11. ムーン・ブラッド
目を開けると、まず体の自由がきかないことがわかった。
両手はがっちり縛られていて、あたしはずっと前に暴力団の人質として捕まったことを思い出した。そういやあの時も気付いたらこんな感じだったっけ……
まったく、今度空手か柔道を習って護身術を身につけなきゃ。このご時世だし、またいつこうやって捕えられるかわかったもんじゃない。
でも前とは状況が少し—————いやだいぶ違っていた。
まずあたしはふかふかのソファに座らされて、両脇をむさくるしいヤクザ、ではなくきちんとしたスーツ姿の、外国人らしき若い男二人に固められていた。
そして目の前のテーブルには優しそうな顔をした髭の外国人男性、その隣にはあの憎き孝さんが余裕の笑みでにこにこしながら座っており、そばには美和子ちゃんがふくれっ面をして立っていた。
ああ、当初は美和子ちゃんを監視するはずだったのに、二人揃ってこんなことに……。
うす暗い店内の紫がかった照明が、その周りに腕を組みながら立っている男二人と、さらにバーテンダーらしき男を照らし出している。
どうやらムーンブラッド、つまりこいつらのアジトらしい。
「こんにちは、一花ちゃん」
と、目の前にいた白シャツの髭男が口を開いた。歳は三十後半ぐらいで、ハリウッド俳優のようなダンディな出立ちだが、滑らかに日本語を喋っている。
そういえばあたしを取り囲んでいるこの集団、よく見るとみんなそれぞれに端正な顔立ちをしていて、それだけ見ると外国人モデルか、アイドルグループのようだった。この絶望的な状況でさっきから顔がきれいだとか何を呑気にチェックしてるのよ、と自分でも呆れたけれど、それぐらいこの集団はあたしが想像していたものと様子が違ったのだ。
「ちょっと手荒い真似をしてしまってすまなかった。だけど君を連れてくるにはこうするしかなかったんだ」
目の前の男が言ったので、あたしは皮肉を込めて笑って見せる。
「謝るくらいなら最初からしなきゃいいのよ。ここってあんたらのアジトでしょ?」
「アジト?」そこで今度はその男が笑った。
「そんな格好悪い名前で呼ばないでくれ。ここはムーンブラッド、僕達のお気に入りのバーだ」
男はそう言って、少しわざとらしく手を広げて見せる。まるで「ようこそ」と言わんばかりに。
「で、あたしを連れてきて何しようってわけ?」
あたしはそう言いながら敵の数と立ち位置、美和子ちゃんの居場所、それから出口を確認した。タイミングを計れば上手く逃げることができるかもしれない。可能性は————まあ、絶望的に少ないけど。
「まず君の意思は別として、うちの美和子や孝が君にべらべらとこの場所を喋った時点で、君はここに来なくてはならなくなった。わかるね?」
「……隠れ家を知られたのに放しておくわけに行かないってことでしょ」
「それに、君は何とも興味深いものを持っていたしね」
そう言って彼はあたしの目の前のテーブルに三本の小さな細長い瓶を転がした。
「あ……」
それはあたしが東城から預かっていた血液のサンプルだった。でも三本のうち一本はあたしの袖にこぼれたので中身はほとんどない。きっとあたしが気を失っている間にポケットから取り上げたのだ。
「なぜ君がこれを持っている?どこで手に入れた?」
その男は一つを手に持ち、指の中でくるりと回した。
あたしは唇を噛む。それはもとはと言えばこいつらの手下が所持していたのだ。そしてあたしは目の前の男を見て、直感的にこいつがこのグループのリーダーだと推測する。
あの手下の男が東城の指示通りにあのサンプルは失くしました、と報告していたならそれに話を合わせなきゃいけない。
「大学の廊下で見つけたの」あたしは言った。
「きっと医学部の誰かが落としていったサンプルか何かだと思って、とりあえず拾ってポケットに入れておいたのよ。それがどうかした?」
すると、男は眉をあげて聞いた。
「でも君、高校生だよね?どうして大学に?」
「お兄ちゃんが朝、お弁当忘れて行っちゃったから届けに行ったのよ」
「ふーん。じゃあ君、この中身が何だか知ってるね?」
「……血液よ。何の血かわからないけど」
あたしが言うと、彼はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「これはね、私たちが一週間に一度定期的に仕入れている高級な品物だ。今日、私の部下を通じてここに届くはずだったんだが、そいつが馬鹿なミスを犯してしまってね。でもまさか君が最終的にここに辿り着けてくれるとは思わなかったよ。まあ一本の中身は君の袖が吸ってしまったようだけど」
「そんなもの一体何に使うのよ?」
あたしが聞くと、彼は「何に使う?」とわざとらしく繰り返す。
それを聞いて周りの男達も馬鹿にしたように薄気味悪く笑った。そのリーダーは瓶の蓋をあけると、そこにいる全員とその「高級な品物」を共有するように高く掲げた。
「この芳しい香り、君たちならわかるだろう?……本物だ」
彼が言うと、周りにいた男たちが引き寄せられるようにその匂いを嗅いで陶酔するようにため息をついた。
眉を寄せていると、その男はその小さな瓶にいきなり口をつけたかと思うと、一気に中身を飲み干す。
えっ、それって血でしょ……?あたしが驚いて身動きも出来ずにいると、男はその味わいに恍惚とした表情を浮かべ、口の端から垂れ出たその液体を親指で軽く拭う。
周りの男たちがそれを見てごくりと唾を飲むように微かに喉を鳴らしたが、リーダーらしき男は周りなど気にしておらず、ふと美和子ちゃんの腰に手を回して自分の方へ引き寄せた。
「もちろん彼女も本物だ。そして、君もまた本物だ」
彼が言うと、隣にいた孝さんがあたしの方へ鋭く視線を走らせた。まるで獲物を前にした猛獣のような目。それを見て、あたしはふいに恐怖を感じた。
————おかしい。何かがおかしい。
彼らはただの新興宗教でも、暴力団でもない。ここにいる男たちは、ただの荒くれ者ではく、なぜか全員が一つの目的————いや、何か本能のために動いているように見える。
一体、あたしと美和子ちゃんはどうなるんだろう……
「サカヅキさん!」
その時、店の奥から何やら聞き覚えのある声がして、リーダーの男が振り返る。
奥からフロアに出てきたのは、あの可哀想なチンピラだった。
彼はあたしと目が合った瞬間、「あっ」と小さく声を漏らした。が、あたしがとっさに腰の爆弾を忘れるな、と目で訴えたのに気付いたのか、彼はそれから慌てて何ともないような顔をつくった————まあその爆弾はおもちゃだけどね。
チンピラ男は少し動揺しながらもリーダーに報告を始める。
「サ、サカヅキさん、あの、会社のほうから連絡が入りました。来週は何本送りましょうかって」
サカヅキと呼ばれた男は「ああ」と思い出したように言ってあたしと美和子ちゃんを交互に見てにやりと笑った。
「いや、来週はもういらないよ。二人いれば十分だ」
サカヅキというらしいそのリーダーが言ったのに対して、下っ端は戸惑う。
「えっ、だってそいつは……」
「何だ?」
ちょっとちょっと、爆弾と盗聴器のこと忘れてるの?あたしがチンピラの方をもう一度きつく睨むと、彼は口をつぐんだ。
「いえ、何でもないです」
「彼女は真田一花ちゃん。私達の新しい仲間だ。そして偶然にも君がヘマをして落とした品物を三つ持っていた」
チンピラが微妙な顔をしてあたしを見たので、あたしは目を逸らす。
「さて美和子ちゃん」と、サカヅキは彼女の細い腰に手を回して続けた。
「君が生まれ変わるという話だが、それももう完成に近づきつつある。君は数日のうちに、完璧な女の子になれるのだ。一花ちゃんも、そうなりたいだろう?」
彼はそこで美和子ちゃんを孝さんに預け、席を立ってあたしに近づいてきた。
「一花ちゃん、想像してごらんよ。お金は欲しい時に好きなだけ手に入る。美しさを永遠に保てる。時間なんて腐るほどあるんだ。簡単だよ、僕らに少しその首筋を向けてくれればいい」
横に座っていたスーツの男がスッと立ち、その代わりにサカヅキが隣に座る。その冷たい手が頬に触れた瞬間、緊張で鼓動が早くなるのを感じる。あたしは最善策を必死に練った。
こいつがこれからあたしに何をするのかはわからない。だけど――――逃げるなら今だ。
トランシーバーを入れていた鞄はもちろん取られてしまってどこにあるかわからない。でも盗聴器をつけたチンピラならそこにいる。あとは「世界一の安全を保障する」と言ってくれた東城に賭けるしかない。
護身術は身についていなくとも、追い詰められた時のアドレナリンを侮ってもいけない。
「あたし、さっきからあなた達が何言ってるかわかりません」
「わからない?はは、これからわかるよ」サカヅキの冷たい手があたしの首元を包んだ。
「でも、わかったときには手遅れなんて嫌ですから」
あたしははっきり言ってから、サカヅキの顔面の鼻をへし折るつもりで勢いよく頭突きした。
隣を固める敵が動く前に、腰を滑らせて素早くテーブルの下に潜り込む。それから反対側に頭を出すと、ソファを踏み台にして向こう側へ飛び出た。運良く、チンピラ男はちょうど目の前に来ていて、あたしはジャケットに仕込んであるマイクに向かって叫んだ。
「東城聖探偵、こちらは一花です!緊急事態発生につき、今すぐ、本当に今すぐムーンブラッドまで救援要請。敵の数は7人、それから美和子ちゃんもいるわ!」
あたしがそう言い終わるか終わらないかのうちに、すぐさま数人の男があたしを押さえつけた。もがいてもこれは動けそうにない。だいたい女の子二人に大人の男7人なんて勝ち目はない。それでもあたしはめげずに美和子ちゃんに向かって叫んだ。
「美和子ちゃん、こいつらはあなたが言うように魅力的なんかじゃない。はっきりした正体はわからないけど、生まれ変わる必要なんてきっとないよ、そうでしょ?」
と、座っていたサカヅキがスーツの男達を手で制して、あたしにゆっくり近づいてきた。力いっぱい頭突きしたにも関わらず、鼻はへし折れてもないし余裕な感じだったが、その表情にはどことなく焦りが感じられた。
「暴れてくれたね、一花ちゃん……。それに君今、東城聖と言ったか?」
どうやらサカヅキはその名前に覚えがあるようだ。あたしが慎重に頷くと、彼は微かに表情を硬くする。
「ということは、東城聖がこの町にいるのか?」
その名前に、そこにいた男たちが一斉にざわめいた。
え?何?東城ってそんなに有名なの?それに心なしかみんなはその名前を恐れている気がする。
「あの忌々しいブラド三世の息子、東城聖……。まだ探偵なんて続けていやがったのか。しかもこの町にいるとは!ははっ、面白い。そして君は、東城聖とどう関係しているんだ?」
サカヅキはあたしに近づいて来て、いきなり顎をつかんで上を向かせた。
「……探偵助手よ、昨日から」
あたしはサカヅキを睨みながらも、心の中で祈る。
早く来てよ、東城……!
「へえ、探偵助手!東城聖もこんな足手惑いになるようなものをわざわざ雇うなんて腕が下がったものだ。なら当初の予定を変更して君を早急に始末しなければ。
残念だったな、君は東城聖の助手になったばかりに命を落とすことになるのだ……」
サカヅキはそう言って、スーツの内ポケットから小型の銃を取り出して、あたしの額に当てた。
冷たい銃口が押し付けられたそのとき、あたしは反射的に全身が強張るのを感じ、同時に、そこで初めて本当の後悔をした。
————まずはあの日、雨が降っていたこと。そして店の壺を割ってしまって、その代償に探偵助手なんて変な役目を負うことになったこと。
東城なんてめちゃくちゃだ。あいつの助手になったばっかりに、あたしはこの年にして命を落とすことになるんだ……。まったく、あたしが何をしたっていうんだろう。神様は本当に不公平だ。こんな死に方、絶対に嫌だった————死んだら化けて東城聖を呪ってやろうかな。
ああ、ママ、パパ、お兄ちゃん、あたしの友達、さようなら。この十七年間、それなりに幸せでした。ではまた天国で会えますように……
と、恐怖と絶望を通り越して変な祈りの心さえ沸かせた時。
静まり返っていた店内に、突然声が響いた。
「残念だったな。僕の助手になったばかりに命拾いする、の間違いだろう」
次回、12. 人間ではなく
絶体絶命のピンチに、ヒーローは現れると言うけれど.....?




