どっちから、どっちを見るか
妻から見ても、夫から見ても、お互い、自分が正しくて、相手がおかしいと思っている。そんな夫婦って、けっこう、たくさるあるんじゃないでしょうか。ウチも、そんな感じです。その証拠を、エピソードをいくつか並べて証明してみたいと思います。
そんなことをして、どんな意義がある?
意義なんか、あるはずないでしょう。ただ、そうする、というだけのことです。
結婚当初、家内がヒマつぶしにテレビを見ていた時、私が、こう言ったという。ちなみに、そのテレビには、明石家さんまが出ていた、と。
「そんなくだらんものを見るなよ。もっと精神を高めてくれるようなものを見たらどうか」
そのころ、私は、法政大学通信教育学部で、日本文学の勉強をしていて、テレビも見ずに、テキストを読んだり、レポートを書いたりしていたらしい。
新婚生活で、夫が妻に構わなかったら、妻がどういう気持ちになるか、今は、わかるような気がする。
しかし、当時、そんなゆとりは、なかったのかなあ。
ところが、今は、真反対。私の方が、明石家さんま、所ジョージの番組をよく見る。大声をあげて笑う。
それで、「あんた、昔、私に、どう言った? 」と言われる。
家内の好きな番組は、韓国ドラマ、それも歴史物だ。笑う場面はない。それで、「はしたない笑い方をして」と、今は、私の方が叱られている。
50年も経てば、マジメがアホになり、アホがマジメに変わることもあるんだ。人間性が不変であるはずがない。
大学時代のゼミの先生に、「勉強の好きな、若い者に、郷土史会に入ってもらいたいのだが」と言われた。
「好きなことを、好きな時に勉強したいので、組織に縛られるのは、好きじゃありません」と答えた。
偉そうに、ワガママなことを言いやがって、という感じが、自分でもわかる。
ところが、就職してすぐ、いわゆる日教組、日本教職員組合には、何の違和感もなく、スッと入るのである。
当時、組織率が高く、教員になったのに、組織に入らないなどという者は、まず、いなかった。いうならば、大勢に流されただけ、という感じだろう。
しかし、権力の締め付けが、だんだん強くなって、日教組つぶしが露骨になるにつれて、仲間や先輩などが脱退、あるいは、新組合への転籍などの動きを見せても、ほとんど揺れなかった。
権力の締め付けは、ますます強くなり、組織率は、見る見る低下して行った。いわゆる、上昇志向の強い者、管理職になりたい者は、どんどん脱退して行った。いつまでも付き合っていられるかい、という感じになるのだ。
歴史を振り返れば、エサで釣って、相手を分断し、権力が勝つという例は、山ほど見られる。
勝った権力は、必ず、横暴になる。アベ政権など、わかりやすい例が、いくつもある。
そして、弱い者いじめをする。弱い者の人権とか、自由とかを、どんどん奪うようになるのだ。
相手のやり口がわかっているから、そんな手には、乗りたくない。
私は、定年まで、組織から脱退しなかった。平教員のままであった。
大きく言えば、人権、自由を守るのに、弱い者は、団結するしかないのだ。
いわゆる、差別と分断という手口で、バラバラにしようとするのは、弱い者でも、団結すれば、権力と対抗できる力を持つ。それが怖いからだ。
団結するということは、組合から逃げないということだ。
家内から見ると、そこのところが、よくわからないらしい。
組合から抜けて、管理職試験を受けて、校長にでもなれば、給料も増えるやろう、そっちの方がいいやん、
という考え方をする。権力のバラまくエサに、すぐ飛びつきたい方なのだ。
管理職試験に通る自信がないから、日教組もやめないし、試験も受けようとしないのね、と言われる。
「歴史を見ても」とか、言うだけ むなしいから、言わない。
家内の父親は、戦時中、警察官になった。とても小柄で、徴兵検査の時、兵隊向きじゃないと判断されたのだろう。高等小学校までだから、学歴もない。それでも、マジメに勉強するタイプなので、昇任試験には合格する。最後は、警視正くらいまで行って、県本部、管区本部などでも働いていたようだ。
口癖は、「まじめに、誠実に」だ。
私が飲めないので、酒を飲みながら話をしたこともない。
へたながら、囲碁はするから、二目か、三目か置いて対局することは何度もあった。しかし、囲碁は、おしゃべりしながらには向いていない。お互い、黙って、パチリ、パチリ。私が大きなポカをやって負ける時もあったから、いい加減なアホと思われていたのではなかろうか。
父親が、そういうタイプなので、私の考え方、生き方など、わかるはずがない。比較対照する方に無理がある。
そんな二人、恋愛結婚のはずがない。見合い結婚である。
友達に、見合いの好きな男がいて、何十回もしている猛者だった。その男の紹介で、美容室を経営している女性に会った。美容室に来るお客さん、あるいは、お客さんの娘さんを紹介してくれる、という話であった。
「どんな人がいいの? 」と言うから、「デボラ・カー」と言ったら、「男はみんな、そんな、贅沢を言う。
身のほどをわきまえなさい」と叱られた。
こっちがイイと言えば、向こうがイヤと言う。向こうがイイといえば、こつちがイヤ。そういうのが何回かあって、今の家内に会った。クリスマスイブの日に、お茶だけで別れた。美容師さんが話をうまくコロがして、
正月に、和装の母と娘が、ウチに来た。
周りは、田んぼという家を見て、私の父、母(中風で、右手右足が不自由だった)を見て、帰った。
私は、「佐久間良子のような雰囲気やろう? 」と言ったらしい。(今は全然違うが)
満点の人はおらん、というのが、私の口癖だから、多分、80点くらいの評価だったかな?
合格は、合格だった。
向こうは、父親が、こっちを見ていないという心配はあったが、「まかせる」と言ってくれたと。
その時、同じ屋根の下に、子連れで戻っていた姉もいる、ということを、こっちが隠していた、と、家内は、今も言うのだ。「わかっていたら、こんな所にくるはずがない」とまで。
美容師さんが、「お互い、気に入ったんやから」と、やや強引に話を進めて、2月4日、立春の日に式を挙げよう、とまで進んだ。
その美容師さんの着付けで、和装の花嫁さんができた。記念写真を撮る時、私の背が低いのはカッコ悪いと、
座布団を重ねた上に立たされた。
結婚式の間、私は、大泣きに、泣きじゃくっていたそうな。自分でも、薄い記憶はあるが、強い記憶はない。なぜ泣いていたかも、少ししか、わからない。
学級日誌で、女の子が、「結婚のいきさつをおしえてください」と書いてあったので、
「イブに逢い 立春の日に 式を挙げ」
と、五七五で答えた。このイブというのは、クリスマスイブのことやろ、とか、アダムとイブのイブやろう、とか、両方かけているんじゃない? とか、女の子の間では、いろいろ議論があったという。
けさも、叱られた。
シャワーのホースにカビが付いとるから、きれいにして、と言われて、浴槽を洗うスポンジで、拭いても、黒いカビは取れない。そう報告すると、漂白剤をかけて、しばらくそのまま置いといて、水で流すのよ、という。数日前、そうしてみた。まあ、きれいになった。
けさは、きれいになったの、わかる? うん。
教えてくれてありがとうとか、言わんよねえ。ありがたい、とか、思ってないもんねえ。
間隔があいたが、また、けさのことを書く。
ダンボール、発泡スチロールのトレイ、古新聞などがたまったので、市民センターの回収所に持って行こうとしていた。
「新聞紙は、全部持って行かないで、すこし置いといて」と言う。もう紐でくくってあるのに、またほどいて、やりなおさなくてはならない。そういう気持ちがあったからだろう、「顔をそむけて、わたしの前を通った。バカにしとる」と激怒する。
こっちとしては、バカにしたつもりはない。面倒、と、思っただけである。それで、この怒りよう!
オレの方が、日ごろ、何度も、何度も、どれだけハッキリ「バカ」と言われているか、忘れているんじゃないか。
私が、家内のことを「バカ」と言う場面は、ほぼ、ない。心で思うことはあっても、口には出さない。あとがこわいから、そんなことはできない。
家内に言わせれば、その気持ちが態度に出ているのだ、と。それで、腹が立つのだ、と。そこまで言われら、弁解の余地はない。
しばらくぶりに、書き込みをする。
材料がなかったわけではない。いっぱい、あつた。叱られた、怒られた、と書くのが、自分では、気が進まないのだ。例を挙げてみたら、わかりやすいかも。
トイレから出て来たら、ドアを閉めなさい、と言われる。向こうの言う方が正しい。反論の余地もなぃ。
しかし、私は、うっかり、閉め忘れることが多い。大体、2階のトイレは、今は、私だけが使う。それも、年齢もあって、2時間に1回は使う。開けっ放しにしていても、他の人が見ることは、まず、ない。
そういう気があるからだろう、つい、閉め忘れる。
「また、閉めてない。何回言われたら、わかるんかね。見たくもないものを見せられる者の気持ちになってごらん! 」
2階を根拠地にしている私の所を通るのは、ベランダに洗濯物を出し入れする時だけだ。それ以外の時は、私の所には、近寄ろうともしない。クサイとか、キタナイとか、言っている。(自覚症状はないのだが、相手がそう言うのだから、多分、そうなのだろう、と、認める気持ちはある)
こういう理由で叱られるのが、2日に1回か、3日に1回くらい。ずーっと、続いている。
食事の時、右手の箸だけで食べる。左手を食器に添えない。左手は、だらんと、テーブルの下に落としたままだ。それでも、食器をひっくり返したりしたことはない。ただ、見た目は、カッコ悪いかもしれない。
それで、「行儀が悪い。親は、どんなしつけをしとったんね」と、75年以上前のウチの親の責任まで追及して来る。
「左手を上げなさい」と言われるのは、しょっちゅう。1回の食事中に、2度、3度ということもある。
テレビを見ながらだと、画面に気をとられて、素の自分が出てしまう。つい、左手、だらんに、なってしまう。
食卓のほぼ真ん中に、テレビのリモコンを置く箱がある。そこへ返さずに、自分の食べる所に、使ったままの状態で放置してある。それで、また、叱られる。「もとへ戻せと、何回言われたらわかるんね」
このうっかりも、なおらない。
寒い日は、洋間の石油ストーブを点けて、ヤカンを乗せたりしている。
私の部屋は、エヤコンは付いているが、使ったことは、30年のうち、ほんの数回。
少々寒い時でも、脚は、万年床に入れて、上はダウンジャケット。
食事の時、そのままの格好でテーブルについて、「食事の時くらい、ジャンパーは脱ぎなさいよ」といわれたことが、年が明けてからでも、すでに3回。
普段は、一人で食べることが多いので、ジャンパーのままでも、おこられることはないんだが…………。
ついつい、日ごろのクセが出ると、正月は、叱られる。
ほんとうは、恥ずかしがるべきことなんだろうが、私には、腹の中で、「なんや、そんな小さなことで、ごちゃごちゃ言うな」という気がある。大きなものを目指すためには、小さなことは気にするな、という心境だ。
私が目指している大きなものとは、「即身成仏」。死ななくても、生きたままでも、仏のような気持ちになれるという境地。ここでは、詳しくは、述べない。興味のある方は、「頭の中にマボロシを」という、別のコーナーで、御覧頂きたい。
けさのヤリトリの中で、ふと、気がついたことがある。
「わたしが、こんだけ言っても、なおらないのは、あんたが、わたしをバカにしとるからやろう」と。
私は、恐れ多いのと、コワイのとで、家内に対して「バカ」と言ったことは、多分、一度もない。
それなのに、「バカにしとる」「バカにしとる」と、しょっちゅう言う。言葉には、出さなくても、態度に出ているのだろうと、思ってはいた。しかし、どの態度が、「バカにしとる」ように見えるのか、自分では分からなかった。
やっと、わかった。
何度注意してもなおらない、なおす気がない、それは、「わたしのことを、バカにしているからだ」という推理をしているわけだ。
相手に「バカ」とののしるだけが、あいてをバカにする意思表示になっているわけじゃない。
相手の言うことを聞かない、というのも、十分、相手にとっては、バカにされた気にはなるだろう。
その間の事情は、なんとなくわかる。
そういう論法からすれば、家内が50年以上言い続けたこと、何百回、何千回も言い続けたことが、改められていないということは、その態度によって、私が家内をバカにしている、と解釈されても仕方がない、ということだ。
やっと、わかった。
しかし、それは、誤解だろうか。案外、正解かも知れない。
「小さいことは、気にするな」というのが、私の考え方の根底にある。
注意されることは、小さいことばっかりだ。そんなことまで、気を使っていられるか、という気持ちでいる。
家内からすれば、そういうマナー違反、礼儀知らず、なことは、重大なことと思われるらしい。
「親のしつけが、なっとらん」とまで言われる。
そんなに、カッカとなるほどのことじゃない、と思うのだけれどねえ。
二人で話しても、いわゆる、水掛け論でしょう。
ここは、第三者に、判定してもらうしかないやろう。
さて、みなさん、どっちに賛意を抱いてくれますか?
2月4日は立春でした。イコール、結婚記念日。「あんた、完全に忘れとったやろう! 」
「忘れるはずがない」というヤリトリがあったが、実は、すっかり意識になかった。
イコール娘(孫にとっては、ママ)の誕生日。
小さなケーキで、ささやかな祝いをした。「ばあちゃん、ケッコンして何年になるん? 」孫が聞く。
「53年かな? 」「そんなもんじゃろう」
次の日、予約通りに、病院へ。家内の膝痛のためである。自分で運転はできるのに、こういう時は、私をドライバーとして使う。そして、「ウィンカーは、もっと早く出さなあ」とか、ケチをつける。
診察室へは、私は付き添わない。それほど重症でもないから。
両膝に、ヒアルロン酸を打ってくれたとのこと。その時、「ついでに、水を抜いてくれませんか、脚が細くなるように。さっき、隣の診察室に入って行った女の人、脚が細くて、キレイやったあ。わたしも、あんな風にしてくれんかなあ」とかも言ったらしい。
「昔はね、運動していたから、色が真っ黒で、前から見ても、後ろから見ても、ようわからんやったんよ。それでも、男の人が、いつも、5、6人は、ついて来ていたよ」とかも。
「先生も、看護婦さんも、笑いよったよ。………笑わせてやったんよ」と。
私が、自販機の缶コーヒーを飲んでもどったら、もう診察室からは出ていた。
帰りに、小さなヨモギ饅頭、8コで500円くらいのものを買って、ウチで、私には、3コ、回って来た。
けさのケンカというか、スレ違いのあらましを。
5時半に起きて、洗濯機を回そうとしたら、「休みの日に、何で早く起きるん? うるさいんで、目が覚めたやん。何で、ゆっくり寝かせといてやろうとか、思わんの? 」
「脱水が終わったら、ベランダまで運んで、それから、亀の甲(地名)に草取りに行こうと思うちょったんよ」
「どうせ、そんなことやろうっち、思うちょったよ。あんたは、何でも、自分中心やからね」
洗濯機を回してくれてありがとう、とか、そういうことは、まず言わない人だから、しようがないかな。
私の、ここが足りない、ここが抜けている、という点には、特に、きびしい。
早起きに関連して言うと、「あんたのお母さんはね、私に、早起きして、送り出す時には、ちゃんと化粧もしてから、送り出しなさい」と言いよったよ。
53年も前のことを、今も覚えている。そして、執念のように、私に復讐しようとする。
となりの空き地だった所に、家を新築して、若い家族が越して来た。幼稚園の年長さんくらいの男の子と、もう少し下の妹がいる。
お兄ちゃんは、長い廊下を、よく、走っている。その音は、外まで響く。元気のいい子だなあ、と感心している。ところが、あれだけうるさいのに、なぜ、やめなさい、と言わんのかねえ、親は、と、家内は考える。
自粛、自粛で、退屈なんだろう、駐車場の空いた所で、シャボン玉遊びをして、キャーキャー言う声が聞こえた時も、久しぶり、子供の声が聞こえる、と思っていたら、うるさい、いい加減にせんか、と言う。
何か、他の人のマイナス面を見つけて、それに対して、きびしい言葉を述べることが多い。
テレビを見ていても、タレントなどに対しては、そういう傾向を見せる。
アベ首相などに対して、私が、きびしい言葉をぶつけていると、「あんたは、そう言うけどね、ここまでエラくなった人には、あんたの知らない、いいところもあるのよ」という感じで、弁護する。
スレ違いの例は、たーくさんある。面倒なので、一々書かないだけだ。
今朝のことを、書く。
梅雨らしい雨。洗濯物は室内干し。それで、窓を開けて、風が少しでも通るようにとしていたら、「こんな時に窓を開けたら、ふとん(私の万年床)が、湿るやないの」と、ガラス戸を閉める。
「雨は降っているよ。けれども、湿度は、70%くらいだよ。ということは、あと30%は、水分を持って行ってくれるんだよ、風は。……」
「そんなら、窓は開けとく。ふとんが湿っぽいとか、絶対に言いなさんな」
20分後くらいかな。
「道の駅 城井の趾というのは、どのあたりかねえ」
「城井の趾、と言えば、城井川の上流の、あすこしかないと思うよ。でも、あんな所に、道の駅はないよ。物産館なら、あるやろうが………。行きたいなら、運転はするよ」
「あんたとは行きたくない。行く時は、一人で行く」
日ごろは、左手が不自由で、切り替えレバーも触りたくないと言って、近距離でも、私に運転させるのに。行けるなら、勝手に行け、だ。
スレ違いの大元は、価値観が違うということから、生じる。
ウチのまわりは生け垣だから、木や草がかなりある。
家内は、枝一本、草一本でも、減らしたがります。
私は、葉っぱ一枚でも、緑色のものは、たくさん残しておきたい方。
垣根の刈り込みをどの程度するか、樹木の剪定をどの程度にするか、草取りは、どの程度でよしとするか、一々、衝突する。
大体は、家内の言う通りになる。
それなら、最初から、反論しないで言うことを聞けば、ケンカにならずに済むはず。
それが、不徳の致すところで、つい、反論する。それで、激しい言葉をぶつけ合わなくてはならない。
生産性のないやりとりだ。
ウチの西側は、もと、水田だった。今は、バスの通る大きな道路になった。
その道路に接している長さが、約27メートル。そのうち、4メートルは、車が通れるように開けてある。だから、生け垣の長さは約23メートル。
祖先から受け継がれて来たそのままだから、上から見たら、かなりの変形四角だ。
北は、約18メートル。東が29メートル。私は、ウラ道と言っているが、もとは、ここが通学路だった。南は、隣家と接していて、境界は、隣家が新築の時に作ったフェンス。
つまり、四角形の三辺が生け垣ということ。生け垣だけで、およそ70メートル。管理するのも大変と、分かっていただけるだろうか。
金持ちなら、業者に頼めば済むこと。貧乏だから、そんなことは出来ない。
仕方なく、自分で、ハサミで、チョッキン、チョッキンしている。
ラカンマキの部分が多く、それは、私の気持ちを反映している。
マサキの部分、竹の部分もかなり。
マサキは、虫が付きやすく、それが困る。
竹は、上にも伸びますし、横にも、すぐ広がる。
本には、生きた竹を垣根に使うべきではないと書いてある。その通りだ。
オヤジがそれをやった。お陰で、私は、笹というか、竹の葉、掃き掃除に手を焼いている。刈り込みも、しょっちゅう しなければならない。
竹の子シーズンは、延びる根とも、格闘しなければならない。
この敷地の中に、私の家と、次女の家がある。
そのまわりにも、いろいろ木を植えています。
実のなる木が、かなりある。植えたのは、家内だ。
ダイダイは高さ2メートルで押さえている。それでも、100個は成るかな?
実を使うことは、あまりない。
スイートスプリングは、高さ3メートルくらい。数十個。みな、食べる。
温州みかん高さ1メートルちょっと。100個くらいかな? 無農薬だ。
晩白柚2本、どちらも高さ3メートル弱。だいぶん、枝を切ったのに、まだ20個は成る。
スモモ。家内は、イクラ、イクラと言うが、これは高さ5メートル近く。脚立を使って収穫する。ナマでも食べるが、大体は、家内の友だちの所で、ジャムになる。
ハッサク。これは、高さ6、7メートル。ただし、下の方の枝は私が勝手に切ってしまったので、脚立なしでは取れない。風で落ちたのを拾って食べることが多い。
伊予柑。高さ2メートルくらい。甘味が強い。20個あるかな?
夏みかん、レモンは、枯れてしまった。さくらんぼは、切って、根も掘り上げました。
孫も食べないし、鳥が来るだけだし、と…
スキマ、スキマに、花や野菜を、少しずつ作ったりしている。大根、胡瓜、インゲン、ほうれん草、じゃがいも、玉ねぎなどは、一杯。
天気のいい時は、大体は、外で、何か作業をしている感じだ。
それでも、ちょっと忘れることはある。もともと、うっかりの多い男だ。
そうすると、天の声が聞こえて来る。
「枝を切らんと、みっともないよ」とか、「刈り込み忘れとるよ」とか。
あまり、回数を増やしたくないと思って、思い切って短めにすると、「なんで、あんなにするん? 切らんでいいとこまで切って。 外から、中が、丸見えやん」と。…………
何についても、スレ違い。
2021年9月18日。考え方が違う点を追加する。
風呂の掃除の仕方についてだ。
私は、お湯を入れる直前でもいいという考え。家内は、ひまな時に、朝から綺麗にしておけという考え方。「ホコリが付くやろうも」「そしたら、シャワーで流せばいいやん」「二度手間じゃねえか」
相撲を見る前に、洗っとこうか としたら、15時前、「あんたがせんから、私がしといたよ。カビだらけのところは、漂白しといたよ」と。
数日前には、「排水口が、ヌルヌルしている。毎日、洗いなさいよ」と。
「詰まって流れんわけじゃない。ちゃんと流れているのだから、時々でいいやろう」
「時々じゃ足らんのよ。いつも、ヌルヌルしとる」
「毎日 検査しとるんか」「しとる。いつも、ヌルヌルして、今日は、髪の毛もあった」
キタナイものはキライ、と言うのなら、毎日、触ったりしなきゃいいのに、…。
毎日 検査して、今日も掃除しとらん!とか言うの、私を責める目的以外 何もない という感じがする。
この人、オレを責めることだけが生き甲斐なの?
2022年1月4日のこと。
正月用に、神棚に供えるサカキを切った時、切ったサカキの1本が、横のモミジの木に引っ掛かって、ぶら下がって、みっともない。とりはずせ、との指示があった。外へ出て見たが、モミジには、何もついていない。そう報告すると、彼女が現地に来た。「これが見えんの?」
「これは、モミジじゃない。ハナミズキじゃないか」
「サカキの横ち、言うたら、ハナミズキも見たらいいやないの。誰がここまで来て、モミジだけ見て、
分からんとか言うの。 分かったろう? そして、教えてくれてありがとうもなし。
モミジやないで、ハナミズキ? なんか、文句を言うばっかりやないか。他に、言う言葉はないのね」
「教えてくれて、ありがとうございました」
「それで、おしまい? 文句を言って、御免なさい、やろ」
「……ごめんなさい」
「ええ歳をして、ええ加減にしいよ」
「…………」
2022年1月7日のこと
昨夜来の口論の続きを朝からする。
その論点は、私が普段着にしているジャージーのズボンは、見るからに寒そう。買ってやった裏のついたズボンにしたらどうか、というのだ。
そうしようと思ったけど、俺の部屋は、電気がつかないから、どこにあるか、分からんやったと言う。
なんでつかんの。
前からおかしかったのが、いよいよダメになったみたい。スターター替えても、よくならん。
本体替えたらいいやん。
月12000円の小遣いで、そんなこと出来るか。本体だけで、あの手は、1万越えるやろう。
小遣いが足りん時は、いつでも言ってと言いよるやん。
いつも、カネがない、カネがないと言いよる人に、カネくれとは言いたくない。
私のやりくりがヘタと言いたいんやろう。そんなら、あんたがやりくりしてみたらいい。財布も、通帳も、カードも、みな、返す。
今朝、それを たたき返して来たのだ。
オレは、そんなこと要求しとらん。
わたしもいらん。
3点セットは、いまも私の机の上に放置されたまま。
20時ごろ、運転免許は、もう、返上せよと言って来た。長女も次女も、そうすべきだと言っていると。
せっかく、認知機能検査に、88点で合格したのに、そして、高齢者講習の予約も、取りにくいのに、やっと取ったのに。
私が不満を爆発させていたもんで、仕事から帰っていた次女が、2階の私のところまで、やって来た。
爺ちゃんが運転できたから、お前、どれだけ助かったか。孫たちをプールに送ったり、迎えに行ったり、ピアノの先生の所に送ったり、迎えに行ったりも、何回したか。お前が仕事続けられたのも、爺ちゃん、ばあちゃんのお陰が大きいのに、分かっとるのか。
分かっとうよ。感謝しとうよ。だからこそ、事故を起こして、人を傷つけたり、自分が傷ついたりして、苦しむようになってほしくないの。
きれいごとばっかり言うな。 利用出来る時だけ、利用しやがって。
2022年1月12日
「あんた、今日、歯磨きしとらんやろう」「ちゃんと磨いたよ」
「歯ブラシが濡れとらん。磨いてないはず」「お寺さんが来る前に、ちゃんと磨いた」
「磨いとらん! 」「本人が磨いたと言いよるのに、何で、そんな決めつけたような言い方をするん?」
「私は確認した! 」 「そんなら、勝手にそう思え。オレは磨いたと思うちょる」
こんな、やりとりをしました。
結婚当初から、キスはさせません。なぜか、強く拒否します。
浮気をしないから、多分、私は、死ぬまで、女性とのキスの経験はないままになるでしょう。
私の口臭がひどいから? 不潔だから?
それなら、クンニも拒否するはずでしょう。それは、拒否しなかったのです! 理屈に合いません。
ネットには、エッチな体験談というのが、ヤマほど載っています。
そういうのを見ると若返るような気がして、わりとよく見ます。
女性のクチビルが柔らかいとか、甘いとか、さらには、舌をからませて気持ちが高揚したとか、よく書いてあります。そんなこと、したかったなあとか、妄想します。
もう、そんなこと、出来る歳ではありません。そういう経験はしないまま、あの世に行くことになります。寂しいことですが、いかにも私にふさわしい生き方、死に方という気もします。
2022年4月14日
「あんた、鼻をかむ時、ティッシュを2枚使いよるやろう! もったいないから、1枚にして!」
「オレは、他の人より、鼻水がたくさん出るの! そんな小さなことを、一々言うな!」
「小さなことやけ、一々言いよるんよ。 大きなことやったら、ガマンもせずに、別れるわ」
2022年5月28日
書きたいことは、山ほどあります。 けれども、みんな小さなことばかり。
そんな小さなことを気にして、どうするの、と言いたくなるようなことばかりです。
その小さなことが気になって、一々文句を言いたくなる人がいるから、こっちは、一々、コチンと来るのです。
「あんた、生け垣の下の草取りとか、人から見える所ばかりで仕事したがるやろう。人が褒めてくれるのが、うれしいのやろう。人の目ばっかり気にして」
人の目を気にするのは、どっちかと、言いたいです。
「道から見える所に、草が生えとるよ。みっともない。気にならんの?」
土があれば、草が生えます。それがカッコ悪いですか? 私は、恥ずかしくありません。
雨戸を開けるのが少しでも遅いと、「まだ寝ているのかと思われるよ。早う開けなあ」
雨戸を閉めるのが、ちょっと早いと、「まだ、明るいのに、もう閉めるん。早よ過ぎやろ」
ちょっと遅いと、「まだ、閉めとらん」
いずれも、人の視線を気にし過ぎと、私は、思います。
人がどう思おうと、こっちの、開けたい時に開け、閉めたい時に閉めればいいやないか、これが私の考え方。
人間の愚かさ、弱さ、そういうものが、モロに出ているエピソードばかりでした。
おそまつ様でした。
それでも、こりずに、また続きを書くつもりでいます。気が向いたら、来て見て下さい。