楽市楽座
楽市楽座は既得権益を破壊する。楽は規制のない自由な状態であることを意味する。楽市楽座は統制経済が主流の日本では珍しい自由主義的な政策である。楽市楽座は戦国大名の領国経営として論じられがちであるが、公家や寺社に隷属して座を営んでいた商工業者の自立志向の高まりも背景にある。
楽市は戦国大名の発明品ではなく、伊勢桑名の十楽之津のように元々規制から解放された自由市場が存在していた。これを戦国大名が自己の城下町に取り入れることで城下町を繁栄させた。
楽市楽座と言えば織田信長が有名であるが、信長の専売特許ではない。もともと織田弾正忠家は牛頭天王社(津島神社)の門前町として繁栄していた津島を支配することで尾張国守護代の家老という立場以上の経済力を得た。そこでは津島の商人の座を保護する立場であった。自由主義ではなく、保護主義である。
その後、駿河の今川氏真が永禄九年(一五六六年)に富士大宮楽市令を出した。信長の楽市楽座は、この後である。信長の楽市楽座は美濃のような新規占領地が中心であり、従来の既得権益を壊すものではなかった。信長は新規占領地でも既存の座を保護することもあった。また、楽市楽座自体が寺社と結びついた座の既得権を壊す一方で、戦国大名と結びついた特権商人に仕切らせるという新たな規制強化の側面があった。
六角氏は近江国守護であったが、北近江は近江源氏佐々木氏支流の京極氏の勢力圏であった。京極氏は足利尊氏の盟友の佐々木道誉(京極高氏)の活躍で六角氏以上に繁栄した。しかし、戦国時代になると京極氏は衰退し、家臣の浅井氏の傀儡化する。浅井氏が北近江の戦国大名になった。
六角義賢は浅井久政を破り、浅井氏を従属化に置いた。久政の嫡男に偏諱を与えて賢政と名乗らせた。しかし、浅井賢政は六角氏への従属に不満を抱いており、反旗を翻し、野良田の戦いが勃発した。
賢政は六角家の国人領主に調略をしかけ、永禄三年(一五六〇年)に愛知郡肥田城主・高野備前守が浅井家に寝返った。高野備前守の寝返りに激怒した義賢は肥田城を攻撃する。長政は救援に向かい、浅井家と六角家は八月に野良田の戦いで激突する。浅井軍一万に対して六角軍二万と六角勢が有利であったが、長政の巧みな指揮による斬りこみなどで長政が勝利した。野良田の戦いに勝利した賢政は長政と改名し、六角氏への従属を否定した。
浅井氏が従属から脱したことで、六角氏は浅井氏という仮想敵国を抱えることになる。そこで六角義治は美濃斎藤氏との同盟を模索する。しかし、父の義賢は同盟に反対であった。美濃斎藤氏は下剋上で守護の土岐氏を追い出した戦国大名であり、六角氏の名門意識が障害になった。義治には父を隠居させるだけの影響力がなく、家臣にも反対された。