観音寺騒動
六角氏よりも浅井長政の方が思い切りはよかった。美濃斎藤氏と対立していた尾張の織田信長と同盟する。野良田の戦いと同じ年の永禄三年の五月一九日(一五六〇年六月一二日)には織田信長が今川義元の大軍を破る桶狭間の戦いが起きた。信長と長政には少数の兵力で大軍を打ち破った武将同士のシンパシーがあっただろう。
長政は織田との同盟のために信長の妹の市を妻に迎えた。市は信長の天下布武に協力するために長政と政略結婚した。しかし、それは家のためというような封建的価値観からではなく、兄への愛のためであった。しかし、嫁いだ後は長政の人柄に惹かれ、長政を愛した。夫婦仲の睦まじさは、これほどの夫婦は下々にもあるまいと言われるほどであった。それでも織田信長が朝倉を攻めた際は、袋の両端を縛った小豆袋を信長に送って浅井の裏切りを伝えた。
長政と市には三人の娘が生まれた。浅井三姉妹と呼ばれる。長女は茶々、次女は初、三女が江(小督、江与、崇源院)である。茶々は長女らしく、落ち着いている。茶々と比べて次女の初は感情をぶつけてくる。江にとっても、すぐ上の姉ということで、茶々よりも気安い関係である。江は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の御台所になる。嫡男・家光を疎み、二男・忠長を偏愛した。明智光秀家臣の斎藤利三の娘が後の春日局であり、将軍継嗣問題で江は春日局と対立する。
六角義治は永禄六年(一五六三年)に種村道成と建部秀清を呼んだ。
「後藤賢豊と後藤壱岐守を殺せ」
賢豊は六角氏の宿老である。壱岐守は賢豊の息子である。義治は賢豊の人望や才幹を妬んで殺そうとした。道成も秀清も諫めたが、聞き入れれなかった。その後、賢豊と壱岐守は観音寺城に登城してきた際に殺害された。理由ない誅殺に家臣達は反発して観音寺騒動が起きた。これによって六角氏は弱体化する。
主君以上に力を持ちかねない家臣を排除することは戦国大名が絶対権力を持つための選択肢になる。毛利元就も重臣の井上元兼を誅殺した。しかし、誅殺の大義名分や主君と家臣の力関係によっては逆効果になることもある。賢豊の誅殺は六角家中の納得が得られるものではなかった。
義賢・義治親子は観音寺城を追い出され、重臣の蒲生定秀・賢秀親子の日野城に身を寄せた。定秀の仲裁によって義賢・義治親子は六角氏式目に同意することで観音寺城に復帰した。
大徳寺は観音寺騒動後に六角氏に見舞いを送った。大徳寺は義賢が上洛していた際に警護をした関係がある。義治は大徳寺への対応を家臣の須田七朗左衛門に任せた。須田七朗左衛門は神崎郡林田を本拠とした武士である。
六角氏式目は戦国大名の分国法であるが、戦国大名が勝手なことをしないために定められたものであり、マグナ・カルタに相当する。六角氏式目が定められたことは近江の国人衆の権利意識・自治意識の高さを示すものである。
六角氏式目は六角氏を制限するものであるが、六角氏を否定するものではなく、南近江の自治のために六角氏を神輿として支えるという面もあった。この国人の自治は織田信長の制圧によって消滅した。以後は近江国人の先進性は自治という方向では伸びず、信長や羽柴秀吉に仕える家臣として才覚を発揮する形になる。建部寿徳もその一人である。