
「でも、なんでまたそんな同好会に?楽しいことある?」
そんな成田くんの質問には、素直に答えられるはずもない。それに楽しいかと言われれば————
「はい、もちろん。楽しいことだらけですよ」
突然、真後ろから低い声が響き、あたしは思わず悲鳴を上げて飛び上がった。
「ひゃああ!」
成田君も同様に、びくっと後ろに飛び上がる。
振り返ると、まるで妖怪のように本の隙間からこちらに顔を覗かせている、もっさりしたおかっぱ頭の女子生徒。音も立てずにどこからともなく現れた座敷童のような彼女は、他でもない丸山さんだった。
「ま、ま、丸山さん。い、いつからここに?」
まだどきどきしている心臓を抑えながら言うと、彼女は低い声で答える。
「図書室に入った瞬間オカルト同好会という言葉が聞こえたので、飛んできました」
「あ、そ、そう」
図書室は広いし、私と成田君は入り口から一番遠い隅の本棚に隠れるようにしていたのに、とんだ地獄耳だ。それに気配すら感じさせずここまで近づいてくるなんて、もしかしたら丸山さんこそ人外なのかもしれない。
でもとにかく、彼女の登場はあたしにとって都合がよかった。どっちにしろ、成田君とはこれ以上勉強会ができる雰囲気でも、指輪について詮索できる余地もなさそうだし、気まずくなっていたところだ。
そんなあたしの心境を読んだかのように、丸山さんは、あたしの肩をつついて小声で言った。
「真田さん、緊急会議その2です。今すぐ部室に来てください」
「え?何かあったの?」
「それは部室で話します。とにかく……」
と言って、丸山さんはチラッと成田君を見て、彼はここに置いて、すぐに一緒に来いと目で合図する。そこであたしは成田君に向き直って、苦笑いで「ごめんね」と告げた。
「ちょっと、今から同好会の方に行かなきゃいけなくて。勉強会、ありがとうね」
成田君はあまり納得していなさそうな顔だったが、あたしが、「あのー、ほら、また明日の昼にでも、ね?」と取り繕うように言うと、ニコッと笑って言った。
「そうだね、また明日の昼にしよう。同好会楽しんで」
ま、楽しむような会でもないんだけど……
次回、25. SOS
部室に戻ると、そこにはまさかのSOS信号が届いている。同好会のみんなとメッセージを見てみると、そこには————




