第四話 誰かの名前①
鹿目の運転する車が、畑ばかりの開けた場所に出る。
それと同時に、見えないなにかに追われている感覚を全員が感じなくなった。見立ては正しかったのだ。
だからと言って喜んでいるわけにはいかない。
開けた場所で車は目立つ大きな的だ。敵対している相手から丸見え。そんなものに乗っていては、いつどこから狙撃されるか分からない。
対して車内からは相手の姿が見えない。探し出し捕まえ、目的や仲間の有無や組織の規模など、様々なことを聞き出さなければならない。
「二時の方向にある倉に向かってください」
「ここから一番近い建物だぞ。危険じゃないのか?」
鹿目は曹長で、指示を飛ばしたのは少尉。階級から考えれば言葉遣いは逆だが、互いに気にする様子はない。
霞城は二人が少なくとも顔見知りではあると感じていた。これまでのやり取りは多くなかったが、だからこそでもあった。
「いつも言ってただろ。美波少尉の言動で危険に晒されるのは美波少尉だけじゃない。よく考えて行動するべきだ。本当に行く必要があるのか?」
「はい」
短くはあったが、はっきりとした答え。鹿目にはそれだけで十分で、力強く了解の返事をするとアクセルを強く踏み込んだ。
だが数秒もしない内に、急ブレーキがかけられた。その勢いで身体が前のめりになる。
頭を上げた霞城の視線の先にいる鹿目は、青ざめたような表情をしている。
「三秒後にアクセルを離したら、後方からの力がなくなるはずです。その二秒後に全力で踏んでください」
美波のその言葉で、霞城は理解した。
鹿目が急ブレーキをかけたのではなく、なにかが起こって急ブレーキをかけたようになった。そして美波はそうなることを分かっていて、あえて言わなかった。
意図を理解するには情報が足りない。あっという間に三秒が経ち、鹿目がアクセルペダルから足を外す。美波の言う通り、後ろに引っ張る力がなくなった。すぐに車の持てる力の全てで前進する。
人間が釣れた。
まるで見えない糸に引っ張られるように、後方にある納屋から人間が勢いよく飛び出した。それを見て、霞城はそう思った。
徐々に速度を落とした車が、完全に停車する。停車前から翔也はドアノブに手をかけていたが、降りようとはしない。それは霞城も同じだった。
建物を切断するような仕掛けが車を出てすぐにあったらどうなるか。考えなくとも分かることだ。
だが美波は躊躇うことなく降り、釣れた人間の方へと歩いて行く。
二人も恐る恐る降りて美波に続いた。鹿目はすぐ発進できるように車で待機し、窓を開けて周囲を警戒している。
「絢子さま! たすけて……。死にたく、ない……!」
釣れた人間は、金の瞳を涙でキラキラと光らせて美波を見ている。言葉で、態度で、瞳で、懸命に訴えている。
それを受けた美波が動かしたのは、首だけだった。コテンと、横へ。
霞城には表情や感情の、微弱な変化すらも感じ取ることができなかった。殺そうとしておいて、都合がいいにもほどがある。そう怒ってもおかしくはなく、それが一般的な感情だと霞城は思っている。
だが美波は怒りも泣きもせず、じっと相手を見ている。
「助けてください。都合がいいって分かってます。でも俺、死にたくないんです!このままじゃ巌谷少佐に……楠巌谷に、殺され――」
言葉が途切れたかと思うと、頭が上下逆さになった。落ちた反動で数回小さく跳ねた後は動かない。
身体は仰け反るようにゆっくりと倒れた。頭とは反対の方向に肩がある。
「伏せろ!」
車から聞こえた鹿目の声に、翔也と霞城が条件反射で伏せる。状況を整理しようにも、身体が震えるばかりでなにも考えられない。
だが美波は違った。
ひとり、堂々と立っている。ただ立って、一点を見ている。
その視線の先には特になにもないが、確かにどこかを見ていた。身体が硬直してしまって動けない、などという様子ではない。
「あの者の遺体を確認しましょう」
「なんで。どうして。そんなに落ち着いているんだい。攻撃は見えない。多分その攻撃をした者は、首が突然落ちた。僕は……怖い。それに」
言葉を切ると、身体を起こして遺体に視線を向ける。そして思う。
あの必死さが演技だったとは思えない。そして言った通り死んだという事実。あの言葉が嘘だと感じる者は少ないはず。
さまで呼ばれるのは、従軍していない本家の者だけ。それはこの島での常識で誰でも知っている。だから僕の言いたいことは誰にでも分かるはず。
「戦闘についてなら従軍以来三年間、最前線の部隊に所属していたためだと思います。名前については分かりません。私はあの者にも、その名前の者にも、会ったことがありません」
「そうかい。分かった。鹿目曹長とは顔見知りのようだから、東部軍の軍人であることはまず間違いないだろうね」
そうは言いつつも、にわかには信じがたかった。霞城には自身より幼いようにしか見えないからだ。
だがなにが美波を幼く見せるのかと問われると、どうにも上手く答えられそうにない。一番の要因は低い身長だが、それ以上に顔付きが子供のそれだ。
霞城もまだ子供の顔付きではあるが、美波は非の打ち所がないような端正な顔立ちのせいで幼さが悪目立ちしている。
「……いつまでもここにいても仕方がない。翔也大尉、三人で確認しましょう」
少し恐る恐る立ち上がる。霞城自身は切り替えたつもりだったが、まだ恐怖心があるのだ。
だが自覚するとそれを振り切り、翔也が立ち上がるのを手伝う。とは言っても、軽く手を添えただけだ。
それは翔也に立ち上がろうという意思があり、だができない理由を自覚していたからだ。そして手伝われることを悪としなかった。
「ありがとう。もう大丈夫だよ。えっと、確認……まずはドッグタグとポケットの中身かな」
あと少しの、最後の一絞りの勇気が足りず、踏ん切りがつかないでいた。そんな自分を否定も肯定もせず受け止め、なんとか小さく微笑んでみせる。
それこそが己の弱さだと分かっていても、それは受け止められなかった。
「ドッグタグのプレート、ひとつしかないね」
通常の仕様であれば、二つあるものだ。
ひとつは戦死報告のために持ち帰り、ひとつは遺体判別のために残しておく。それがひとつしかない理由は、本人が言っていた。
刻んであるのは“小南直巳”という名前のみ。
「どうあっても殺すつもりだったのかな。だったらどうして……」
「逃げたら別の者がこうなるだけです。自分が死んででも、という気持ちは分かりませんが、そういう者がいることは理解しています」
発言の内容について、霞城は共感するしかなかった。死にたくないという理由で生きている霞城に、死んでも守りたい者が存在するはずもない。
だがひどく淡泊な物言いで服を探りながら言うことには、眉をひそめた。
苦言を呈そうとしたがある物を見た瞬間、その言葉は引っ込んでしまう。左の内ポケットから出された、一冊の本だ。
「……僕の記憶違いじゃなければ『眠れる森の美女』って童話だよね? なんで童話なんて持ち歩いてるんだろう。フェイクかな。開いてみて」
その本を、美波は開かなかった。両腕でぎゅっと、きつく抱きしめる。
翔也は頭ごなしに怒ることをしなかった。だがそうでないのなら、なんと言っていいのか分からないのだろう。困った顔を霞城に向け、助けを求める。
調査に関わることだが、自分たちに知らせるべきではないこと。それを美波も知っているのでは。翔也はそう考えたのだ。
「開かない方が賢明です。でも……それがなにか分かるのかい?」
「……はい」
少しの逡巡の末、頷きながらそう言った。弁明をすることなく本を抱えている美波に、霞城もなんと言っていいのか迷っている。
その空気を感じ取ったのか、鹿目は車から降りて美波の隣にそっと座った。
「美波、秘密を告げるときがきたんだ。なにか秘密を持っていることは美波自身を見ようと接したらすぐに勘付く。もう打ち明けられるのを待っていられる段階じゃなくなったんだろう。俺には言えないか?」
「……主である、恭一少将にお話しします」
パーソナルネームを与えられた者は、与えた者を主と呼ぶ。
だがパーソナルネームを与えられた者が防衛線に配属されることなど、通常ではありえない。主が少将となれば尚更だ。
翔也と霞城は当然のように、美波の言葉を疑った。だが鹿目は静かに微笑んで頷く。
「そうか。ありがとう。……ごめんな」
優しい手つきで美波の頭を撫でてから、二人を見る。
「世の中は知らない方がいいことで溢れかえっていると思いませんか? 知ったが最後、なんてこともあります」
「そんな秘密を、二つの意味で抱えてる。そう言いたいの?」
「確かに。うまいですね。そうです。二年半以上も前から、主にも隠していた秘密に関する物を物理的に抱えて、わたしたちを守っているのです」
「信用できない」
霞城の声は鋭かった。
「知っている僕にも“そう”なんだろうな、としか分からない。でも分かるってことは“それ”なんじゃないのかい? そんな自分を信用しろと言うのかい」
具体的なことはなにも言わず、知らない者には全く分からない言い方。だが美波には伝わると確信している。そんな話しぶりだった。
なにか言おうとした美波だが、町の方向を見る。現状では誰も動かせないと判断したのか、その場で警戒態勢でいる。
しばらくして見えたのは、連なって向かってくる二台の車だった。
次話は日曜の13時に更新します。