第八話 くれた名前
美波に連れられた亮太が着いたのは、住宅街の外れにある一軒家だった。この町での一般的な家と比べると少しだけ大きい。
少しリズミカルにノックをしただけで、美波はなにも言わない。
「おかえり、お嬢」
そう言って出迎えた者は、穏やかな笑みを浮かべていた。
名乗らずとも人物が分かったのは、ノックのリズムだ。決まったリズムで叩くことで、誰が尋ねて来たか判別できるように、と取り決めることがある。
町の者が自分の意志で訪れたことを示すためだろうと、亮太は考える。
「大尉昇進のときの、副料理長じゃないか」
軍人に料理を提供する彼らは、従軍しているわけではない。仲間内でノックの仕方を決め、どちらが尋ねて来たのかすぐ分かるようにしている。
どちらというのは、同職の仲間か、軍人か、だ。
上流分家の者が大尉に昇進するのは、半ば決まったこと。そう言ってしまえるほど珍しくないため、祝いの席は前に倣って小ぢんまりとしたものだった。
それでも通常であれば気張る場面なのだが、当時亮太はあまり有望視されていなかった。さらに前日には、他に祝いの席があった。
料理長はそちらを優先し役割を投げたのだが、これが当たりだった。
美味くて見た目の綺麗な料理は、苗字持ちには当たり前だ。その当たり前を褒められたか褒められなかったか。それだけの違いで二人の料理人は運命を変えた。
「お久しぶりです。覚えていていただけて光栄です」
「いや……あれがきっかけで、大勢の同僚から嫌がらせを受けたと聞いた。それで辞めたのだろうと。それに名前は……」
「顔を合わせたのは八年近く前に一度だけ、ですよね。顔を覚えてみえる方が驚きです。それから、辞めた理由は結婚です」
首から下げて服の中に入れていたものを見せる。指輪だった。
軍の基地では住み込み以外は原則、認められていない。家族を住まわせることができるが、襲撃される可能性が高い危険な場所。結婚や妊娠を機に、辞める選択をする者が圧倒的に多い。
今は妻となっている当時の恋人は、防衛線近くの町の教育環境を変えたいと考えていた。自身は食育をしたいと考えていた。
笑われる夢物語のため、滅多なことでは話さない。それをどこで知ったのか、晴臣に協力を申し入れられた。
お力添えのおかげでここへ、と話しを簡単に締める。
そして挨拶に行けなかったことを謝罪し、雪之丞と名乗った。
「前向きな理由だったならいいんだ。よかった」
「時間がありませんので、本題に入ってもよいでしょうか」
空気が読めない。
鹿目にそう言われていた美波でも流石に読める空気に黙っていたが、時間が差し迫っている。そのため次の話題になる前に割り込んだのだ。
二人はくすくすと笑い合ってから頷く。その頷きが切り替えのスイッチだったのだろう。表情は真剣なものになっていた。
「例の件について調査に来て、少尉と出会った。不思議なところが多くてな。少尉のことを聞かせてほしい。恭一少将から世話を申し付けられたと聞いたが?」
懐かしむように微笑んで、雪之丞は思い返す。
「少し縁があって、僕の夢をご存知だったんです。僕だった理由はそれだけだと思いますが、この町に決めた理由がそれだけなのかは分かりません」
「そうか。士官学校についてはなにか知っているか?」
――通ってることにしてあるよ。大丈夫、全くの嘘ではないからね。
すぐに従軍させると言った恭一に抗議すると、そう返ってきた。
美波本人は隠せているつもりだったのだが、町の誰もが知っていた。空いた時間を全て、訓練に充てていたことを。
五年近く本部で多くの軍人を見てきた雪之丞は、直感的に分かっていた。美波には戦闘センスがあるということを。
戦場に行ったことのない雪之丞だから、詳しいことは分からない。それでも分かることがあった。この町に閉じ込めておくのは、もったいない人材だ。
「なるほどな」
「亮太少佐、そろそろ時間です」
「分かった。雪之丞、急に訪ねて悪かったな。聞かせてくれてありがとう。それから、元気そうで安心した。夢に力添えできるよう俺も頑張るよ」
不自然なまでに自然。そんな作った笑顔で、無難で適当な返事をした。そうしてしまったのは、心ここに在らずだったからだ。
雪之丞の不自然な態度に気付くことなく、二人は去っていく。その背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「全然叶えられてないのに、笑わなかったな……」
二人と雪之丞の距離は、もう遠い。声を張っても届かないかもしれないという距離だ。呟いただけの雪之丞の声は当然のように聞こえず、様子は伝わらない。
その距離になって、やっと亮太は口を開いた。
「半年も世話になった者にも、偽名すら言わなかったのか」
「どんな風になりたいかで名前を決めるのがよいと言われました。私はまだ、なににもなりたくありません」
「だが従軍するにあたって、そういうわけにはいかなくなったと。くれたのは……いや、与えたのは、恭一少将か?」
美波はどちらも否定しなかった。
その会話以降は黙って歩き、元の道に戻ってくる。そこから裏路地のような細い道を通るのが、最も早く着けるためだ。
どこからか聞こえる町の様々な声に、亮太は耳を傾ける。
力仕事の際の掛け声。外で元気よく遊んでいる子供。話に花を咲かせながら料理をする者ら。
「そういえば雪之丞はなぜ家にいたんだ? 夕食の準備をする時間だろう」
「危機察知能力が高いので、なにか理由をつけて引き籠っているのでしょう」
少し噴き出すように笑ってから、納得したように頷いた。
その姿は油断しているようにも見えるが、そうではなかった。横道から駆けて近付いてくる者を察知し、振り向く。
歩く速度を落としていなければ、衝突していた。そんなタイミングで、清之助が現れた。
「なにかあったのか」
「いいえ、なにも……ただ、なんだか妙な感じです。自分の意志でここに来たはずが、なぜそう思ったのか分からないというか……」
異能の存在を知らない亮太だが、その事象に心当たりがあった。清之助も言ってから気が付く。
南部軍には精神操作を得意とする家系が多くある。超常現象のようなことが起こるため、黒魔術だと言われていた。
実際のところ、超常現象については異能によるものだ。しかし異能の存在を広く知らせていない東部軍では、まだ黒魔術と言われている。
気付いた次の瞬間、清之助は回れ右をして駆け出した。
方法が精神操作だろうと、黒魔術だろうと、異能だろうと、関係ない。清之助を移動させたこと自体に目的がある。一刻も早く様子を見に戻るべきだった。
「行くぞ、少尉」
なんとなく不安だったのか、横目で背中を見送る。予感は的中し、清之助が派手に転んだ。
その光景に亮太は言葉を失う。
「え……? あ、れ……足が」
すぐに起き上がろうとした清之助から、困惑した声が漏れる。上半身をできるだけ起こし、脇の間から足元を見ようとするのを美波は止めた。
その行動で清之助は、自分になにが起こったのか悟ってしまった。
腰に手をやろうとしたが、空気を掴むばかり。足には触れられる。その位置からしてそこにあるべきはずのものが、ない。
「亮太少佐、傍にいて差し上げてください。基地へは翔也大尉と行きます」
「…………ああ……」
よろよろと歩み寄って、清之助の手を取る。そんな亮太を見てから、美波は駆け出した。
翔也の元へ真っ直ぐ行くと、有無を言わせず連れて行く。事情を説明しながら迎えの車へと向かった。
「そう、あの彼みたいに腰が。じゃあもう……」
足を前に進めながら、ちらりと振り返る。二人がいるのは、まさにその視線の先だ。遮る建物がなければ、二人の姿を確認することができただろう。
その正確さに、美波は疑問を抱く。だが偶然で片付けられるそれを追求している時間的な余裕がない。
発とうとしていた迎えの車にギリギリで乗ると、基地へと向かった。
同時刻。亮太は清之助に抱きしめられていた。
互いの肩が濡れる。
「清之助……すまな――」
首を振って、強く抱きしめた。貴方が謝ることじゃないから。
それに貴方は、俺に沢山のものをくれた。それなのに俺が貴方にあげられるものが、こんなものだなんて嫌だから。
それから本当はどんなときだって、そんな風に呼ばれたくなかった。俺のことだけを一生懸命に考えて、くれた名前があるのに。
遺伝子を受け継いだだけの親から、識別のために与えられた名前が嫌いだ。
「我が主」
「……サイクロプス。ありがとう」
心の底から愛おしいと思った。
そんな風に思える相手から聞いた最後の言葉が、悲しいものじゃなくて本当によかった。
くれた名前を呼ぶ姿が見られて、本当に嬉しい。
力なく微笑み、首がほんの少し縦に動く。
それを最後に、清之助の――サイクロプスの身体から全ての力が抜けた。
読んでいただきありがとうございます。
明日から三日間、短い番外編を更新します。亮太との会話の際、雪之丞が思い返したことを描きます。