松賀騒動異聞 第二章
第二章
十一月中旬
駅前の図書館で、元文百姓一揆に関する史料を読み耽っていた私は、一人の老人に突然話しかけられた。
志賀伝吉さんという地元の歴史研究家が書いた「元文義民傳」という本を書棚に返却していた時だった。
「失礼ですが、・・・」という声が私の背後から聞こえて来た。
私が振り返ると、そこに穏やかに微笑んでいる老人の顔があった。
六十は過ぎているが、七十歳には未だ手が届いていないと思われる痩せた背の高い男であった。髪の毛は薄く、少し禿げ上がっていたが、その広い額は豊かで高い知性を感じさせていた。
「元文の百姓一揆にご興味がおありですか?」
本来、人見知りをする私であったが、その時はなぜか、この老人に親しみを感じた。
「ええ、このところ、この一揆に関して興味を持ちまして、いろいろと調べているのです」
「ああ、そうですか。実は、私も以前興味を引かれ、いろいろと勉強したことがありましてね。志賀さんの本を返却されていたあなたに何とは無しに親しみを感じ、不躾ながら話しかけた次第ですよ」
「そうなんですか。では、僕たちは言わば同好の士ということでしょうか」
「時に、あなたは、この一揆の原因が何であると思っていらっしゃいますか?」
極めて、初歩的な質問をどうしてこの老人がするのかと不審に思いながらも、私は常識的な見解を述べた。
「内藤治部左衛門という家老の言を採用し、藩主が苛税を敷いたことでしょう」
すると、老人はニヤリと笑いながら私に言った。
「そうです、確かにその通りです。でも、遠因もあるのですよ」
遠因もある、という言葉は私には新鮮に聞こえた。
ふと、この老人と少し話してみたいと思った。
「ご都合が良ければ、どこかでお茶でも飲みながら、その遠因とやらをお話し戴けませんか」
老人は興味を示した私の表情を見て、嬉しそうに笑った。
その老人の表情を見て、私は釣りあげられた魚のような気がした。
「そうですね。それでは、二階に少し感じの良い喫茶店がありますから、そこでお話しすることとしましょうか。お時間は大丈夫ですか?」
時間はたっぷりとありますよ、という私の言葉に老人はやはり満足そうな笑みを浮かべた。
「遠因のキーワードは、磐城騒動ですよ」
磐城騒動という言葉は初めて聞く言葉であった。
怪訝に思いながらも、私は図書館を出て、老人と一緒に下の階に向かった。
「初めに、私の方から自己紹介をしましょうか」
老人は、コーヒーを注文しながら、こう切り出した。
「小泉正一郎、と言います。昭和十八年、一九四三年生まれで、六十五歳です。生まれは東京ですが、今はリタイアして、三年ほど前から妻の郷里であるこの街に住んでいます。現役を引退してからは、することも無く、時たまここに来て、図書館の蔵書をパラパラと捲りながら暇を潰しています」
老人は私より十歳ほど上であった。頭は結構禿げ上がっていたが、穏やかながらも知性に溢れた眼は時折少年のような輝きを見せていた。
未だ六十五歳ということで、老人と呼ぶのは早いかも知れないが、どうも、この年齢の人を呼ぶ総称が無い。
老人と呼ぶには早過ぎ、熟年と呼ぶには年を取り過ぎているのだ。
私も自己紹介を始めた。
「木幡義信と申します。五十五歳ですが、一人者です。この春、会社を退職して、郷里であるこの街にUターンして来ました。今は、失業給付を貰って、再就職活動も少しは行っていますが、あまり熱意はありません。贅沢をしなければ、何とか暮していけますから。今は、ここに通って、元文百姓一揆関連を勉強しています。今まで、理科系的な仕事をしておりましたから、これからは文科系の学問をしたいと思っているのです」
と、私は笑いながら言った。
その内、コーヒーが運ばれてきた。
「この喫茶店は全国的なチェーン店でなかなか美味しいコーヒーを飲ませますよ」
老人の言葉に私も頷きながら相槌を打った。
「ええ、僕もこの店は東京でよく利用しました。仕事で、虎ノ門界隈に行くことが多く、その時、この店で時間を潰すことがあったもので。確か、虎ノ門の店では、分厚いバタートーストがコーヒーとセットならば、百円で食べることが出来ました。バターがたっぷりと塗られており、なかなか美味しいトーストでしたよ」
私の言葉に、小泉老人は少し声を立てて笑った。
「トーストと言えば、木幡さん、ご存知かな。東京駅の八重洲の地下、日本橋寄りのところに喫茶店があり、その喫茶店では五百円のモーニングセットを頼むと、コーヒーはお代わり自由で、且つ、野菜サラダと茹で卵、そして、分厚いバタートーストが付きますよ。そのトーストというのが、木幡さん、生半可な厚さでは無く、本当に分厚いのですよ。厚さはこれくらいあります」
と言いながら、小泉老人は半斤ほどの厚さを、指を広げて示した。
そんな会話をしながら、私たちは急速に打ち解けていった。
コーヒーを皿に戻し、小泉老人は少し居ずまいを正しながら、私に語りかけた。
「先ほど、元文百姓一揆の遠因をご存知か、と多少失礼な質問を木幡さんに投げ掛けましたが、これから、かいつまんでお話をすることとしましょう」
そう言いながら、小泉老人はぽつぽつと自分の見解を語り始めた。
「木幡さんは、元文百姓一揆に関してはお詳しいでしょうから、内藤六代目の政樹については十分ご存知でしょう。まあ、それはそうとして、話に入る前に、内藤初代の政長から六代の政樹までをざっとおさらいをしておきましょうか」
その後、小泉は初代・政長から六代・政樹までの藩主に関する知識を予備知識として私に与えてくれた。
メモを見ることも無く、澱みなく話す小泉の博識振りは私を驚かすに充分であった。
「初代の内藤政長は、天下分け目の関ヶ原合戦の時、伏見城の籠城戦で討ち死にした内藤家長の長男で、官位は従五位下で左馬助、息子は二代目藩主となった長男・忠興、それに、次男・政次、三男・政重、四男・政晴の四人居ましたが、次男と三男は早世しています。長男・忠興に磐城平藩七万石を継がせ、四男・兵部少輔政晴には泉藩二万石を立藩し、与えた上で、六十七歳で亡くなりました。ああ、そうです。三男の政重が臣下に下り、元文一揆で悪名高い内藤治部左衛門の家を興したのです」
「二代目を継いだ忠興は、官位は従五位下から従四位下に進み、帯刀という官職を得て、七十三歳という長寿を全うしました。忠長という名でも呼ばれています。息子は三人居て、三代目を継いだ長男の義概、早世しましたが、次男の義興(美興とも表記されている史料あり)、三男は、新たに立藩した湯長谷藩一万石の初代藩主となった遠山主水政亮が居ます。この忠興という人は猛々しい武人でしたが、奥さんには頭が上がらぬ恐妻家で、女性関係が露見した際、長刀を振りかざした奥さんに屋敷内を追い駆け回されたという逸話が残っています。但し、内政には熱心な殿様で、新田開発に力を注いだのもこのお殿様でした」
「三代目を継いだ義概は、官位は父の忠興同様、従五位下から従四位下に進み、官職名は左京太夫となり、六十七歳で亡くなりました。この人は父の忠興が長命であったため、藩主に就くのが遅く、六十九歳で忠興が隠居し、漸く家督を継いだ時には既に五十二歳となっていました。家督を継ぐ以前、言わば、若殿の時に自分の小姓であった松賀族之助を藩主の座に就くと同時に、組頭に抜擢した上で、藩の家老に取り立てたのです。この松賀族之助が磐城騒動で史書によれば悪人とされています。まあ、それはともかく、義概は若殿時代が長く、時間もたっぷりあったのでしょうな。奥州俳壇の始祖と言われるくらいの教養人となり、俳諧の道で風虎という俳号を持ち、活躍した文化人でした。何でも、俳号、風虎の虎は、屋敷が虎ノ門にあったということで、その虎という字を使ったということです。近世筝曲の父と言われるあの八橋検校のパトロンでもありました。息子は三人と言われています。僕は四人居たと思っているのですが、まあ、三人ということにしておきましょうか。長男は二十九歳で早世した義邦、長男亡き後、嫡子となったものの、後日廃嫡となった次男の義英(よしひで、よしてる、よしふさ、という呼び名あり)、三男の義孝という三人です。他、実は、大蔵(大象)という名の息子も居ました。義概自身の子か、松賀族之助の子か、史書ではいろいろと言われていますが。この大蔵は、次男・義英と三男・義孝の間に生まれています。松賀族之助同様、大蔵に関しても亡くなった時の年齢はおろか、生年、没年とも明確に記載されている史書は無いのです。無い、というのは言い過ぎでした。部分的な記述は残っていますが、生年、亡くなった時の年齢に関しては皆目判らないのです。意図的に消されたのだと私は思っていますが、果たして、実際はどんなものやら。大蔵が義概の子だとしたら、義孝は四男となります。結果から言いますと、大蔵は二十歳そこらで病死し、廃嫡となった義英の代わりに、四代目の藩主となったのは、この義孝でした。京都の貴族の娘、三条氏を母とし、義概五十一歳の時の子である義孝は父に盲愛されたのでしょうな。私は不幸にして子供は授かりませんでしたが、年を取ってからの子供は孫みたいな可愛さがあると言いますからね。おそらく、義概にとっての義孝はまさに目の中に入れても痛くないような愛し子であったのでしょう。次男の義英とは十五歳ほど離れた子でありました。義概は義泰と別名で呼ぶ史書もあります。死の前年、従五位下から従四位下に叙任され、その時に、義泰と改名していますので」
「四代目になりそこなった義英は素晴らしい風流人となりました。廃嫡され、江戸・六本木の麻布屋敷で隠居生活を送る中で、露沾という俳号を持つ一流の俳人となりました。あの有名な松尾芭蕉との交友関係も広く世間に知られるところであり、芭蕉七部集の一つとして名高い「猿蓑」の春の巻の冒頭の句に、この義英の句が採用されているくらいですから。煙草好きの芭蕉が、煙草を吸わない義英が同席する場では決して煙草を吸わなかったという話も伝わっています。芭蕉にとって、義英は大事な人であり、その貴人の前ということで、好きな煙草も遠慮したのでしょうね。風流人として隠遁生活を送っていた義英は四十一歳の時、江戸から磐城に住居を移しました。十歳ほど上だった芭蕉が死に、また、六本木の屋敷も類焼で焼け落ちたこともあり、江戸を去る良い機会だと思ったのでしょうか。今の県立磐城高校がある高月台にその隠居屋敷を構え、通称、下野守様、高月様と呼ばれていました。その後、再び、脚光を浴び、歴史の表舞台に登場したのは、自分の息子である政樹が六代目の藩主になった時です。藩主の父ということで、絶大な力を持ったことでしょう。何と言っても、政樹はその時は十三歳の少年に過ぎず、義英は六十四歳のお爺さんとはなっていましたが、藩主後見役として藩政の表舞台に登場してきたのです。実は、後で追々、お話ししますが、僕はこの義英が松賀家断絶の黒幕では無かったかと思っているのですよ」
こう言って、小泉は少し冷えてぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。
その後、少し私の顔を見た。