幸福論
「実はさ、今日菜乃花を誘ったのは、思い出を作って欲しかったからなんだ。何か一つでもいいから、幸せな思い出を……って、僕なんかと祭りに行ったのが幸せな思い出になるのかって話なんだけどさ……。でも、菜乃花には、幸せになって欲しいから……」
抱き合ったまま、そんなことを話す。菜乃花は僕の肩に回していた腕を下ろしたので、僕も菜乃花を抱きしめていた腕を下ろす。
「幸せの在り方なんて人それぞれだよ」
僕の目を見つめて、菜乃花は話し始める。
「食事をしている時が幸せな人、スポーツをしている時が幸せな人、寝ているのが幸せな人。何が幸せかなんて人それぞれで、一概にこれが幸せなんてものは絶対ないと思う。だから私はさ、もう充分幸せだよ」
そんなことを言った菜乃花は、続きの言葉を話さずに、
「じゃあ」
一言そう言うと、家の方向に歩いて行ってしまった。「待って」と出そうとした言葉が口から出ない。
もしかしたらこれが、菜乃花に会える最後の日かもしれないのに……。でも僕は、菜乃花の歩みを止めることが出来ずにいた。
何故、彼女はもう充分幸せなのか。彼女の幸せとは一体なんなのか。まだ聞きたいこと、話したいことがたくさんあるのに、僕は声をかけられない。
僕は、菜乃花の姿が見えなくなるまでその背中を見届けた。もう、二度と見えないかもしれないその後ろ姿を、しっかりと目に焼き付けるように……。




