【超短編】新潮文庫の午後。
「ねえ、君は傷つきそうになったとき、どうやってそれを回避しているんだい?」と彼は言った。そして「そもそも君は傷つくことなんてあるのかい?」とも彼は加えた。
それはまるで、僕が生まれてこの方33年間、傷ついたことなんて一度もないような言い回しだった。
「傷つくことを回避するなんてできないだろ」と僕は答えた。「どちらかというと、出来てしまったその傷を、どう処理するのか。生きる能力としてはそっちの方が重要だと思うけど」
「そうか。たしかに、それはそうかもしれない」と彼はそう言ってビールを一口飲んだ。「でも、それは考えたことがなかったな」
まさか、と返したくもなったが、彼の顔からはそれが事実だとういうことが伺えた。彼は、本当にそのことに関して考えたことがなかったのだ。
ところで、と僕は言った。「傷つくことを避けるには、人との接触を避けるほかないと思わないかい?」
「いや、そうでもないさ」と彼は少し考えてから言った。「重要な問題に差し掛かったら、話題を変えたりするか、あとは本の装丁をいじったりすればいいのさ」そう言って彼はまたビールをすすった。
本の装丁? そんなことでどうやって傷つくことをやり過ごせるんだ。僕は彼の目の奥に真意を求めたが、そこには答えらしきものは見当たらなかった。
我々は区民プールにいた。そこには簡単な喫茶店のような場所があり、そこでプールを眺めながら我々は二人でビールを飲んでいた。8レーンのコースを奥まで見渡せるテーブルだ。
二週間ほど前に初めてこのプールを利用した際に、偶然ロッカーが隣だったことで我々は再会を果たした。
最初に気づいたのは彼の方だ(誰が好き好んで、ロッカールームで隣り合った人間の着替えなんて見るというのだ)。
彼が僕に気づいたのは僕の右肩にあったアザのせいだった。
僕はそのアザが理由で、小さな頃はプールの時間が嫌いだった。
にもかかわらず僕は肺が弱かったために、母親によって水泳教室に通わされた。しばらくすると人目も気にならなくなり、泳ぐことにも愉しみを見つけた。
「フランスみたいだな」と彼は言った。水泳の授業のときだ。我々はまだ高校生だった。「フランスの国の形によく似ている」彼はそう言って、僕の右肩を指差した。
「そんなことは言われたのは初めてだ」と僕は答えた。
そこから僕は、なんとなくフランスに愛着が湧き、ついには大学で仏文を専攻するに至ってしまったのだから、人生とはまったく不思議なものである。
どこで誰に出会うかなんてわからないし、どんな出来事がその先の路を決めるのかも、わからないのだ。
そして彼はそのフランスの形に似たアザを、区民プールのロッカールームで再び発見することになった。
彼が東京にいてアパレル関係の会社に勤めていることは、以前同窓会で会ったときの話で知っていた。
しかし、彼がその区民プールの近くに住んでいることは知らなかったし、彼が三年ほど前にその会社を辞めて、自分で会社を始めたことも知らなかった。
それは(もちろん、ともいうべきか)アパレル関係の会社だった。
彼には共同経営者がいた。
ベトナムのメーカーとの折衝や納期の調整を彼が行い、共同経営者の人間が主にショップ周りを統括する形で事業を軌道に乗せていた。
彼らの作り出したオリジナルブランドは、若者からそこそこの支持を得ているらしく、ファッション雑誌を開けば、そのブランド名を簡単に見つけることができた。
もちろん僕は彼と再会するまで、そんなブランドが世の中に存在していることすら知らなかった。
「やり方さえ押さえてしまえば、あとはそんなに難しくはないのさ」と彼は言った。「問題は続ける仕組みの方さ」
*
「君はどうやって、本の装丁で傷つくことをやり過ごすんだい?」しばらく経ってから僕は訊ねてみた。
僕は泡のなくなったビールを見つめながら彼の返答を待った。二人のプラスチックカップにはまだどちらも半分ほどの液体が残されている。
沈黙が始まり、そしてしばらく続いた。高校時代の我々と今の我々。我々はどのくらい傷つくことを回避できるようになったのだろう? あるいは鈍感になれたのだろうか?
僕の近くを子どもたちが声を上げながら走り去っていった。
窓越しに見えるプールには、そこに向かって平日の午後の陽光が天窓から真っ直ぐ落ちていた。我々と、子供と、その親たち。サラリーマンらしき人はいない。
「ところで新潮文庫の本はなんでいつもこう、てっぺんの部分だけがたがたしているんだい? 底の方は真っ直ぐなのに」
そう言って彼は、その手に持っていた文庫本の上と下の切り口を順番に見せた。上と下。いびつな上面と、真っ直ぐな底面。彼の言ったことは本当だった。
「今まで考えたこともなかったよ」と僕は答えた。そう言って僕はビールを口にした。春の日差しが透明のカップの影をぼんやりとテーブルの上に散らしている。
「こうやって、ごまかすのさ」と彼は言った。
「きわどい質問だったり、図星の質問が来たときにはそうやって本の装丁や何かの話をすれば、だいたいはなんとかなる。そんなもんさ。特に女の子が相手のときなんかはね」
だから俺はいつも文庫本を持っているんだ。彼はそう教えてくれた。
そのあと彼は、プールの監視員の女性の胸が大きかっただとか、いつも同じ時間に来る主婦が綺麗だとか、このあいだ一晩を共にした女の話をした。
そして、男といるときはだいたい女の話をしておけば、核心に触れるような――つまり僕たちが傷つくような――質問はされないのだとも教えてくれた。「みんなそういったくだらない話が好きだからね」。
彼はテーブルの上で組んでいた両手を、顔の前に持ってきてポーズを変えた。ちょうど会社の重役が複数の選択肢で逡巡するみたいに。
「そういうもんかな」と僕は言った。僕もなんとなく彼と同じポーズをしてみた。その手からは微かに塩素の匂いがした。(おわり)