きっかけ
風呂に入り、一通り体を洗ってから風呂場を後にする。
緊張をほぐすために入った風呂だが、ほぐれたかと言われたらほぐれてない。
どうしてこんなことに緊張しているのか……。
ただ親と話すだけだぞ?
何にも難しいことなんてない。
みんな、普通の人間なら出来て当たり前。
いや、普通とかそういう問題ではない。
むしろ出来なければおかしい。
出来ないということはつまり、人として一番大切であろうコミュニケーション能力が著しく欠如しているということだ。
これは、人にとって割と致命的に欠けてはいけないもので、勉学なんかよりも優先して養わなければいけない能力だ……。
その能力が、僕にはほとんどない。
物心ついた時からずっと、人と喋るのが苦手だった。
理由は……わからない。
生きていく過程で自我というものが形成されていくはずなのだが、僕は最初っから人見知りだった。
それが治ることもなかったし、治そうとする努力もしなかった。
ペタペタと木で作られた床を歩きながら、これからどうやって父親と話そうかと考える。
そもそも菜乃花に言われたから話すというのはどうなんだ?
別に自分の意思で父親と話したいわけではない。
もう話さなくてもいいんじゃないか?
そう考え始めると、またどんどんと悪い方向へと思考が進んでいく。
そんな時に、ガンッと頭を壁にぶつけて正気に戻る。
だめだ。
せっかく菜乃花が前に進むきっかけをくれたんだ。
今まで避けてきたことから、目を背けてきたことから、ようやく一歩向き合おうと思えたのだ。
だったら逃げてはだめだ……。
ここで逃げたら、今まで話を聞いてくれた彼女に申し訳が立たない。
だから、逃げるわけには行かない。
僕は三階にある父親の部屋の前に行くと、一つ、大きな深呼吸をする。
そして意を決して、トントンとドアを叩く。
叩いてから数秒、中から、
「入れ」
低い声が聞こえてくる。
言われるがままに、ガチャっとドアノブを開ける。
部屋の大きさは自分の部屋と同じぐらいの大きさ、中にはたくさんの書籍が入った本棚。
そして、入ってすぐ右においてある机と椅子の前に、父親が座っていた。
入ってから数秒の沈黙。
それからすぐに、何か用かと言いたげな父親の表情を読み取る。
別に用なんてない。
かと言って、特別話したいこともない。
でも、何か言わなくては。
そう思い、咄嗟に、
「写真家になりたいんだ……」
そんな言葉が、口から飛び出てしまった。




