真実はムラサキホコリの胞子とともに
「とにかく、私はサッカー部に見学に行くからね!」
リュックのジッパーを締めて、私は立ち上がった。目指すは華のサッカー部のマネージャー。
だってサッカー部には憧れのクラスメイト、悠真くんがいるのだから。
「はいっ! 彩ちゃん、サッカー部の見学? わたしもいきたい!」
後ろの席の優美さんが手を挙げた。トレードマークのツインテールも元気に踊る。
「えっ? 優美さんテニス部に入ったんじゃなかった?」
「かっこいい悠真くんを見に行きたいの! 目の保養がしたいの!」
「……欲望に正直なのね」
「えへへ!」
優美ちゃんが夏の太陽みたいな笑みを浮かべる。思わぬライバル出現……! と言いたいところだけれど、クラスメイトの女子の多くは悠真くんに憧れているみたい。
だって田島悠真くんは文句なくカッコイイ。
目はぱっちりでに鼻梁はすっと高くて、まるでアイドルみたいな顔立ち。性格は明るくてキラッキラの輝く笑顔がとても眩しい。既にクラスの人気者ナンバーワンの座を射止めている。
おまけにスポーツ万能で、入部したサッカー部では早速エースとして期待されている。
クラスでは窓側の後ろから二番目の席で、いわゆる「主人公席」に座っている。窓から降り注ぐ光を背にした横顔なんで、神々しい程。まさに祝福を貰って生まれてきたような男子である。
「みんな、悠真くん狙いなんだね……」
「憧れてしまいますわよね」
清楚な印象の琴美さんまで頬を染めている。
それに引き換え……。
隣の席で『日本、粘菌図鑑』を読んでいる日影シメジは何なのか。
廊下側に一番近い陽の当たらない席に座り、どんよりとしたオーラを漂わせる私の幼なじみ、日影シメジは対極に位置している。
幼稚園から小学校、そして中学に高校と、何度も同じクラスになったけれど、シメジはいつだって目立たなくて地味。
「じゃシメジ。また明日ね」
「あぁ」
悠真くんは疑いようもなく光属性だけど、シメジはどうみたって闇属性。太陽を浴びれば消滅しかねない。
小学校の時なんて、窓側の席になった途端、日差しが強すぎて体調を崩したこともある。
廊下側の席だった私が交換してあげたら「彩は命の恩人だ」と感謝されたエピソードを持つ、いわば筋金入りの「日陰の住人」だったりする。
って私、シメジにめっちゃ詳しいじゃん……。
気がつくと、校庭からは気の早い運動部の掛け声に交じって、吹奏楽部が吹き鳴らす管楽器が響き始めた。
と、その時だった。
一人の男子生徒が教室に戻ってきた。
短髪に日焼けしたしょうゆ顔。お調子者でそこそこクラスで存在感を放つ、サッカー部の橋場直人くんだ。
彼はクラスの人気ではナンバー2。そして悠真くんのお友達。
「さっき、悠真のヤツ、ランニング中に豪快にスッ転んだんだぜ、ダセェ」
――悠真くんが!? まさか怪我を?
教室に残っていた数人の女子クラスメイト達の注目が、直人くんに集まった。教室じゅうがすこしざわつく。
「マジかよ!?」
「それで、怪我とか大丈夫なのか?」
「あぁ、転んで腰をうってひざを擦りむいたぐらい……かな」
男子のクラスメイトに話す直人くんは、白地に青のラインの入ったトレーニングウェアを着ていた。きっとサッカー部の練習をしていたのだろう。背中や腰には茶色い汚れが付いている。
でも友達の悠真くんが転んで怪我をしたのに、何故ここに戻ってきたのかな? と、私はちょっとだけ疑問が浮かんだ。
「嘘だろ? 悠真って運動神経いいじゃん」
「エースなのに意外と間抜けなんだよ、ハハ」
直人くんは少し軽薄な笑顔を浮かべている。ちょっと好感度ダウン。話を聞いた男子クラスメイトは少し戸惑っている様子だし。
「でも、どこで転んだんだ?」
「確か……校舎裏の辺りかな。足を滑らせて。ズルッとな」
直人くんが大げさに転ぶ様子を再現してみせる。その説明のとおりなら、見ていたことになるけれど、助けなかったのかな?
悠真くんに怪我は無いみたいだけれど、優美ちゃんも心配そう。ここはやっぱりお見舞いに行ったほうがいいのかな?
「……どうしよう? 保健室にいるのかな」
「行ってみようか? 悠真くん心配だし」
その時、隣の席で椅子がガタリ、と音を立てた。振り返るとシメジだった。
自分の席から立ち上がると私の横を通り過ぎ、教室の後ろの方にいる、直人くんの背後へと歩み寄ってゆく。
「……なんだよ、日影君か」
直人くんが近寄ってくるシメジに気がついた。
悠真くんと同じ中学校出身で、明るくてひょうきん者の直人くんは、すぐにクラスの中心メンバーになっていた。人気者の悠真くんと一緒にいる事の多い直人くんにとって、シメジはきっと取るに足らない「暗いやつ」なんだろう。
表情からも蔑んだような表情が見て取れた。
私はそれを見て何故か、ちょっとだけムッとした。
「……背中、汚れてるよ」
「え? あぁ……そりゃ、どうもご丁寧に」
シメジは親切で言ったのだろう。でも何故、背中の汚れを気にしているの?
私はわけが分からなかった。橋場直人くんはシメジくんが言った事を、さほど気にしていないみたいだった。背中をチラリと見て手で汚れを払う。茶色い粉が舞った。
「直人くんはサッカー部なんだし、汚れるのは当たり前よね」
「うん……」
琴美さんが私にポツリと言う。確かにシメジはなんで汚れを気にしたのかな?
でも確かに不自然な感じがする。
シメジの行動もだけれど、直人くんの背中の汚れが。
だって、ついさっき放課後になったばかりで、しかも汚れているのは背中だけ。ソックスもハーフパンツも綺麗なまま、背中だけが茶色いススのような汚れが付いていたのだから。
まるで背中を汚れた何かにこすりつけたか、ぶつかったか。そんな汚れかた。サッカー場は芝生だし、ボールが背中にぶつかった物とも、土汚れとも違うと思う。
「それは粘菌、ムラサキホコリの胞子だ。泥じゃない」
――粘菌の胞子……!?
シメジは身体を屈めると汚れを眺め、そして確信を持ったように言った。
「……あ? 何いってんだメガネ」
いつも明るくて冗談をよく言う直人くんが、突然シメジに向かって不機嫌な声で凄んだ。
クラスメイト達はその変化にすこしびっくりした様子。私だって少し驚く。けれどシメジは怯む様子もない。
「ムラサキホコリは粘菌としては、子実体に特徴がある。紫色から茶色の胞子群を木の幹や壁などに形成する。昨日、俺は校舎裏の日陰で胞子の塊を見かけたから覚えているんだ。それが何故、君の背中に付いているのかな……と思ってね」
粘菌は日陰のジメジメした場所で成長して、移動してか胞子を発芽させる。それは例えば木の幹や、建物の壁などで。
「何いってんだ? ワケわかんねぇ、ハハ?」
直人くんはシメジくんの方を向いて怖い顔で睨みつけた。確かにシメジは突然、変なことを言っているように聞こえる。
けれど、私も同じ疑問を抱かざるを得なかった。直人くんも、汚れを指摘されたぐらいで怒るのも何だかおかしい。
「田島くんが転んだ時、君はどこに居たの?」
田島くんとは悠真くんのことだ。
シメジは粘菌の胞子がどこで付いたのか、と言う疑問を抱いたのだろう。
問いかけは、そこにいた私やクラスメイトの何人かがもやもやと心の頭の片隅で抱きはじめていた疑問――友達が転んだのに直人くんは何処ここにいるのか――を代弁しているに等しかった。
「お前には関係ねぇだろ」
「その通り。関係ない。興味があるのは粘菌の胞子の出処だけさ。校舎裏には居なかった、というのなら別にいいんだ」
下手な愛想笑を浮かべるシメジ。コミュ力は最低だけど、直人くんに対する疑問をふくらませるには十分だった。
「そうだ、オレは確かその時……グラウンドに向かう途中だった。転んだ声を聞いて……それで」
明らかにしどろもどろする直人くん。シメジの言い方じゃ、まるで直人くんを疑っているみたいにも聞こえる。
でも今、直人くんはちょっとだけ考えてからグラウンド、と言った。
「日影くん、一体何を聞いているの?」
「さぁ? それより直人くん、いつもと違うくない?」
優美さんも琴美さんも二人のやり取りに、怪訝な表情をする。
「サッカー部員の君が校舎裏に行く用事なんて無い……か。なるほど、わかった。ありがとう、気分を害したなら謝るよ。友達が転んだのに変な事を聞いて……」
メガネの鼻緒をくいっと指先で持ち上げるとシメジくんは横を向いた。
「……おまえ、さっきから何だよ、クソメガネ!」
睨みつけていた直人くんが、手を伸ばした。シメジの肩をつかもうとしている。
私は咄嗟に、誰よりも早く身体が動いていた。二人の間に割り込んで直人くんの手を止めた。
「な……!?」
「やめなよ。直人くんが本気で押したら骨が折れちゃうよ、シメ……日影くんは日陰育ちで身体も心も弱いんだから」
「彩、それは言いすぎだ」
「はは、情けねェヤツだな、女に庇ってもらってやんの」
私の行動に驚いて、そしてシメジを小馬鹿にしたように嗤う直人くん。
「まぁまぁ、熱くなるなよナオト。練習はどうしたんだよ?」
「それよか、まずは悠真のお見舞いにいこうぜ」
「お、おぅ。だな……」
別の男子生徒二人組が、その場を収めてくれた。けれど直人くんはジロリとシメジを睨むと、教室から出ていってしまった。
っていうか、私……やっちゃった。なんで、シメジなんて庇ったんだろう。
「彩。僕はそんなにヤワじゃないぞ、物理攻撃に対しての防御は、粘菌のようにしなやかに動くことだ」
腕組みをしたままぐにゃん、背筋を曲げて後ろにのけぞってみせるシメジ。キモイ動きで相手の攻撃を避けるつもりだったみたい。心配して損した。
「っていうかシメジ弱いくせに、なんで直人くんに変な言いがかりをつけたの? 悠真くんが転んだ事と何の関係があるっていうの?」
「あの直人とかいうサッカー部員、校舎裏の日陰に潜んで何かを企んでいたのは間違いない。
背中についた胞子……粘菌がそれを教えてくれた」
四角い眼鏡を指先で持ち上げると、その奥の瞳をスッと細めた。シメジは、メガネで誤魔化しているけれど、意外と眼光が鋭い。
「一体何のために? 直人くんが校舎裏に隠れていたっていうのよ?」
「すくなくとも奴が粘菌たちの楽園を踏み荒らし、ムラサキシメジの胞子を背中ですりつぶしたのは間違いない。これは……事件だ」
「そこ!? そこが事件なの!? え?」
「胞子の話は冗談た。だが……この事件、被害者が別にいるかもしれない」
「え? 被害者って、転んだ悠真くんのこと?」
それとは別の「被害者」って一体なんのこと? 私の疑問は深まった。誰か、名探偵みたいな人が出てきて謎を解き明かしてくれないかしら。
シメジは一体何を言っているのだろう?
校舎裏をランニングしていて転んだ悠真くんが被害者じゃないの?
てっきり私、「直人くんが校舎裏の日陰に潜んでいて、ランニング中の悠真くんを転ばせた犯人だ……!」とか、高校生探偵みたいな名推理を披露するのかと思ったわ。
「彩、校舎裏に行ってみないか? 事件の真相は……そこにある」
「う、うん……?」
私にはまるで事件の真相が理解できなかった。
だから私は渋々と、シメジの誘いに頷くしかなかった。
<つづく>