忘れ物
ようむが胴付きとなってから少し後。
久方ぶりに、金バッジ候補生達の前に監督官が顔を覗かせる。
以前とは違い、既にバッジを持っている事から、ゆっくり達の顔つきは違う。
初めて訓練所に迎えられた頃の不安や怯えは無く、挑む様な強さがある。
「金バッジ候補生諸君。 良く努力を重ねて居る。 先ずはそれを誉めよう」
背広姿の男はそう言いながら、ゆったりと候補生を確認する。
金バッジが無理だと判断された者は既に省いてあった。
国営機関であるゆっくり協会発行の銀バッジともなれば、ショップへ行けば引く手数多であり、貰い手に困るという事はない。
寧ろ、喜んで訓練所を去ったゆっくりも多かった。
その為、残っているゆっくりは両手の指で数えられる程しか居ない。
その中には、男が番号を与えたようむも混じって居た。
既頬に書かれた【40】という数字は拭われ、跡は無い。
その代わり、頭の新しい飾りに番号札と銀バッジ。
そして何よりも目立つのは、椅子に座るという姿である。
普通のゆっくりでは、椅子に座るというよりも乗るという方が正しい。
そんなようむも今や、優秀なゆっくりの含まれる。
だが、胴付きと成っても、ようむのその張り詰めた様な顔は変わらない。
候補生に顔を見せる前に、男は予め話を聴き回っていた。
その上でわかる事は、ようむは少し周りと違う、という事であった。
成績自体は非常に優秀で、品行方正である。
人間に反意を見せる事もなく、教えには忠実に従い目立った問題も起こさない。
金バッジの試験も、特に問題は無いだろう、というお墨付きは在った。
その筈なのだが、ようむに余裕といったモノは窺えない。
誰もが、ただの一度も笑った所を観たことがないとすら言う。
ようむを拾い上げたのうかりんですら。
監督者である男は、立場上ゆっくりを公平に扱わねば成らない。
其処で、別の手を用意して居た。
「今後は君達に金バッジ習得の為の努力をしてもらうのだが、其処でだ、今日は特別な講師を呼んである」
そう言うと、男は横へ顔を向けた。
「お願いします!」
男の声を合図に、教室の戸が開かれる。
スッと中へ入って来たのは、一見すると人にも見えた。
歩くという姿は優雅ですらある。
だが、よくよく見れば人ではない。
お呼びに応えたのは、金髪に黒の帽子が特徴的なゆっくり。
胴付きのまりさ種であった。
「どうも、まりさです」
立ち居振る舞い、そして軽い挨拶からしてその辺のまりさ種とは異なる。
そして何よりも候補生達の目を奪ったのは、お飾りのバッジだった。
候補生達の銀にも似るが、ソレよりもより輝く白金
「今日は諸君らの先輩に来て頂いた。 彼女もまた、此処の卒業生だ。 私がグダグダ言うよりも、折角の機会なのだから本ゆんから色々と習うと良い」
そう言うと、男はまりさへと向き直り頭をぺこりと下げた。
この時点で候補生の殆どは思わず声を漏らす。
ゆっくりよりも絶対的な優位性を持ち、怖い筈の【にんげんさん】が、ゆっくりへと頭を垂れる。
そんな様は、普通では見られない。
ただ、別のプラチナバッジを知っているようむだけは、驚かなかった。
*
監督官が紹介した通り、特別講師は候補生の先輩に当たる。
昔取った杵柄という事も在るのか、まりさは後輩であるゆっくり達を教えた。
銀バッジまでならば、ある程度は学力だけでも何とかなる。
だが、ソレよりも上となると、所作や作法までもが吟味と対象と成った。
「面倒くさいと想うかも知れないけど、大事な事だからちゃんと覚えて」
時間を掛けて、まりさはゆっくり達の質疑応答にも応じてくれる。
その様は、例えるならば子供に群がられる先生だろう。
無論、授業はようむも受ける。
その際、まりさは【40】の札をチラリと窺う。
一瞬ではあるが、懐かしむ様な素振りを見せていた。
「ね、どうかした?」
他のゆっくりとは違い、ようむからは話し掛けて来ない。
だからか、ポンと声を掛けられたようむ。
どうしたと問われても、自ゆんは真面目に授業を受けている筈。
「……いえ、何も」
何が悪いのかわからず唸るようむに、まりさは首を傾げる。
「なんか、スッゴい顔してるけど?」
心配そうな声でそう言われたようむ。
何かを仕出かして注意をされた訳ではない。
凄い顔だと言われても、自ゆんの顔は見えないモノだ。
ソレが何であれ、自ゆんの顔を見える生き物は希である。
「……すみません」
訳もわからないが、とりあえずとようむは謝ってみる。
下手に出てさえ居れば、それはそれで何とか成るからだ。
神妙なようむに、まりさは笑う。
「いや、別に怒ってなんかないからね? ただ、どうしたのかなぁ、嫌なこと在ったのかなってさ」
まりさは、笑わない生徒を心配していた。
裏を明かすならば、まりさは既に監督官から相談を受けている。
候補生の内、決して笑おうとしないゆっくりが居るのだ、と。
美味い食事をしようが、丁重に誉められようが、何をしても顔を変えない。
実のところ、監督官ですらようむの生い立ちを知らない。
編入という形で、のうかりんから預かったのがようむである。
「まりさもさ、昔は此処に居たからね。 キツいってのは知ってるよ」
昔を懐かしむ様に、まりさはそう言う。
そんな声に、ようむは恐る恐る講師を窺う。
「でもさ、何か在るなら言った方が楽だよ? ほら、もっとゆっくりしてみて」
余裕の在る感覚はのうかりんにも似ている。 ただ、纏う空気はより柔らかい。
当てられるのは柔らかい笑み。
だからか、ようむは口が緩んだ様な気がした。
「自ゆんは……ゆっくりの仕方が、わかりません」
ようむがそう打ち明けると、まりさはゆんと唸る。
ヘラヘラと笑うだけのゆっくりはゴマンと居た。
それに対して、ようむは笑い方を忘れてしまった、とでも言いたげである。
そう言われてしまうと、如何に講師と言えども難しい。
どうすれば笑えるのか、実のところ説明のしようがない。
単純に答えを言うならば、口角を上げて目を細めればそれは笑顔と言える。
が、それで笑ったと言えるかと言えば、形だけだ。
「うーん、そっか。 まぁ、色々在るからね」
「はい、ありがとうございます」
律儀な言葉を返す生徒に、まりさは苦く微笑む。
不思議な事だが、自ゆんの似ている様にも思えてしまう。
其処で、まりさはふと在ることを思い付いた。
まりさもまた、胴付きである事から、手が使える。
「……よっ、と!」
ソッと手を伸ばすと、半ば無理やりにようむの口の端を上げた。
ムニュっと形を変えるようむの顔。
「むゆ!? にゃにふるんえすか」
無理やり笑顔を取らされれば、如何にようむでも驚きを隠さない。
「何が在ってそんな顔してるかなんて知らないけど、しかめっ面してたってゆん生は良くならないよ?」
そう言うまりさの目と、ようむの目が合う。
理由は分からないが、二ゆの間には独特の共感するモノが在った。
*
その日の夜。
ようむは流し台の前に立ち、鏡に映る自ゆんの顔を見ていた。
自ゆんと向かい合うという事は初めてである。
其処で、ようむは鏡に映る顔を見た。
ゆっくりは見慣れている筈だが、鏡に映るソレは違う。
キツい目つきに、ムッとした口。
近付く者、触れるモノなら、皆切り捨てそうな顔。
ソレがようむの顔であった。
「先生も言ってた。 全然ゆっくりしてないね」
ようむが喋れば、鏡に映る顔も口を動かす。
否が応でも、それが自ゆんなのだと分かってしまう。
知能が高く成ったからこそ、ソレがわかる。
何とか昔を思い出そうとするが、そうした途端にようむの顔は苦味を増す。
記憶を探ろうとすれば、一番嫌な記憶がようむの頭に過った。
何も知らない、無邪気な自ゆんが、家族やご近所に何をしてしまったのか。
益々苦く成るからか、ようむは流し台を離れてベッドへと向かう。
眠る前に、ソッと腰を下ろすと、顔に意識を向けた。
だいぶ前ならば、誰に教わるでもなく笑えた筈。
ソレなのに、今ではどうやって笑えたのかが分からない。
「どうやるんだっけ? 確か……こう」
まりさにされた様に、自ゆんで顔を動かそうと試す。
そうすると、常にムッとしている口が僅かに震えた。
半ば無理矢理に笑おうと試みる。
何とか、ようむが笑顔らしきモノを顔に浮かべそうに成った時。
視界に在るモノが見えた。
ソレは物理的にようむの部屋に存在しては居ない。
だが、見えてしまう。 そして、見えたモノは笑った顔である。
そんな風に笑う者が何をしたのか、ようむは見えてしまった。
潰される同族、半死の親、千切られたお飾り。
それらを思い出した途端に、ようむは元のしかめっ面に戻ってしまった。
「……ごめんなさい」
誰に向けるでなく、ようむは詫びた。
唯一生き残った自ゆんだけが、かつて夢見た生活を送る。
悲しいかな、この場にはその詫びの音を聴ける者は居なかった。
*
特別講師が来てから少し後。
銀から金へとバッジの色を変えた記念として、一枚の写真が撮影される事となった。
訓練所の壁には、過去のゆっくり達の写真も残されている。
金色の一級鑑札を修得するというのは、それだけの価値と言えた。
「はーい、皆さん笑ってー!」
カメラを構える者は、金バッジと成ったゆっくり達に声を掛けるとシャッターを切る。
どのゆっくりも満面の笑みを浮かべる中。
一番端のようむだけがしかめっ面のままであった。