観音寺城の戦い
織田信長は永禄一一年(一五六八年)、足利義昭を奉じて上洛する。織田信長は守護代による守護殺害を名目に尾張を統一し、足利義昭にも十分に我慢した。下剋上の代表的な人物である斎藤道三は美濃国守護を毒殺したことと比べて、意外と権威を大事にしている。
南近江は上洛の通り道となっており、六角義賢は臣従か抵抗かを迫られることになった。臣従は形式的には足利義昭であるが、実質的には信長になる。これは屈辱的であるため、義賢は戦うことを決意し、観音寺城の戦いが起きた。信長にとっては天下布武を掲げて最初の戦いになる。
観音寺城の戦いと言うものの、主要な決戦は支城の箕作城で行われた。観音寺城は山の上に築かれた堅固な山城である。しかし、観音寺城の堅固さは観音寺城単体ではなく、支城網のネットワークにあった。秀清は箕作城で守備についていた。義賢は織田勢が前線の支城の和田山城を攻撃すると予想し、自ら和田山城に入り、重点的に守備を固めた。ところが、織田勢は観音寺城よりも奥にある箕作城を攻めた。
「箕作城に籠る兵は少ない」
信長は木下藤吉郎秀吉と丹羽長秀に箕作城攻略を命じた。日中に木下藤吉郎秀吉が北、丹羽長秀が東から攻撃した。
「何故、ここに織田軍が」
秀清は驚愕したが、何とか撃退することに成功する。しかし、それで終わらなかった。
「この戦、負けられぬぞ!」
秀吉は気合を入れていた。秀吉にとっては六角勢だけでなく、丹羽長秀も競争相手であった。その日の夜に秀吉が夜襲をかけた。松明を数百本用意し、火攻めを行った。
「何ということだ……」
秀清は呆然としながら呟いた。
「降伏しろ! そうすれば命だけは助けてやる!」
しかし、秀清は勇敢に戦った。
「怯むでない!我らは名門六角家の軍勢なのだぞ」
秀清は声を上げながら必死になって戦った。しかし、多勢に無勢。次々と討ち取られていく。それでも秀清は諦めない。
「まだだ!まだ終わらぬ!」
その姿を見ていた秀吉は思わず呟いた。
「見事じゃ。しかと見届けさせて貰った」
「何だと!?」
箕作城の落城に義賢は驚愕した。すぐに兵を纏めて観音寺城へと撤退した。和田山城の残りの守備兵は戦わずして逃亡した。箕作城を落としたことで勢いづいた織田勢はそのまま観音寺城を包囲した。
「今こそ好機よ!一気に畳み掛けるがよい!」
信長は命じた。
「このままでは拙い……」
義賢は焦った。
「ここは某に任せてくださいませ」
そう言って立ち上がったのは家臣の駒井力道であった。
「行くぞぉおお!!」
力道の軍勢が観音寺城を出た。それを見た織田軍はすぐさま追撃を開始した。信長の声と共に織田軍が一斉に攻撃を開始する。
「くっ……」
力道は歯噛みしたが、ここで退くわけにもいかない。
力道は最後まで戦い抜き、討死して果てた。この間に六角氏本隊は甲賀に逃走し、ゲリラ的な抵抗を続ける。六角氏は室町幕府から攻撃された時も観音寺城を捨ててゲリラ的な抵抗を行った。室町幕府軍の出兵は続かずに撤退後に南近江を回復した。しかし、戦国大名の信長は占領地の一円的な支配を目指し、撤退はなかった。この戦いに勝つことで信長の勢力範囲は南近江に拡大した。
「これでようやく上洛できるわい」
信長は一息ついた。
信長は上洛軍の軍紀を徹底した。軍規違反の兵士は即座に斬首し、晒し首にした。信長は失敗を許容しても、不祥事に甘い訳ではない。身内に甘い現代日本の警察不祥事の対応とは異なる。やはり信長は無能公務員的体質に厳しい。そこは信長が人格的に好まれるタイプでなくても、現代人に人気がある所以だろう。
信長は義昭を室町幕府一五代将軍に就任させることに成功する。義昭は信長のお陰で将軍になれたが、すぐに二人は対立する。そこには信長と義昭の個人的対立だけでなく、摂津晴門を中心とする室町幕府官僚機構の腐敗があった。
摂津晴門は裁判を公正に進めるつもりがないことを明言する。最初の本格的武家政権である鎌倉幕府が支持された所以は、比較的公正な裁判が行われたことにある。摂津晴門の姿勢は自らの存在意義を否定するもので、室町幕府の滅亡は当然になる。利権と保身ばかりの悪しき公務員体質である。