悪役令嬢に命じます。本音をお出しなさい
「どうぞ楽になさって?」
「本当にありがとうございます。敬愛致しておりますアナスタシア様に、このような無様、誠に申し訳ございません……」
目の前ではらはらと涙がこぼしているリーゼロッテに、ハンカチを差し出すと彼女はペリドットの瞳からぼろりと大粒の涙を零した。
紅茶にたっぷりとミルクを注いだような淡いブロンドが、彼女の微かな嗚咽に合わせてさらさらと揺れる。
音を立てずに紅茶を注いだ侍女が壁際に下がるのを目の端に捉えながら、私はテーブルの小さな小瓶を手に取った。
「普段はお砂糖はひとつ? 今日はこちらはどうかしら、私の商会で最近作った蜂蜜のひとつなのよ」
小瓶には紫のリボンがついている。スプーンを使って淡いイエローの蜂蜜をとろりと紅茶に垂らした。ふわりと広がる独特の香りはリーゼロッテの興味を引いたらしい。涙に濡れていたペリドットが蜂蜜を見た。
用意させたのはラベンダーの蜂蜜。
蜂蜜も紅茶も香り高く、気持ちを落ち着かせる効果のあるものだ。リラックス効果の高いその組み合わせに更にラベンダーを合わせたのだから効かないはずもない。
「……ありがとう、ございます」
「いつもより多めに入れることをおすすめするわ。だって、悲しみって全然甘くないもの」
ね?と微笑むと、彼女は目元をハンカチで押さえてから精一杯の笑顔を作った。そして蜂蜜を手に取るとスプーンでふたつ、とろりと加えた。それでいい、と軽く頷く。
「紅茶もこの蜂蜜も香り高く、それでいてとても調和しているんですね……美味しい……」
ほう、と息を吐くリーゼロッテ。
涙は止まったようね。気に入ったなら蜂蜜はお土産に持たせることにしましょう。
「アナスタシア様」
「あら、謝罪も御礼もしてはだめよ?」
先読みしてにっこりと言ってやると、ぐっ、っと何かを飲み込んだ。あらあら。
さらさらのミルクティーブロンドが揺れて、その小さな動揺を伝えてくれる。先程まで泣いていたことを恥じる必要などない。ここに連れてきたのだって、ただ私がその涙をこぼれさせたままにさせたくなかったのだから。
「そんなご無体なことをおっしゃらないでくださいませ。このように庇っていただきアナスタシア様に私がどれだけ救われているか……」
「ふふ、意地悪だったかしら?」
「アナスタシア様はお優しすぎますっ」
もう!とでも言いたげなリーゼロッテ。
自分は酷く傷ついた彼女を私とお茶をしましょうとその場から連れ出しただけなのだけれど。
とはいえ、たしかにどちらも受け取らないで次にリーゼロッテが遠慮して頼らなくなってしまっては困るわね。
「じゃあ、ありがとうは受け取っておくわ」
「は、はいっ! 本当にありがとうございます、アナスタシア様……!」
ぱっと表情を明るくしてこの子は本当に可愛らしいこと。……まあ、これが恋人の前でできない状態だからこんな事態になったのでしょうけど……。
「私もそこそこに聞いているけれど、なにがあったのか聞いてもいいかしら?」
「はい……」
途端に輝きを失うペリドット。
とりあえず一発引っぱたくのはどうかしらね?
「……その、先程は『自分が嫉妬で目障りだと思ったからって皆の総意のように言うな』と」
「あら」
「『私が殿下とお話することもリーゼロッテ様は嫌がって怒鳴られるのです、私……もう、リーゼロッテ様がこわくって……』そう言って彼女はバルデマー殿下の腕に隠れるようにして泣き真似しておりました」
淑女たるもの、微笑みを絶やしてはいけない。
ええ、微笑んでおりますとも。ため息は頭の中だけにしてぬるくなり始めた紅茶を口にする。
最近、この学園ではとある噂があった。
珍しい光魔法の素質があるとして学園に入学した男爵令嬢ミミリアが、バルデマー王太子殿下と懇意にしており、王太子の婚約者である侯爵令嬢リーゼロッテが、嫉妬から陰湿な嫌がらせをしている、というものである。
最近は、噂の男爵令嬢が人前関係なく露骨にベタベタしているらしく、婚約破棄も有り得るのでは、などという憶測も飛び交っている。
「殿下にも、彼女にも、立場を弁えた行動をお願いしているだけなのですが……」
学園内では『身分に囚われず、分け隔てなく交流を深め、お互い切磋琢磨すること』が推奨されている。
しかしそれは、身分を笠に着ることなく、良い意見は爵位や実績に関係なく耳を傾け、忌憚ない意見を交わし合いましょうというだけ。
真の忠臣ならば、甘言ではなく諌言を選ぶし、人の上に立つものこそ、他者の言葉の意味と価値を見抜くことが当然に求められるものだ。
学園内とはいえ、婚約者がいる王太子に、一介の男爵令嬢から腕を組んだりしても良いという理由はどこにもない。
「貴女が注意している程度で済んでいることを僥倖と理解する頭はないのかしらね」
「彼女は、なぜか『私がバル様と結婚するのが運命なの!』というのです」
運命、まるでお芝居のような言葉ね。
ミミリアについて調べさせたが、特に他国や組織の紐はついていなかった。どこかの間者や手駒という線は薄い。それでも彼女を誘導してる黒幕はいるかもしれない……。
「……アナスタシア様?」
「ええ、大丈夫よリーゼロッテ。私がついてますわ」
□□□
「リーゼロッテ! またミミィを虐めたそうだな!?」
美しく整えられた中庭に響いたその声は、アナスタシアにも聞こえた。
侯爵家の令嬢であるリーゼロッテを呼び捨てにできる身分の声。ため息を吐きたい口元を扇子で柔らかく隠すと、足早に声の方へ向かった。
「いいえ殿下、私は……」
「……酷いですリーゼロッテ様!
そんなにバル様を独り占めしたいんですか!?」
わああん!と子どものような泣き声に、アナスタシアはくらりとした。噂のミミリアは泣き崩れたようにその場にへたりこむ。
地に伏す姿は哀れだったのか、バルデマー殿下は更に目に力を入れてリーゼロッテを睨んだ。
「失望した!!
……昔のお前は口うるさいところはあっても清廉潔白、卑怯なことをしないところに好感を持っていた……」
「殿下、私は……!」
「言い訳など聞きたくない!」
ぴしゃりと跳ね除けられ、リーゼロッテは思わず口を閉じた。細い肩が、小さく震えている。
泣き出したいし、逃げ出したいわよね、本当に、殿下のことが好きだったものね……、とアナスタシアは慮る。
「今のお前は口を開けば俺にも小言ばかり、余計なことばかり……俺には偉そうな口を効きながら、自身は嫉妬を理由に他の令嬢を虐めるなどなんと浅ましい女だ」
あくまでも、王太子とその婚約者、つまりは将来の王と王妃になる人間の問題なのだ。
二人で解決できればと見守っていたが、そろそろ限界のようだった。
「ミミィは違う、俺がダメでも叱ったりしないし、なにより心が綺麗だ」
びくり、とリーゼロッテが震えた。
それが合図となったかのようにアナスタシアはぱちん、と扇子を閉じた。
それは絶妙なタイミングで彼らの視線をさらった。大きな音ではなかったが、全員がアナスタシアを見る。
「あらあら殿下、いつからそんなことを言うようなおばかさんになったのかしら」
「……あ、アナスタシア……」
「ええそうよ、かわいいバルディ。
……でも、私は貴方を婚約者を傷つけるようなおばかさんに育てた覚えはないのだけれど……」
にっこり、と深く笑みの形をつくると、バルデマー殿下はわかりやすく震えて、叱られた子犬のように小さくなった。
事実叱られているので当然の反応だ。
「あ、あなた、一体なんなんですか!?」
噛み付いたのはアナスタシアのことを知らないのだろうミミリアだった。先程まで泣いてたのが嘘のようにアナスタシアを睨んでいる。
しかし、アナスタシアはそんな彼女を視界に入れない。わかりやすく無視すると、小さい子どもに言い聞かせるように昔の呼び名で王太子を呼んだ。
「バルディ、リーゼちゃんの話をちゃんと聞かなきゃだめでしょう?」
「しかし……!」
「素直なのは貴方のいい所。でも安易に信じたり騙されたりと、周囲につけ入れられてはいけませんよ、と私申し上げましたわよ?」
目を見開いてバルデマーはアナスタシアを見た。
王太子であっても頭の上がらない人間というものは存在する。アナスタシアに怒ってる様子など見えない。いつも通りの柔らかな微笑みを絶やしていないし、口調ですら幼子に言い聞かせるが如く穏やかだ。
しかし、バルデマーは戦慄した。彼女は静かに怒っていた。神に愛された印と噂されている美しいオーロラの瞳に射抜かれる。
「リーゼロッテ、どんな会話をしたのか説明してあげて?」
「ミミリア様に、次の夜会のファーストダンスを譲れと言われましたので、婚約者がするのが慣例なのでできませんとお断りし、二曲目以降であれば、殿下のお気持ち次第です、とお伝えしましたわ」
「ちが! リーゼロッテ様は……っ」
「ちなみに、お二人の話は、ヴェルデ様が聞いておりましたわ」
ミミリアの言葉など、言う端から潰しておく。
ヴェルデと呼ばれたのは王太子や公爵令嬢と同じクラスの男子生徒だ。堅物で融通が聞かないところがあるが真面目で実直な性格をしている。
バルデマーが目を向けると彼はこくりと頷いた。
「その通りだ。
自分とアナスタシア嬢が通りかかった。リーゼロッテ嬢の言葉が正しいし、それに対してミミリア嬢が口汚くリーゼロッテ嬢を罵っていたのも聞いた」
「そんな……! ミミィ、嘘をついたのか!?」
「違います! バル様に嘘なんてついてませ……」
ぱちんっ!
と、扇が鳴る。
「殿下、そこの嘘つきのどこが『心が綺麗』なのか私にはわかりませんわ」
『真面目で陰気なアンタのこと、つまんないってバル様も言ってるわよ』
『悪役令嬢のくせにいい子ちゃんぶってそんなに王妃になりたいの? 卑しすぎない?』
「なっ!!」
「嘘、やだっ!! やめて!!」
突如響き渡る醜い言葉。
あどけないような声はバルデマーの耳には聞き覚えがあった。その声をかき消すかのように叫ぶミミリア。叫び声につられて目を向けたものの、彼女から突然その愛らしさが掻き消えたように見えた。
泣き顔も、叫ぶ声も、欠片も愛おしくない。
『バル様も単純よね、褒めてあげたらすーぐコロッと私に懐いちゃって。アンタの努力なんてみてないわよあの人。アンタってほんと惨めね』
『大好きなバル様に他の女が近づいて内心怒り狂ってるくせに。いっつもすました顔しちゃって……アンタのそういうとこ大っ嫌い』
『はやくきらわれちゃえ』
きゃはは、と嘲笑うその聞き慣れたはずの声が、バルデマーには悪魔のように聞こえた。
自分を励ましてくれた、優しいミミィは一体どこだ……??
「なによそれ!!」
「風と音と時の魔術を組み合わせた録音魔術ですわ。お勉強ができればあなたにもできますわよ」
もちろんそんなことはない。
基礎となる4大属性の風はともかく、音魔術に時魔術、どちらも希少魔術と呼ばれるそれらを使うだけでなく複合させているのだ。
天才的な魔術師であろうとも一朝一夕でできるものではない。
「魔術でここまで複雑にするとみなさんには扱い辛いでしょうから、時魔術を抜いて、風をメインに魔道具可しようと思っていますわ」
「そ、それは画期的だ……!!」
おお、とヴェルデが喜んでいるのが場違いな素直さでアナスタシアは和んだ。
さて、と目の前に目を向けると、バルデマーは茫然自失、ミミリアのほうは気丈にもアナスタシアを睨んでいた。
「リーゼ……俺は……」
「バル様、信じないでください!」
「うるさい! お前のような嘘つき信じられるか!!」
すがりつこうとしたミミリアを、バルデマーははじき飛ばした。本当に子どものように素直な子だ。
優しい甘言に騙され、しかし裏切られたショックで今は強く拒絶している。
王太子教育をもっと厳しくしてもらうべきかしら……いくらのびのびと育てたいとはいえここまで幼いとは思わなかったわね、とアナスタシアは扇の内にため息を落とす。
「リーゼ……」
バルデマーが目を向けた先、リーゼロッテは、ミミリアとは対照的に静かだった。
嫉妬に狂い、身分の劣るものを虐め、自分に口うるさいことばかり言う嫌な奴だと思っていた婚約者。
それがどうだろう。
昔の、清廉としたリーゼがそこにいた。
変わったのは、彼女ではなく自分のほうだった。
ようやくバルデマーはそう思い至った。
「すまなかった、リーゼ」
「いえ、いいのです……殿下」
リーゼロッテは変わらず淑女の笑みを浮かべていた。しかし、バルデマーにもしっかりとわかるくらいに、弱々しく悲しそうだった。
悔やんでも、自分がしたことだ。
バルデマーに急速に罪悪感と後悔が押し寄せたが、そのどちらも彼女に伝えるのは違う、そう思った。許してくれ、そう懇願したいのは自分が許されたいだけのワガママなのだから。
騒ぎを聞きつけて来た学園の警備員に、ミミリアを職員室に連れていくように指示する。
「ちょっと! なによこれ!? ふざけないで!! アナスタシアって誰よアンタ!!! そんな名前一行だって出てこなかったのに!! チートかよ!! ふざけんな!! はなせ!! クソリーゼの味方のふりしてサイキョーチートプレイとか頭おかしいふざけんなふざけんなやだやだなんでなんでなんで!!!!」
取り繕いの欠片もなく。
喚き暴れる獣のような彼女を見るものは誰もいない。
まるで、そんなミミリアなんて存在は最初からいなかったかのように。ミミリアから血の気が引く。
「うそうそねえ!! だれか!!」
まるで聞こえないかのように。
そして彼女の存在すらも、このまま抹消されるのだ。
学園内とはいえ貴族社会でこれだけのことをして、先があるはずもない。
「いやああああああああああ!!!」
アナスタシアは、ただ一言。
今日は風の音がうるさいわ、と呟いた。
「……バルディ? 反省できそう?」
唐突に降ってきた問いかけは、母の温もりのように柔らかった。
「猛省する。リーゼ、アナスタシア、ヴェルデも。迷惑をかけてすまなかった。自分が間違っていた」
深く頭を下げると「あらあら」と微笑む声がバルディに聞こえた。アナスタシアには本当に頭が上がらない。
「私、アナスタシア・ローザ・ヘレーネ・ミハイロヴナが命じます。リーゼロッテ、本音をお出しなさい」
凛とした声が響いた。
アナスタシアの名前。その力を使った『命令』としての言葉だ。リーゼロッテの淑女のとしての仮面を外す言葉。
ああ、この方はなんてお優しいんだろう。
リーゼロッテは心が震えるのを感じた。そして目の前で申し訳なさそうなーー叱られ待ちの子どものようなバルデマーの顔を見ていると、鼻の奥がツンとした。
「……わ、わたくし、悲しかった……悲しかったのですわ殿下……」
ぽろり、と、止まったはずの涙が零れる。
好きなのだ、女心のわかる人ではないけれど、王太子としてすごく優秀というわけでもないけれど、バルデマーが好きだった。
だからこそ悲しかった、傷ついた。
淑女らしく、未来の王妃らしく、そう思うと伝えられなかっただけで。
「り、リーゼ、泣くなよ……」
思わず駆け寄ったものの、どうしていいのかわからずおろおろするばかりのバルデマーに、アナスタシアは言う。
「癒すだけなら、そばに居るだけなら、無力な貴方を認めるだけならば、そこな令嬢にもできましょう。
しかし殿下、貴方はいずれ王になる御方。貴方の唯一となる女性は、貴方を諌め、励まし、安心させ、時には貴方の代役が務まるものでなければなりません」
はっ、とした様子でバルデマーがこちらを見た。
「貴方がもし今回のように道を間違えそうになったとき、その辺の令嬢に貴方を叱ることなどできますの?
リーゼロッテをもう一度みてご覧くださいませ殿下。貴方が『余計なことばかり』と跳ね除けた言葉の数々は貴方を真に思えばこそ。
自分が例え邪険にされようとも、他の女に愛情を向けていようと、その女に濡れ衣を着せられていても、リーゼロッテはここにおりますわ。なんと強く美しい愛情でしょう。
私ならもうとっくにそんな婚約者には愛想を尽かして遠く領地から婚約破棄を申し入れますのに……」
びくり、バルデマーが大袈裟に震えた。
自分が婚約破棄される。捨てられる。考えてもいなかった。リーゼに、王太子という立場に、学園という環境に、甘えていた。また気付かされる。
「さあ殿下、考えるのです。
正妃は唯一王である貴方のその隣に侍ることが許される存在ですわ。
妃は、王の妻でありますが、王の臣下でもあります。正妃ともなれば一番の臣下。美しく強く、そして賢く有能なものを手元に置くのが良いと思いませんこと?」
にっこり、アナスタシアが微笑む。
天上の女神のように美しい彼女のオーロラの瞳は、誰も彼もに有無を言わせない。
「アナスタシアの言う通りだ。
本当に済まない。俺が愚かだった。君にふさわしい王になるよう努力するから、見捨てないでほしい。お願いだリーゼロッテ」
「……ば、バルデマー殿下……」
片膝をついたバルデマーにさすがのリーゼロッテも動揺を隠せない。
「どうかバルと。……いや、他の女と被るのは嫌か?そうだな……ルディ、そう呼んでくれ君だけの呼び名だ」
「は、はい……! ルディ、さま」
見つめ合う二人、これ以上は問題ないだろうとアナスタシアは付き合ってくれていたヴェルデに声をかけて立ち去ることにする。ヴェルデにはお礼を渡しておきたい心積りもあり、連れ立って。
バルデマーはリーゼロッテとともに、立ち去る二人の後ろ姿を見た。
「アナスタシア様に感謝しなければなりませんね」
「ああ、本当に。ヴェルデにもな」
美しい銀の髪、オーロラの瞳。
女神のような彼女には、本当に本当に、頭が上がらない。
悪役令嬢ものの序盤に、こんなつよつよお姉様がいたら……から始まった短編になります。
連載版が作れたら、という思いからアナスタシアの設定をだいぶ伏せた謎の強キャラとなってしまいましたが、お読み頂きありがとうございました!
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別作品や続編製作の活力となります!