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林田藩  作者: 林田力
建部秀清
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建部秀清

江戸時代に林田藩主になる建部氏は近江佐々木氏の庶流であり、近江源氏佐々木氏嫡流の六角氏に代々仕えていた。近江国神崎郡建部荘(滋賀県八日市市)を本拠としていた。林田藩祖の建部政長の三代前の建部秀清は六角定頼の家臣であった。秀清は建部郷に領地を保持し続けており、家族も建部郷に暮らしていた。


秀清には長男の秀直が天文四年(一五三五年)、次男の寿徳が天文六年(一五三七年)に生まれた。ともに建部郷で生まれ育った。

正月に秀直は秀清に一礼し、ゆっくりと口を開いた。

「父上。まず、今年も無事に新年を迎えられることをお喜び申し上げます」

すると秀清は大きくうなずいた。続いて家臣達が一斉に祝辞を述べた。

「わしには二人の孫がいるぞ」

父の言葉に秀清は目を大きく見開いた。そして顔を綻ばせる。孫の話をする祖父の顔を見て嬉しくなったのだ。祖父と孫の関係はいつの時代においても変わることはない。白髪で髭を伸ばしており、眉毛の辺りは白くなっており、肌の色は青ざめているものの顔つきや背筋はまっすぐ伸びて凛とした印象を与える。


定頼は天文二一年(一五五二年)に死去し、六角義賢が家督を継承した。義賢は永禄二年(一五五九年)に隠居し、嫡男の六角義治が家督を継承したが、実権は義賢が握っていた。


六角氏は南近江を地盤とした鎌倉時代からの近江国守護である。戦国時代には隣国の伊賀国にも勢力を伸ばしていた。六角氏は守護大名が戦国大名化した先駆者である。定頼は家臣団を本拠の観音寺城に集住させたり、城下町に楽市令を出したりと戦国大名の政策を先取りしていた。


定頼は六角高頼の次男として誕生した。家督は長男の氏綱が継ぎ、定頼は相国寺鹿苑院で出家した。しかし、氏綱が戦傷で亡くなると還俗して家督を相続し、室町幕府第一〇代将軍・足利義稙の近侍として仕えた。

定頼は木刀を指して義稙に拝謁した。

「それはどうしたのだ?」

義稙が木刀について尋ねた。

「私は元々出家ですから、刀を持っていません」

義稙は笑って、定頼に国行の刀を与えた。


定頼は大永三年(一五二三年)に家臣団を観音寺城に集住させる城割を命じた。これは大名が家臣団に集住を命じた最初の記録である。観音寺城は石垣の城で中世の城郭としては珍しい。但し、観音寺城は多数の支城のネットワークで防衛する城であり、一国一城の観点では不完全であった。


定頼は足利義晴を第一二代将軍に擁立することに貢献し、足利将軍家の後盾となった。足利義晴から天文一五年(一五四六年)に管領代に任命され、事実上の天下人として畿内に君臨した。上洛時には将軍専用の赤い毛氈の鞍覆いを乗馬にかけことを許されていた。将軍を奉じて天下に号令した点で織田信長の先駆者的な存在である。今川義元や武田信玄ら戦国大名は上洛して天下に号令する夢を持ったが、そのような夢を与えた人物ともいえる。


定頼は天文一八年(一五四九年)に観音寺城の城下町の石寺に楽市令を出した。これは記録に残る日本で最初の楽市である。これにより、観音寺城下を一大商業都市に成長させた。後に織田信長は観音寺城の近くに安土城を築いて本拠とする。これは観音寺城下町の発展という過去の資産があってのものである。


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