10. 孝さん
「美和子、何をお喋りしてるのかな?」
細身のグレースーツを着た背の高い男は、その綺麗な顔に、にこりと優しい笑みを浮かべていた。
「あら、孝さん!」
美和子ちゃんは彼の顔を見るなり、ぱっと嬉しそうに笑った。
「君の帰りが遅いから迎えに来ちゃったよ。何をしてたんだ?」
と、彼は美和子ちゃんの腰に片手を回して微笑んだ。
……誰だろう、この人?
あたしが二人を見つめていると、美和子ちゃんは少し自慢げに言う。
「紹介してあげるわ。孝さんっていうの。あたしの彼氏。かっこいいからって取らないでね?」
孝さんはあたしを見ると軽く会釈した。彼氏?……にしてはちょっと年齢が高すぎじゃない?だってこの人見るからに二十は越えてるだろうし、美和子ちゃんなんてまだ中学三年生、下手したら犯罪だ。
「あ、そうだわ孝さん。この子もうちに入りたいって。彼女は真田一花さんっていうの。ねえ、この子ならうちに入る条件満たしてるでしょ?」
と、美和子ちゃんはそう孝さんに軽い調子で言うので、あたしは思わず聞き返す。
「え?うちに入る?」
と、それを聞いた孝さんの表情がふと変わった。
「君も生まれ変わりたいんだね?」
「う、生まれ変わる?」
「そう、彼女あたしに嫉妬してるみたい。散々あなた達の悪口言うのよ、何も知らないくせに」
……そうか。この孝さんって人は紛れもなく、美和子ちゃんを引きこんだグループの一人ってことなのだ。いやいやいや、そんなところで彼氏まで作っちゃって、何考えてるの美和子ちゃん!
「君、真田一花ちゃんっていうの?かわいいね」
孝さんはあたしに近づいて、どことなく視線を絡めてくる。い、いきなりナンパ?いろいろとおかしいわよこのグループ。
「ちょっとー、美和子は?美和子の方がかわいいでしょ?」
その後ろで美和子ちゃんが頬を膨らませる。
「そりゃもちろんだよ」
と、孝さんは彼女に一瞬微笑んだが、その目線はあたしを頭から足の先まで遠慮もなく眺めまわし、最後にすっと息を吸い込んだ。
「......いい香りがするね」
あたしは眉を寄せる。別に今日は香水とかつけてないのに。
「合格!君はかわいいし、特別にうちに入れてあげるよ」
彼は親しげにそう言って微笑んだ。それだけ見れば思わず頷きそうになるくらい爽やかな青年。……が、その裏に一体どんな恐ろしい事実を隠してるのだろう?
「ムーン・ブラッドっていうお洒落なバーがあるんだけど、そこに僕達の仲間がいるんだ。今日はただお茶をして帰るだけでいいから遊びに寄らない?」
「お茶して帰るだけでいいから」ってそれ詐欺の常套文句じゃない、と思いながらも、キッパリと言う。
「あの、ごめんなさい。あたし別に入りたいなんて一言も言ってないです」
まったく、美和子ちゃんを引き留めようとしてたのに、どうしてあたしがこのグループに入ることになってるんだろう?それに確かに今、ムーン・ブラッドという言葉を聞いた。あのチンピラの言っていた組織に間違いない。
「だってさっき美和子が言ってたじゃないか」
彼は尚も穏やかな口調で、少し不思議そうに眉を上げる。
「そんなこと言ってません。別に生まれ変わりたくないし」
「そうなの?残念だなあ」
孝さんはいかにも残念がる様子で、肩をすくめてあたしを見た。
「本当によく考えて言ってる?だって女の子はいつでも、もっと綺麗になりたいものでしょ?ここに来ればもう勉強も努力も何もかも必要ないよ。君は無敵の女の子に生まれ変われるんだから」
彼の瞳の奥に、微かに妖しいものがちらついている。
「……あなた達が何者かわからないけど、そうやって美和子ちゃんのように女の子を騙して誘い込むのはやめてください。そんなことしなくたって女の子は綺麗になれるし、勉強や努力だって人生には必要だわ」
あたしが言うと、孝さんはそれまでの微笑みを引っ込めた。
それから「なるほどね」と何度か頷く。
「君は間違ってはないよ。自分の意見を言える女の子ってすごく素敵だ。だけどさ、別に悪いことをしようっていうんじゃないんだ。違法な薬を使うわけでもないし、僕達を変な犯罪組織なんかと一緒にしないでほしいな」
「じゃあ一体何者なんですか」
あたしがきっと睨むと、彼は誘うような笑みを浮かべた。
「それはうちに来てからのお楽しみだよ」
「絶対行きません。美和子ちゃんも行かせませんから」
「強情だなあ、なんでそんなに疑ってるの?ただお茶するだけだから」
「いいえ、行きません」
中学校で教わった「誘われたらNOと言おう。ダメ、絶対」の模範例を再現するかのように断固として断ると、彼は一瞬あきらめたように「そっか」と呟いた。
しかし、あたしが安心しようとしたのもつかの間、突然視界が揺らぐ。
一瞬何が起こったのかわからなかったが、孝さんの手があたしの右腕をグッと掴んでいて、後ろから抑えられていた。
反射的に声を上げようとすると、背後からもう一本の腕が伸びてきて、一瞬にして口を塞がれる。
しまった、油断した……!
「仕方ないなぁ、一花ちゃんは困った子だね。まあ、大人しくしてくれるなら痛い思いはしなくて済むよ?」
「ん——んん!!」
大声で叫んでどうにか暴れようとしたが、やはり彼の力には勝てなかった。優しく穏やかな顔をしながらも彼の手つきに迷いはなく、まるで最初からこの手段を用意していたかのようだ。
恐怖を感じて、美和子ちゃんに思わず助けを求めようとするが、彼女は些か口を尖らせながら、冷めた目をしてあたしを見つめている。
それでも諦めずにバタバタと抵抗していると、頭のすぐ上で、孝さんが短いため息をついたのがわかった。
「......っ!」
と、次の瞬間には、頭がぐらりと揺れて意識がぼやける。
孝さんのもう片方の手が勢いよく後頭部に打ち付けられたことは、感触として残っている。
もう少し早くトランシーバーに手を伸ばしていればという思いがちらつきながらも、あたしの意識は遠のいていく。
ああ、まったく、こんなんじゃ探偵助手失格じゃない……
次回、11. ムーン・ブラッド
突然、文字通り目の前が真っ暗になった一花。目を開けるとそこにはむさ苦しいヤクザ......ではなく、身なりの綺麗な男たちがお洒落なバーの暗い照明に照らされ、こちらを見つめていた—————




