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たとえその身が

【コミカライズ】たとえその身が蛞蝓になろうとも

作者: 木崎優




「大丈夫か?」


 聞き慣れた声に意識が戻る。うっすらと目を開けると、心配そうに覗きこむアレクシス様の顔がそこにあった。

 この国の公爵家の一人息子で、私の婚約者だった――愛しい人。




 私がアレクシス様と出会ったのは十五のとき。

 当時私の生家であるシャルベール家はちょっと強引な手を使ってどしどしとのし上がっている最中だった。これはまずいと危ぶんだ王家は、下手に突いて蛇を出すよりも穏便に取りこむ道を選んだ。

 そして私、ミレイユ・シャルベールと王家の縁戚である公爵家のアレクシス様との婚約が結ばれることになった。


 公爵夫人なんて無理無理無理とわめく私を、お兄様は「黙ってれば深窓の令嬢に見えるから大丈夫大丈夫」と太鼓判を押しながらアレクシス様の前に引っ張り出した。


 そして一目見た瞬間に恋に落ちた。


 私の周りにはろくな男がいなかった。「お前は馬鹿だなぁ」と馬鹿にしてくるお兄様か、「お嬢様は少し落ち着かれたほうが」と苦言を漏らす使用人、「次はあそこの弱みを握るか」とほくそ笑むお父様。

 そんな男性に囲まれていたから、男らしく落ち着いた雰囲気のあるアレクシス様に一瞬で惹かれた。この人のためなら公爵夫人だって怖くないとすら、その瞬間に思った。


 一瞬で恋に落ち、未来を描き終えた私がもじもじとしているうちに、アレクシス様との最初の顔合わせが終わった。


 だけど私は、これまで恋の一つもろくにしてこなかった。恋した相手とどう接すればいいのかわからず、それからずっとツンツンとした態度ばかりを取り続けた。


 アレクシス様が少しでも失敗したら「このぐらいできなくてどうしますの」と言い、私が失敗したら「女性の失敗をあげつらうおつもりですの」とのたまった。


 失敗してへこんでいるアレクシスさまも素敵とか、アレクシス様の前で失敗するなんて恥ずかしいとか、心の中で思ったところで相手に伝わるわけがない。

 自分のことを棚に上げて、としか思えない。


 だけど恋する乙女になった私の頭の中はお花でいっぱいだった。


 政略で結ばれただけの婚約ということに気づいて危機感を抱いたのは、十六のときだった。


 第三王女のメロディ様がアレクシス様に近づいた。伯爵家の私が婚約相手に納まることができるのなら自分だって、とそう思ったのかもしれない。本人に聞いたわけではないので、実際どうだったのかはわからない。


 だけどメロディ様はぐいぐいとアレクシス様に接近した。舞踏会ではアレクシス様に一曲お付き合いくださらない? と誘惑し、夜会では少し酔ってしまったみたいと頬を染めた。


「飲酒は十八からではなくて?」

「人に酔ってしまいましたの」


 私とメロディ様の数少ないやり取りの一つがこれだ。


 やだやだアレクシス様が取られるなんてやだやだと駄々っ子のごとく地団駄を踏んだ私は、ちょっと、ちょーっとメロディ様に嫌がらせをした。

 メロディ様とアレクシス様が話していたら割り込んで、メロディ様の弱みはないかと探った。


 だけどただの令嬢である私にそんな後ろ暗いことができる知り合いがいるわけがない。ならばどうしたのかというと、町の酒場で金をばらまいた。


「メロディ様の弱みを持ってきた人には金一封を差し上げるわ」


 とまで言い放った。


 そんな大盤振る舞いをしてばれないわけがない。次の日には大問題になっていた。

 しかも普段からそういったところに出入りしているのではという噂まで立っていた。仕事が早い。


「弁解があるなら聞こう」


 そう言って私を見下ろすアレクシス様を前に私はなにも言えなかった。


 怒った顔も素敵と胸を高鳴らせている場合じゃないと気づいたときには、完全に手遅れになっていた。

 トントン拍子に婚約がなくなって、お父様の強引なところが明るみに出た。


 あくどいことをしようとする娘がいるのなら、生家もあくどいのでは、と思われたせいだ。そうでなくても娘が王女様に喧嘩を売ったのだから、捨て置かれるはずがない。

 蛇が出たらいやだから取りこむ道を選んだ王家だったが、これを機と見て我が家を調べ上げた。私の失態を足掛かりにした捜査は内部告発などもあり、順調に進んだ。


 結果、お家取り潰しとなった。


「お前は本当に馬鹿だよ」


 とお兄様。


「やるならもっと上手にやれ」


 とお父様。


「あらあら、困ったわ」


 とお母様。


 さすがの私も自分が馬鹿だと認めざるをえなかった。

 大好きなアレクシス様との婚約がなくなり、絶望の淵に立った私はついうっかり目の前にあった崖に飛び込んだ。



 そして気づいたら目の前にアレクシス様がいた。

 しかも大丈夫かだなんて心配して、跪いて私を抱えている。なにこれ素敵。


「アレクシス様? どうして……」

「突然倒れたが、どこか悪いのか?」


 崖をひょいと降りたはずなのに、どうしてアレクシス様がいるのだろう。これはまさか、今際の際に見ている幻なのでは。

 神様ありがとう。


 腕を伸ばして抱きしめると、アレクシス様はぴくりと震え、体をこわばらせた。

 幻なのだから抱きしめ返してくれてもいいのにと不満に思いつつ、今はせめてアレクシス様の感触を堪能しようと、胸に顔をぐりぐりと押しつける。


「ミレイユ……? どこか打ったのか?」


 うろたえているアレクシス様も素敵。その顔をよく見ようと、名残惜しいけど胸に擦りつくのをやめて、大好きなアレクシス様を見上げる。


「アレクシス様」


 もう二度と呼ばれないと思っていた。もう二度とお会いできないと思っていた。幻ならばどうかこのまま覚めないで。

 だけど今際の際で見ている幻なら、後少しで目覚めてしまう。地面に衝突して、幻は終わってしまう。


 アレクシス様の瞳が居心地悪そうにさまよっているのをうっとりと眺めていたら、白く滑らかな喉がごくりと動いた。


「ミレイユ」


 低い声が耳を撫でる。怒ったときの冷たい声も悪くなかったけど、穏やかに私の名前を呼ぶ声も心地良い。

 

 アレクシス様がとても近い。触り放題だ。頬か、まつ毛か、髪か、瞼か、唇か、喉か、どこを触ろう。すべて触りつくすほどの時間が残されていると嬉しいけど、多分無理だと思う。

 ならば少しでも触る面積が多いように、頬を手の平でがっつりと覆う。滑らかな感触にこのままぐにぐにと思う存分撫でまわしたくなる。


「お嬢様」

「へぎゅっ」


 よーし、撫でまわそう、と手を動かそうとした瞬間、私の体が地面と激突した。崖下ではなく、アレクシス様の足元に。


「なにしてるんですか」


 呆れた顔で私を見下ろしたのは「落ち着かれたほうが」と苦言を漏らした使用人だった。


「あ、す、すまない!」


 そして遅れて、アレクシス様が慌てて私を立たせてくれた。さっきみたいに抱き上げてはくれなかった。腕を引いて、普通に立たせて、使用人がスカートについた土を払った。


「突然倒れて、どこか打っているかもしれないから、医者に診せたほうがいいかもしれん」

「医者ですか」


 どこか気の抜けた台詞のあと、使用人がちらりと私を見た。


「つける薬があるといいんですけど」


 どういう意味だ。


「シリル。アレクシス様に不遜な態度をとるのなら下がってなさい」

「お嬢様の態度のほうがいかがなものかと思いますけど……ああ、はいはい。黙ってますよ。はいはい」


 降参とばかりに両手を上げて後ずさる使用人――シリルを横目に、踏みしめた大地の感触を確認する。幻にしては、ずいぶんとしっかりした地面だ。

 それに幻ならシリルはいらないので、すぐ消えてほしい。


 だけど何度確認しても消える気配がない。


「アレクシス様、うちの使用人が失礼いたしました」

「ああ、いや、気にしなくていい。それよりも大丈夫なのか?」

「シリルの態度はあまり大丈夫ではないかもしれませんけど、あれでも長く勤めているので私の一存では解雇できず――」

「いや、そうではなく、君の体調が、だ」


 私の体調?

 死ぬはずだった身で体調を気にしたところで無意味だと思うのだけど、アレクシス様に言われたことだから、袖をまくって腕を見て、首を捻って背中を見て、スカートを少し上げて足を見て、外傷一つないことを確認する。


「大丈夫です」


 真剣に頷いたのに、アレクシス様は明後日の方向を見ていた。憂いを帯びた横顔も素敵だったのに、シリルが可哀相なものを見る目で私を見ていたのも視界に入って、気分が急落した。




 次の日になっても私は死んでいなかった。普通に寝て、普通に起きて、普通にご飯を食べている。

 これは、もしや、もしかしなくても――


「私、未来視の能力に目覚めたわ!」


 異能と呼ばれるものを持つ人たちがいることは噂で知っていた。触れていないものを動かしたり、はるか遠くの出来事を見たり、知りえない情報を知っている人たち。

 現物を確認したことはないけど、私の今の状況からすると異能に目覚めたと考えるのが妥当だ。


「はあ、そうですか。それはよかったですね。それで今日はどんな夢を見たんですか?」


 とぽとぽとお茶を注ぐシリルの目が、ものすごくどうでもいいと語っていた。


「なによ、信じてないの? 未来視よ、異能よ、崇めなさい」

「はいはい、お嬢様はすごいですねー」


 カップを机に置いて、おざなりに賞賛の言葉を口にする。我が家の男性陣は私に対する敬意が足りていない。


「いいわよもう。なにを見たか教えてあげないんだから。後になって教えてくださいって泣きついてきても知らないわよ」

「お嬢様は異能に目覚めるぐらいすごいんですよね。知ってます知ってます。だからほら、拗ねないで話したいなら話してください」

「ふふん、そんなに知りたいなら教えてあげてもいいわよ」

「はいはい、そうですね。知りたいのでどうぞ、好き勝手に話してください」


 まったく、誰に似たのか知らないけどシリルは素直じゃないんだから。


「私が死ぬところよ!」


 えっへんと胸を張ったら、シリルの手からポットが滑り落ちた。危うく床と接触しそうになったところを、俊敏な動きで落とした張本人が拾う。身体能力がすごい。


「はあ、死ぬところ、ですか。それで、それは自信満々に言うことなんですか?」

「だって自分の死ぬところなんて早々見れるものじゃないでしょ?」

「いや、まあ、そうなんですけど。お嬢様の思考回路は俺の百年ぐらい先を行っているみたいで、たまについていけなくなります」

「褒めてもなにも出せないわよ。昨日もらったクッキーでもいる?」

「くれるならもらいますけど……」


 棚に置いてあるクッキーの入った箱を出して、お皿に並べる。こんがりと焼けたクッキーは口に入れるとほろりと砕けて、ほのかな甘みが広がった。


「それで、どうして未来視だと? 悪い夢でも見ただけなんじゃないですか?」

「夢とは思えないぐらい鮮明だったもの。しかも一年ぐらいに渡る夢なんて見たことないわ。それにアレクシス様に抱きしめられているのに悪い夢なんて見るはずないじゃない」

「抱きしめ?」

「そうよ。心配そうに私を見るアレクシス様の瞳……ああ、いつ思い出しても胸が高鳴るわ」


 昨日からかれこれ百回は思い出している。怒ったアレクシス様に、心配するアレクシス様に、うろたえているアレクシス様に、憂いを帯びたアレクシス様。どれも素敵で、一度に全部思い出せないのが悔しいぐらい。

 いっそ私の頭が十個ぐらいに増えればいいのに。


「それで、どうして死ぬことに?」

「崖に飛びこんだからよ」

「……どうしてまた、そんなことに」


 シリルの目が段々可哀相なものを見る目になってきた。


「別に考えなしで飛びこんだわけじゃないわ。私だって崖に飛びこんだらどうなるかぐらいわかってるもの。子どもの頃とは違うんだから」

「そういえば、昔は空を飛ぶとか言って、木から飛び降りようとしてましたね」

「あのときはほら、風が強かったから飛べると思ったのよ」


 足りなかったのは風を受け止める布だ。大きな布があればきっと飛べる。


「それで、考えなしじゃないお嬢様はどうして崖に飛びこもうと思ったんですか?」

「アレクシス様との婚約がなくなって……ああ! そういえば、シリル? あなた我が家に不満でもあるの? 休みが足りないの?」

「は? 突然どうしたんですか」

「シリルは休みなんてろくにとっていなかったから、思いつめちゃったのね。今からお父様にシリルの休暇申請をしてくるわ!」

「ちょっと、お嬢様? お嬢様!?」


 王家に内部告発した犯人はシリルだった。

 幼いころから家に仕えてくれていたシリルが我が家を売った。売らないといけないほど困窮していたのかもしれないし、労働環境に嫌気が差していたのかもしれない。

 いつもいるなーとかのんきに考えている場合じゃなかった。シリルに必要なのは休みだ。


「お父様!」


 今日も書類片手に不敵な笑みを浮かべているお父様に詰め寄る。


「どうした?」

「シリルにお休みをあげてください。いっそ私から外して、もっと楽に稼げる場所に異動させてあげてください」

「楽に稼げる職はない」

「そこをなんとか! お父様なら作れるでしょ! 猫の毛づくろい係とか、適当に作ってよ」

「猫は飼っていないはずだが……またどこからか拾ってきたのか。捨ててきなさい」

「お嬢様、だから捨て猫捨て犬捨て人捨て兎捨て馬捨て豚捨て牛は拾ってくるなと……」

「拾ってないわよ!」


 追いついたシリルとお父様の二人に挟まれて、必死に冤罪だと訴える。この間拾ってきてからはまだ拾っていない。

 それにこの前拾った捨て馬は、ちゃんと里親を見つけた。


「それにお嬢様、俺はお嬢様の毛をつくろうので手一杯なので、猫の毛まで面倒みれません」

「だから、私から離れて猫の面倒をみろって言ってるんじゃない。楽に稼げるし休みも取れていいことづくめでしょ」

「そもそも猫はいないと……まあいい。婚約してからは落ち着いたと思っていたが、半年ともたなかったか」


 お父様は机に書類を無造作に放って、胡乱な目を私に向けてきた。


「それで、シリルに休みをと言うが……どうしてそうなった」

「それは……」


 お父様はちょっと強引な人だ。ここでシリルが将来家を売りますとか言ったら、シリルに明日はやって来ないかもしれない。

 ここはしっかりと考えて、シリルの首が繋がる道を選ばないと。


「ほら、シリルってこれまで休みなしで働いているような気がするから、ここらでちょっと気分転換に休みでもと思っただけよ」

「……週に一度、休みを設けている」

「そうなの? でも、いつもいるわよ」

「目を離すとなにをしでかすかわからない者に仕えているせいだろうな」

「お父様、またなにかいけないことしたの?」


 お父様の肩ががっくりと落ちた。シリルがとても冷ややかな目で私を見ている。


「……まさか、私とか言わないわよね」

「お嬢様以外の誰がいるんですか」

「お兄様とか。昨日も朝帰りだったのよ」

「あの方は自分で処理されているので、お嬢様ほど問題を起こしていませんよ」


 朝帰り当たり前なお兄様よりも問題児と思われているなんて、心外だ。私の場合は屋敷内で済むようにしているし、捨て動物も月に一度しか拾ってこないし、ちゃんと里親も見つけている。


「私だって自分でできるわよ。シリルの世話はいらないわ」

「はいはい。それでは旦那様、お騒がせしました」


 話は終わっていないのに、ずりずりと引きずられて自室にまで戻された。


「ねえ、シリルは私が心配だから休まないの?」

「そうですね。お嬢様が落ち着かれたら思う存分休みますよ」

「じゃあこれからは、シリルが安心して休めるように大人しくするわ」

「まず大人しくされてから言ってください。お嬢様の言葉を鵜呑みにするほど俺は馬鹿ではありませんから」

「本当にするもの。半年間大人しくしてみせるから、その後は思う存分休みをとりなさい。命令よ」

「できたら従ってあげますよ」


 よし、言質は取った。


 私はこれから起こることを知っている。半年の間問題になりそうなところに近づかなければ、シリルは休みをとって、家を売らなくなる。

 完璧な作戦だ。




「アレクシス様!」


 そしてあれから一週間。今日は念願のアレクシス様に会う日だ。今日のアレクシス様も太陽の光を受けて輝いている。

 妖精の粉が舞っているかのようなきらきらとした姿に、見惚れてしまう。


「ミレイユ、先週は大丈夫だったか?」


 心配して少しだけ眉を下げているところも素敵だ。珍しいアレクシス様の姿に胸がいっぱいになる。


 いつもの私なら、照れ隠しで「私の心配をなさるよりも、ご自分の心配をされたほうがいいのでは?」とツンケンとした態度を取っているところだ。

 恥ずかしさのあまり適当に話しているだけなので、アレクシス様がなにを心配しないといけないのかは知らない。


「え、ええ、大丈夫です。ご心配くださりありがとうございます」


 そういえば医者に診てもらっていない。でもぴんぴんしているので、きっと大丈夫。

 アレクシス様が鋭い目を大きく見開いているのを見て、私の目がそのご尊顔を記憶しようと見開かれる。互いに目を見開いて見つめ合う空間に、シリルがこほんと咳払いを介入させた。


「……そうか。問題ないのならよかった」


 先に目を細めたのはアレクシス様だった。これはもしや、微笑んでいるのだろうか。少しだけ上がった口角と、細まった目。間違いない、笑っている。アレクシス様が笑っている。ああ、なんて素敵なのだろう。


「アレクシス様もいつも通り素敵な、ではなく、ご壮健そうでなによりです」


 そしてアレクシス様と穏やかな時間を過ごした。最近どこそこでなにがあったとか、どこの誰がなにをしたとか、朗々と語るアレクシス様で私の記憶容量がいっぱいになっていく。

 可愛げのない態度を取っていては、アレクシス様をメロディ様に取られてしまう。そうならないためにも、しっかりと考えて喋って、いつまでも隣にいられるように頑張らないと。


「アレクシス様と一緒にいると時間を忘れそうです」

「ああ、そういえばもうこんな時間だったか。長居させてしまったな」


 しまった。完全に墓穴を掘った。私としてはまだあと一時間、いや三時間ぐらいはアレクシス様を見ていたい。

 アレクシス様を頭の中で再生し続けるには、時間がいくらあっても足りない。


「もう少し、お話していただけませんか?」


 たまに思い出し笑いをしたり、苦い顔をしたりと、話しているアレクシス様はとても表情豊かになる。


「お嬢様、アレクシス様にもご都合というものがあるんですよ」


 これは落ち着いていない判定を食らったか。ちらりとシリルの様子をうかがうが、怒ったり呆れたりしている感じではなかった。


「……我儘を言ってしまい、申し訳ございません」


 ここで引き下がればギリギリセーフにしてくれるはず。シリルはなんだかんだ言って私に甘い。捨て兎の里親探しも、呆れながら一緒に探してくれた。


「いや、私は構わない。だがあまり遅くなっては、ミレイユの父上が心配されるだろう?」

「お父様は、どうでしょう」


 今頃は書類片手に不敵な笑みを浮かべていそうだ。不敵な笑みが標準装備と化しているので、不敵な笑みを浮かべていないお父様が思い出せない。


「……気になさらないと思います」

「そうか。ならばあと少しだけ、こうして過ごすとしよう」


 三十分だけだったけど、アレクシス様を眺める時間を手に入れた。




 そうして、約束の半年が過ぎた。


「さあ、シリル! 約束通り休んでもらうわよ!」

「……まさか本当にやりとげるとは。なにか悪いものでも食べたんですか? あれほど拾い食いはするなと言ったのに……」

「食べてないわよ! シリルに休んでもらおうと頑張っただけじゃない。ほら休んで、思う存分休んで、一ヶ月ぐらい休んでもいいのよ」

「俺が不在の間になにをするつもりですか。まさかどこかの家を火だるまにするつもりじゃ……」

「しないわよ! あなたの中で私はどうなってるの!?」

「……十歳のときに別荘で火事を起こしたのを忘れましたか?」

「あれは事故よ」


 あれは別荘に泊まりに行っていたときのことだった。その日私は、夜中に肝試しがしたくなって、燭台片手に廊下を歩いていた。

 そして閉め忘れた窓から風が吹き込み、動くカーテンに驚いた私は――悲しい事故だった。


「どこも燃やさないでくださいよ? 雷に打たれないでくださいよ? 捨て動物を拾ってこないでくださいよ? お菓子も食べすぎないようにして、朝もちゃんと起きて、夜更かしもしないようにしてくださいね。それから、木登りも駄目ですし、馬車の前に飛び出すのも禁止ですからね」

「馬車に轢かれそうな動物がいたらどうすればいいの?」

「それであなたが轢かれてどうするんですか」

「無傷だったからいいじゃない」

「お嬢様に強靭な肉体を授けた神を恨みたい」


 大げさに打ちひしがれているシリルを見て、私は瞬いた。


「シリルは私のことが嫌いなの?」

「なんでそうなるんですか」

「だって、怪我をすればいいって思ったってことよね?」

「なんでそうなるんですか」

「違うの?」

「違います」


 なんだ、違うのか。ならよし、問題はなにもない。


 大荷物をぶら下げて屋敷を出るシリルを、大きく手を振って見送る。お父様に頼んで一ヶ月の休みが与えられたはずだけど、そういえばどこで過ごすのか聞いていない。

 戻って来たときの土産話として楽しみにしておこう。




 アレクシス様と婚約してから一年が経った。十六になった私の前にメロディ様が現れるまで後少し。

 弱みを握るのは、伝手がなにもないので諦めた。お父様にお願いしたらなにかわかるかもしれないけれど、未来視について話さないといけなくなる。

 そうすると、シリルが家を売る話もしないといけなくなる。内部告発がなかったら、それなりの処罰はあってもお家取り潰しまではいかなかったと思うから。

 シリルの首を守りつつ、アレクシス様を取られないように頑張ろう。




「一曲踊ってくださる?」


 すらりとした手がアレクシス様の前に差し出される。

 公爵家主催の舞踏会で、仇敵メロディ様が現れた。鮮やかな赤いドレスを身に纏ったメロディ様は絢爛豪華な美女だ。同い年とは思えないぐらい、出るところが出ている。


 未来視で見た私は「アレクシス様を誘ってくださるような奇特な方がいてよかったじゃない」と言って、高笑いと共にこの場を去った。

 だって他の方の手を取るアレクシス様を見たくなかった。だけど他の人と踊っちゃいや、と我儘を言えるほど素直でもなかった。


「アレクシス様……」


 アレクシス様の服をちょっと摘んで、なにを言えばいいのか考える。お兄様からは黙っていれば大丈夫と言われていたけど、黙ってここに突っ立っていればいいのだろうか。


 お兄様は今は未亡人と踊っているから、助けにならない。


「あら、そちらの方は?」


 ちらりとメロディ様が私を見る。さも今気づきましたみたいな仕草に、出そうになった言葉を堪える。


「ああ、初めて会うのか。メロディ殿下、彼女は私の婚約者のミレイユ・シャルベールです。ミレイユ、知っているとは思うが、彼女は第三王女のメロディ殿下で、私の従妹でもある」

「シャルベールというと、あの伯爵家かしら。そういえばアレクシスの婚約者になったと聞いたけれど、本当だったのね」


 あの、というのが心当たりがありすぎてどれを指しているのかわからない。お兄様の特殊性癖か、お父様のあくどさか、傲岸不遜な使用人か――うちの男性陣はろくでもない。


「お初にお目にかかります。お会いできて嬉しいです」


 ドレスの裾を摘んで腰を落とす。メロディ様は嫌いだけど、王家に表立って楯突いてはいけないと未来視で学んだ。


「それで、ミレイユといったかしら。アレクシスをお借りしてもよろしくて?」

「……ええ、どうぞ、お貸しします」


 アレクシス様は私のものだという主張をしつつ、アレクシス様をメロディ様に差し出す。

 他の人を見下ろすアレクシス様も素敵だけど、メロディ様相手ではときめけない。私はそっとその場を離れて、バルコニーに向かった。


 満天の星空が夜空に浮かび、瞬いている。


 今頃はアレクシス様はメロディ様の腰に手を回して優雅に踊っているのだろう。

 ちょっと見たくなる。私と踊っているときは正面にいるアレクシス様しか見れないけど、他の人と踊っているときは、横から、後ろから、好きな角度でアレクシス様を鑑賞できる。


 だけど相手がメロディ様ということが、私の足を止めてしまう。


「そうだ、雨乞いをしよう」


 子どもの頃に雨乞いの仕方を知ってから、気分が落ちこんだときには雨乞いをしていた。火を前にして踊っていると、色々なことがどうでもよくなる。

 最終的には雨よ降れ、で頭がいっぱいになるから、気分転換には丁度よい。


 ここでは火が焚けないけど、踊ることはできる。手を天にかざし、天の神に奇跡を求め、空に雨雲がたちこめるのを願う。



「……ミレイユ?」


 熱中して踊っていた私の耳に、低く心地良い声が飛びこんできた。


「アレクシス様!」


 慌てて手を降ろして、乱れた髪を手櫛で直す。困惑したアレクシス様に見惚れながら、なにもしていませんでしたよという風を装うと、アレクシス様も色々察してくれたのかなにも言わなかった。


「メロディ様は?」

「一曲踊ったから、君を探しにきたんだが……」


 あ、違う。これはなにも言わないのではなく、なにを言えばいいのかわからない顔だ。


「……はしたないところをお見せしました」

「いや、その、中々奇抜で、楽しそうに踊っていたから、少し驚いただけで……」


 しどろもどろになるアレクシス様も素敵だった。

 未来を見てからというもの、色々なアレクシス様を見れて私は幸せだ。


「私を探しにきてくれましたの?」


 だけど雨乞いに関してはちょっと横に置いておいてほしい。私は恥ずかしすぎるとツンツンした態度を取ってしまう。アレクシス様の動揺を無視して、会話を軌道修正させた。


「……ああ、少し落ち込んでいたようだったから」

「アレクシス様……」


 困ったように笑って、私の手を取るアレクシス様を、私はぼうっと眺め――大粒の雨が体を叩いた。


 雨乞いってすごい。




 突然の土砂降りにアレクシス様が慌てて私を室内に入れたが、手遅れだった。ドレスはずぶ濡れで、私もずぶ濡れだ。

 アレクシス様は急いで私を広間から連れ出して、使用人に私を受け渡した。アレクシス様の判断の速さがすごい。この間私は一言も発していない。


 湯舟を借りて、濡れた体を温める。侍女が私の髪を洗ってくれたり拭いてくれたりを、されるがままに受け入れた。

 ドレスは濡れてしまったから替えの服を、と用意されたのは侍女服だった。


 恐縮しきりの侍女曰く、私に合う服がそれしかなかったらしい。アレクシス様のお母様――公爵夫人の服はちょっと合わないかな、というのを物凄く言葉を濁して言われた。

 平均体型の私とは違って、公爵夫人は出るところ出て引っ込むとこ引っ込む、魅惑的な肉体の持ち主だ。


 侍女用の服は機能的にできているから、動きやすい。私は服を用意してくれた侍女にお礼を言って、アレクシス様の部屋でアレクシス様を待つことになった。


「ミレイユ、その服は……?」

「これしかなかったそうで……私はこういう服も好きですから、責めないであげてくださいね」


 アレクシス様が一瞬で私を上から下まで眺めると、ああ、と納得したような声を出した。公爵夫人の肉体が素晴らしすぎるだけで、私は平均的だ。


「……舞踏会は中止となった」

「まあ、どうして?」

「今は降っていないが、また降りはじめる前に帰ったほうがいいということになってな」

「そうですか……残念ですね」

「いや、それはいいんだが……その、君の兄上についてなんだが」

「……なにかしましたか?」


 未亡人と踊っていたお兄様の姿を思い出す。たしかお相手は昨年旦那さまを亡くした方だった。

 享年七十の大往生で、その奥方は二十年下の、五十歳だったはず。


「君のことを伝えたら、替えの服を明日持ってくるからと言って……リステン夫人と一緒に帰られた」


 リステン夫人はたしか四十三歳で、旦那さまと死に別れたのは三年前だった。三十から六十までが守備範囲なお兄様はだいぶ自由人だ。


「ええ、まあ、その、お兄様が節操なしで申し訳ございません」

「いや、双方同意の上なら私がとやかく言うことではないから……だが、君をどうしたものかと。さすがにその服で帰らせて他の者の目に留まっては、よくない噂が立つかもしれない」

「……侍女服は駄目でしたか」


 公爵家の侍女というだけあって、生地も上等なものだし、デザインもしっかりしている。このまま走り出しても平気なぐらいなのに。


「それで、兄君は泊まっていけと言っていたが……どうしたい?」

「それは、ご迷惑ではないでしょうか」

「元々体調を崩した者のために用意してあった部屋があるから、泊まっていくことは問題ではない、が……」


 どうにも歯切れの悪いアレクシス様。視線が右に左にとさまよっている。素敵。


「……ご迷惑でないのでしたら、私は泊まっても大丈夫ですし、このまま帰っても大丈夫です。今さら服装の一つや二つで噂が立たれても痛くはないので」


 あの、と言われるような家の娘だ。家が潰れない程度の悪評なら、許容範囲内だ。


「そうか……なら、泊まっていくといい。軽食程度なら用意できるが、食べるか?」

「いえ、いっぱいですので大丈夫です」


 アレクシス様で胸もお腹もいっぱいなので、これ以上は入らない。ああ、でもなにか食べているアレクシス様を見るのも捨てがたい。


「……少しでもアレクシス様とご一緒したいです」


 でもアレクシス様がせっかく目の前にいるのだから、じっくりと見ていたい。絹糸のような髪に、長い睫毛、その下にある鋭い目、形のよい唇、何度見ても見飽きない。

 脳裏に焼きつけるように眺めていたら、アレクシス様がぱちくりと瞬きをした。


「最近、様子がおかしいが……なにかあったのか?」

「そうでしょうか? 私としてはおかしい感じはしないのですけれど」

「……前までは、ほら、私を嫌っていただろう?」


 僅かに伏せられた目が、過去を思い出すように遠くを見る。私とアレクシス様が知り合ってからまだ一年しか経っていない。前というほど昔の思い出はないはずだけど、もしかしたら私の知らないところで出会っていたのかもしれない

 つまり、私とアレクシス様は運命の相手だということか。


「私がアレクシス様を嫌いになることなんてありません」


 たとえ私の記憶になくても、アレクシス様を見たら一目で好きになっていたはずだ。


「だが、私との婚約をいやだと騒いでいただろう?」


 普通に私の記憶にある出会いだった。アレクシス様との初顔合わせのときの話だ。


 でも、過去に知り合っていなかったとしても、私の運命のお相手がアレクシス様だということは変わらないはず。一目で好きになったのだから。


「あれは……公爵夫人などという大役に尻込みしていただけです」

「では、私が嫌だったというわけでは……?」

「そんな、ありえません」


 ぶんぶんと首を振ると、アレクシス様の唇が緩んだ。柔らかく笑うアレクシス様に見惚れていると、大きな手が私の頬に添えられた。

 これは、もしや、手に頬ずりしてもいいということか。幻だと思ってすり寄ったときとは訳が違う。実体だと認識してすり寄るなんて、緊張のあまり胸が張り裂けそうだ。


「ミレイユ」


 いいの? やっていいの? 思う存分手の感触を堪能していいの?


 アレクシス様の手に自分の手を当てて、よし、やる、やってやると意気込んでいたらノックの音が部屋に飛び込んできた。


「――入れ」


 俊敏な動きでアレクシス様の手が遠ざかった。

 頬ずりするのは次の機会にとっておこう。ものすごく名残惜しいけど、しかたない。


「お嬢様がこちらにいると聞いたんですけど――ああ、よかった。ちゃんと大人しくしてますね」


 ひょいと扉の向こうから現れたのは、休みのはずのシリルだった。


「ちょっと、シリル、なんで」

「替えのドレスを持ってきたので、後ついでにお迎えにあがりました」


 恭しく礼をするシリルの腕に、ドレスが抱えられていた。

 おかしい、シリルの休みが明けるまで後一週間はあったはず。もしかしてずぶ濡れになったのがいけなかったのか。いや、でもあれは避けられない事態だったし、私のせいではないはず。


「着替えはどちらですればいいですか?」

「ああ、それなら――」


 シリルとアレクシス様が話しているのを横目に、私は一体どうしてシリルがここにいるのかに考えを巡らせていた。




 屋敷に帰り着くと、とてもいい笑顔を浮かべたお兄様に迎えられた。


「お兄様、今日は朝帰りじゃないのね」

「彼女とは知り合ったばかりだからな。ちゃんと節度ある付き合いをしたいんだよ、俺は」

「節度の意味を一度辞書で引いたほうがいいんじゃないの」

「俺はって言っただろ。あっちが望んでくるなら話は別だ」

「最低」


 多感な時期にお兄様の性事情を聞いてしまった身にもなってほしい。相手の名前よりも先に年齢が出てくる会話に幼い私は打ちのめされ、それ以来社交の場に出づらくなった。


「それにしても早かったな。優しいお兄様が気を利かせてやったってのに、なにもしなかったのか?」

「なにって、なによ」

「そりゃあなにをなにするんだよ」


 そう言って、お兄様の指がとても卑猥な動きをした。


「するわけないでしょ! アレクシス様はお兄様と違って紳士なのよ」

「いや、お前……」


 ぽんと肩に手を置かれた。お兄様にしては珍しくとても真面目な顔をしているけど、私は知っている。

 お兄様が真面目そうにしているときは、大抵ろくでもないことを考えているときだ。


「男ってのはな、穴があったら入れたくなる生き物だ」


 私の拳が鳩尾に入り、呻き声と共にお兄様の体が崩れ落ちた。


「最低! 下品! 下劣! 特殊性癖!」

「……俺の性癖は、まだ可愛いもんだぞ」


 それがお兄様の最後の言葉になった。


「いいか、世の中にはな……口に出すのもはばかられるような性癖が」


 なっていなかった。


「聞きたくないわよ、そんな話。ほら、シリル行くわよ――いえ、来なくていいわ。シリルは休んでなさい!」


 床にうずくまるお兄様を跨いで自室に向かうと、さも当たり前の顔をしたシリルがついてきていた。

 私が足を止めるとシリルの足も止まり、私が動くとシリルも動く。方向が同じ、というわけではなさそうだ。


「シリル、私は休めと言ったわよね」

「言われましたね。それが?」

「それが、じゃないわよ。まだ休み明けてないのになんで働こうとしてるのよ」


 後ろを振り返ると、呆れた顔のシリルが立っていた。仕事着を着て。

 迎えに来たときからわかっていたけど、あえて触れていなかった。働く気満々だ、こいつ。


「たった三週間で問題が起きたからですよ」

「私がいつ問題を起こしたのよ」

「お嬢様だけのせいではないのでとやかくは言いたくありませんが……未婚の女性が殿方の家に宿泊されるというのが、どれだけ醜聞かわかっていますか?」

「婚約者の家よ」

「それでも、です。口さがない人は性に奔放だと噂するでしょうね。兄妹揃って、と」


 お兄様と一緒にされるところを想像して、全身に鳥肌が立つ。


「それは、いやだわ」

「でしたら、不用意に泊まらないようにしてください」


 全力で首を縦に振る。あのお兄様と同じと思われるのだけはいやだ。絶対いやだ。




 シリルに再度休むように命令したのに聞き入れてもらえないまま数日が経ち、王家主催の夜会にアレクシス様と一緒に参加した。

 礼服に身を包んでいるアレクシス様も素敵で、城内に入る前にはお腹いっぱい胸いっぱいになっていた。


「どうしましょう。私、酔ってしまったわ」


 アレクシス様にときめいていたら、仇敵が現れてアレクシス様にしなだれかかった。人に酔ったメロディ様は今日も魅惑的なドレスを身に着けている。私が着ると貧相さが際立つ服装は、メロディ様にはよく似合っていて、思わず指をくわえてしまいそうになる。


「それでは休憩室に行かれたらどうですか?」

「そうね、アレクシス……ご一緒してくださる?」


 今回は飲酒については言わずに、別の提案をしてみた。だがさすがは仇敵、隙あらばアレクシス様を連れ出そうとする。

 アレクシス様が困った顔をして私とメロディ様を交互に見た。そんなアレクシス様も素敵で、じっと眺めていたら目を伏せられた。


「……でしたら私がご一緒します」


 王女ということもあるが、アレクシス様は紳士なのでメロディ様を無下には扱えない。未来視で見た中でも、アレクシス様はメロディ様に優しくしていた。

 優しい目をした横顔に盛大にときめいた私は、いつものように「アレクシス様程度でも頼りにされるだなんて、この国の男性はずいぶんと軟弱な方が多いのね」と言って高笑いと共に去った。

 アレクシス様のどんな表情も好きだけど、それでもやっぱりメロディ様に優しくするのを見るのが辛かったからだ。


「さあ、行きましょう」


 メロディ様の腕を恭しく取って、抗議の声が上がるよりも先にアレクシス様から引き剥がした。

 アレクシス様が介抱するのを見るのがいやなら、私がすればいい。実に単純な話だった。



「ちょっと、どこ行くの」

「わかりません。休憩室はどこですか」


 広間を抜け、適当に通路を歩いていたら、我に返ったメロディ様がてこでも動かないとばかりに踏ん張った。


「わからないのに一緒に行くと言ったの? それなら一度戻ってアレクシスにお願いするわ」

「アレクシス様の手を煩わせるだなんてとんでもない。私がご一緒しますので、休憩室まで案内してください」

「私はアレクシスがいいと言っているのよ」

「私はいやだと言っているのです」


 メロディ様の目が鋭くなり、怒気を孕みながら私を睨みつけた。だけど私は、その程度の怒った顔でひるむほど軟弱にできていない。お父様の悪だくみ顔のほうが凄まじい。

 あれほどあくどい顔が似合う人間はこの世界にいないと思う。


「あなた、何様のつもり」

「アレクシス様の婚約者様です」


 えっへんと胸を張ると、メロディ様の持つ扇から今にも折れそうな音がした。だけどメロディ様は王女様だからか、女性らしく非力なようで、扇を折るまでには至っていない。


「あなたね、わかっていないようだけど……本当は私がアレクシスと結婚する予定だったのよ。子どもの頃から仲がよくて、お似合いだと噂されてきたんだから……知っているでしょう?」

「いえ、知りません」


 社交の場に出入りしない人間が噂に詳しいと思わないでほしい。

 それにしても子どもの頃のアレクシス様はどんな子どもだったのだろう。小さなアレクシス様。ちまちましたアレクシス様。見てみたい。


「……なんでこんな子がアレクシスの婚約者になるのよ。どう考えても私のほうが相応しいわ。どうせあなたなんて、アレクシスの家柄とかに惹かれただけなんでしょう?」

「そもそも、政略的な婚約ですけど」

「それなら縁戚関係にある家は他にもあるわ。あなたが望むのなら、私の兄でもいいわよ。一つ上の兄には決まったお相手もいないし、年齢的にも釣り合うでしょう」


 勝手に売られそうになっていることを殿下は知っているのだろうか。


「私はね、ずっとアレクシスのことを見てきたのよ。あなたが私の想いに勝てるとでも思って?」

「メロディ様がどれほどアレクシス様を想っていらっしゃるのかは存じ上げませんが、私もアレクシス様をお慕いしております。その気持ちは誰にも負けないつもりです」


 メロディ様の顔が険しくなる。射殺さんばかりに私を睨み、扇を持つ手に力がこもっていく。でも扇はまだ折れない。


「私はアレクシスが落ちぶれようと、見捨てないわ。努力家で真面目で優しくて……そんな彼をずっと見てきたんだもの。たかが一年ほどの付き合いで、私に勝てるだなんてよく言えたものね」

「真面目な方なんていくらでもいらっしゃいますし、努力家な方も優しい方も星の数ほどおります。その程度でよくそこまで豪語できましたね」


 扇が折れた。ここまでもちこたえた扇も、両側からかかる力には勝てなかった。

 メロディ様の鬼気迫る表情に、負けじと私も睨み返す。アレクシス様を取られるわけにはいかない。


「たった一年程度の付き合いでよく吠えたものね。あなたがアレクシスのなにを知っているというの。彼がどれほど努力してきたか、あなたにわかる?」

「たしかに私はアレクシス様のことをよくは知らないかもしれません。だけどそれでも、アレクシス様でないとだめな理由があります。世界でただ一つ、アレクシス様のお顔はアレクシス様にしかついていません」

「……顔?」

「はい、顔です」


 メロディ様は一瞬呆けた後、すぐに目を吊り上げた。妖艶な美女の怒った顔というものは、中々迫力がある。

 だけどまだ、お父様には勝てない。


「顔? 顔ですって? その程度で、私に勝てると、本気でおっしゃってるの?」

「ではお聞きしますが、メロディ様はアレクシス様のお顔が蟻になったとしても好きでいられますか?」

「それは……」


 顔が蟻のアレクシス様を想像したのだろう。言い淀んだのを私は見逃さなかった。


「私ならばたとえアレクシス様が廃人となり虚ろな目でよだれを撒き散らそうと、その身が蛞蝓(なめくじ)になろうとも、あのお顔がある限りお慕いし続けます」

「わ、私だって――」


 メロディ様が言葉の先を続けることはできなかった。それよりも先に、わざとらしい咳払いが割り込んできたせいだ。

 私とメロディ様が同時に首を動かすと、ものすごく気まずそうな顔をしたアレクシス様とシリルが立っていた。


「メロディ様はアレクシス様のお顔が蟻になったらいやなのでしょう? 顔程度と言いながら……」

「どうしてこの状況で話を続けられるのよ!?」

「なにか問題が?」

「問題しかないわよ! アレクシス、その、これは……」


 メロディ様の顔が見る見るうちに赤く染まった。


「聞かれてしまったのなら、しかたない、わね。ねえ、アレクシス。私はあなたのことが好きなの。お父様には私からお願いするから、だからどうか、私の手を取ってくださらない?」


 差し伸べられた手に、アレクシス様の瞳が揺れる。そして私をちらりと見てから、メロディ様に視線を戻しそちらにゆっくりと歩み寄る。


「メロディ殿下、お気持ちは嬉しく思います。ですが――」


 ほっとしたような顔が一気に絶望に染まる。青褪めたメロディ様を見て、一瞬アレクシス様の口が止まった。でも、小さく首を振って言葉を続けた。


「……メロディ殿下が願い出たとしても、陛下は首を縦には振らないでしょう。それに、この婚約は私が希望したものでもあります」

「なん、で……こんな子のどこがいいのよ。私のほうがアレクシスのことを想っているのに、ずっと好きだったのよ。それなのに、なんで……!」


 痛ましそうに目を伏せるアレクシス様も素敵だった。

 どんなときでもアレクシス様は素敵だと見惚れていたら、アレクシス様が私の正面に立った。


「あのとき――馬車に轢かれてもなお笑う彼女を見て以来、私の心はミレイユに囚われています」


 私の手を取って、メロディ様に視線を向けるアレクシス様の横顔も素敵で、私は見惚れるしかできない。

 馬車? 馬車ってなんの話だろう。いつの話だろう。記憶にあるだけで三回は馬車に轢かれている。

 最初は五歳で、次は十歳で、三回目は一昨年だった。どれも無傷で済んでいるので、大事にはなっていない。


「今は顔だけかもしれない、それでもいつかは――」


 アレクシス様の顔が近くなり「あっ」というシリルの間抜けな声と、メロディ様の息を呑む音が同時に聞こえた。

 ぱちくりと目を瞬かせると、アレクシス様がすごく近くて、唇になにかが触れていて、つまり、くちがふれ、ふれ――



「ミレイユ!?」

「お嬢様は初心なので、加減しないと倒れますよ」

「この程度でか!?」


 せっかく間近に迫ったアレクシス様の顔を堪能できなかった悔しさを抱きながら、私は意識を手放した。



 その後、なぜかアレクシス様は剣を振ったり、何冊もの本を短時間で消化する姿を私に見せるようになった。

 真剣な表情で取り組むアレクシス様も素敵だった。

たくさんの方に読んでいただけて嬉しいです。

お礼として、ご要望いただいた別視点での続編

アレクシス視点での続編「たとえその身が蛙になろうとも」

シリル視点での続続編「たとえこの身が蛇になろうとも」

を投稿いたしました。

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― 新着の感想 ―
[一言] ミレイユちゃんの奇想天外な所がたまらなく気に入りました(思い出し笑いするくらい)長編で日常や家族、アレクシス様シリルの掛け合いあたりを重点に見たいな~と思いましたm(*_ _)m
[良い点] 視点がミレイユ自身のものなので、考えの変移が理解できる分戸惑うことはないものの、それらが解らない周辺の人からすると確かに変人と思えるだろう彼女の気質を巧みに描いた面白い作品でした。 また、…
[一言] とても面白いです。 ミレイユ愛すべきおバカちゃん。大好きです。
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