死の床
なぜ、いつからこうしているのか。
身体は熱く、怠く、痛く、苦しい。少し前まで動かせた腕も今では鉛のように重く、指先を微かに動かすのがやっとだ。
一滴の水も口にしていないので渇いて渇いて仕方がない。なぜ水を飲ませてくれないのか。
鰻とメロンを腹一杯食べる。鰻の脂の旨味とあの甘いタレの味。メロンを噛むと果汁がジュワと溢れる。
風鈴が鳴っている。高い響き。
今は夏か。母が西瓜を切ってオヤツに持ってきてくれた。弟にも食べさせてやろう。アイツは何処だ?
「お父さん、加減はどう?」
弟じゃない。娘。そう、娘だ。
「アイツにも西瓜、食べさせてやれ」
「え?西瓜?」
「かあさんが、切ってくれた奴が有るだろうが」
娘は悲しそうな顔をする。
何故だろうか。西瓜が足りないのだろうか?
「西瓜無いんか?」
「西瓜は今の時期は出てないかも。西瓜なら食べられるかもしれないから探して来ましょうか?」
「俺はもう食べた。お前らのよ」
「今はお腹が良いから大丈夫」
「そうか」
痛みが押し寄せてくる。感覚が遠のく。
呻き声。呻いているのは誰?
「お医者さんが痛み止めの強い奴を出してくれるから、それしたら楽になるよ」
「ああ」
それならそうしてくれ。
ここは病院なのだろうか。家だと思っていたが医者がいるのか?
「ここは病院か?」
「家よ、お父さん。お父さんが帰るって言ったんでしょ?」
「家に医者は居らんだろ」
「在宅で来てくださるのよ」
そうか。
家か。
天井もやっぱり見慣れた天井だ。
天井。
天井の木目を眺めている。あの線があそこで曲がってそこまで続いて。
昼寝をしていたのか。
そう言えば宿題がまだ終わっていない。
早く宿題をやらなくては。明日学校で先生に怒られる。漢字の書き取りを済ませて。
先生は随分前に亡くなった。癌だった。小学校を辞めた後、しばらくは公民館で子供達に昔の遊びを教えていたが、癌で死んだ。同窓会にも見えなくて、そこで先生が亡くなったことを知ったはずだ。
そうか、これは夢か。宿題は出さなくていい。
目を開けると天井。部屋は薄暗い。
苦しい。助けを呼びたいが声が出ない。金縛にあったように体が動かない。
足音が近づいてくる。
助かった。救急車を呼んでくれ。
「お父さん、眠れた?」
娘か。
「苦しい」
「苦しくていけんね」
「救急車」
何故泣くのか。泣いて居ないで医者に連れて行って欲しい。
「——お父さん、やっぱり病院に行く?病院行ってももう手の施しようはないけどその方が先生も居て安心?」
「苦しい」
「——苦しいね」
娘の手は冷たい。娘が泣いている。
夫が死んで悲しんでいるのだ。
結婚式で幸せそうにしていた娘の顔を昨日の事のように思い出す。
孫が生まれて家族で泊まりに来てくれた時の顔も。
彼に娘を任せてよかったと思った。
こんなにも早く逝くとは。
妻には先立たれた。だから分かる。娘がどんなに悲しみの底にあるか。
「お父さん、行かないで」
「ああ」
娘の手は冷たい。
身体が燃やされているように痛むが娘の手が触れているところだけは少しその痛みが和らぐ。
娘は泣き虫だ。小さい頃からそうだった。妻が死んだ時もこんな風に泣いた。
どうして神様はうちの娘から母も夫も奪うのか。
「どうして」
「何が?」
カチリ、カチリ。時計の音が遠くから聞こえる。
こんなに苦しいのは尋常な事ではない。俺は死ぬのだろう。
そうか、死ぬのか。死ぬのだろう。
「お父さん、今、弟さんとか親戚の人呼んでるから。もう少ししたら来るから」
何故?
もうよく分からない。
考える気力もない。
温かい風呂の中に浮いている。
「お義父さん!お義父さん!」
「おう」
彼は死んだのではなかったか。
それは違う人だった?
「兄さん!」
弟か。早く来ないから西瓜が無くなってしまったぞ。鈍臭い奴だ。
「遅いぞ」
「ごめん。ごめん」
泣くか。そんなに西瓜が食べたかったならお母さんに頼んでまた買って来て貰えばいい。
「おじいちゃん!」
小さい手。孫か。
「よく来た。アイスを」
食べさせてあげたい。誰か持ってきてやれ。
「冷蔵庫から持ってきます」
「食べろ」
「……うん」
「遠慮するな」
これでいい。
全てがぼやけてくる。
家にいるのか?
親父もこの家で死んだ。親父もこうだったのか?
声だけが聞こえる。
「ありがとうお父さん」
「ありがとうございましたお義父さん」
「じいちゃんありがとう」
それはよかった。
溶けていくような。
迎えられるような。
あたたかい——。
所詮は願望であり半ば祈りなのでしょう。
他人が何をどう思っているか知る事はできないので。