8 ルーシー
翌朝。
レイフェリアは窓を叩く風の音で眼を覚ました。
「んん……雪……?」
この朝は昨夜の晴れ渡った夜空が嘘のように荒れ模様だった。さすがにもう吹雪く季節ではないが、この空模様では風とともに水っぽい雪が半日は降り続くだろう。
昨夜はどうやって部屋に戻ったのか、自分でもよくわからない。
体は冷え切っているのに、鼓動が高鳴り頬が熱かったことと、夜半に帰り着いた部屋の窓から見えた月が、東に傾き始めていたことはうっすらと覚えている。
おそらく寝台に倒れこんでそのまま眠ってしまったのだろう。しかし、その眠りは穏やかなものではなく、浅い眠りの中で黒い影と、金色の光が飛び交う夢を何度も見ては飛び起きた。
あの獣を見てしまったせいだとレイフェリアは思う。
自分を射抜いた金の眼や不思議な縞模様、逞しくもしなやかな動きなどを思い返しては、心がざわざわと落ち着かなかった。ようやくぐっすり眠れたのは明け方、雪が降り始めた頃だ。今は午前も半ばを過ぎたころあいか。
──もしかしたら本当に悪夢だったのかもしれない。
服を着たまま眠ってしまったせいで、外套もショールもしわくちゃになっていた。気分は悪い。のろのろと起き出し、暖炉の上に置きっ放しの水差しから冷え切った水をカップに注いで飲み干した。よほど喉が渇いていたのだろう。二杯飲んでやっと渇きが収まり、頭が働き出した。
──昨夜の獣のことを調べたい。でも、確かめたくてもこの雪じゃ足跡なんか残ってないだろうし……仕方ない。先ずは身支度だわ。
顔を洗うといつもの簡単な服に着替える。面倒なので髪は結わずに梳かすだけにして後ろで一つに括る。
その時、ノックの音がして召使いが朝食を運んで来た。
南方からの客をもてなすため、てっきり自分の食事のことなど忘れ去られると思っていたので意外だっだが、とりあえずありがたく頂くことにする。
朝食は暖かいスープとパン、それに薄く切った燻製肉と茹でてソースをかけた根菜という、珍しくまともなものだった。きっと客たちのおかげだろう。
小卓に置かれた食事を堪能していると、驚くべきことに召使いがお茶の用意までしてくれている。見たところレイフェリアよりも若い娘だった。
この娘はごく最近雇われた者のようで、今回の訪問から見かけるようになったが、まだ口を利いたことはない。しかし彼女は、叔父の家族とその近習の召使いのように、レイフェリアを馬鹿にした素振りを見せたことはない。
きっと自分のことをきかされていないのだろうとレイフェリアは思った。この娘はただ命じられたことをしているだけなのだ。
「ありがとう」
熱いお茶を前に礼を言うと、召使いは驚いたように眼を見開いたが、慎ましく「いいえ」と応じて後ろに控えている。どうやら食事が終わるまで側にいてくれるらしい。そこで初めてレイフェリアは気がついた。
母が亡くなってから年に一度は仕方なく訪問していたが、こんな良い待遇を受けたのは初めてだった。叔父は意味もなくこんなことをする人ではないから、きっとこの後になにかがある。
案の定、食事が終わってレイフェリアが歯を整えている間に若い召使いは衣装箪笥の中から、数枚の服を選び出して寝台の上に広げていた。ギンシアからもらってからレイフェリアが自分で手直ししたものだ。
「この中からお好きなものを選んでお召し替えを。そのあとで御髪を整えさせていただきます」
召使いはそう言って、レイフェリアを鏡の前に誘った。あまり大きくはない鏡の前で数少ない衣装を次々に当てられ、服の選択を迫られる。
「誰に言われたの?」
「ギンシア様です」
レイフェリアの問いに娘はあっさりと答えた。
「そう……じゃあ、これにしようかしら」
レイフェリア選んだものは臙脂色の服だ。北方の染料で染める布地にはあまり鮮やかな赤を発色するものはないのだが、この色が昨日見た客人の衣服に一番近かった。南の地の人々が赤を尊ぶならば少しでも赤みのある服を選んだ方がいいのかもしれない、そう思って。
「素敵ですわ」
背中の紐を緩めた服が一気に被せられる。北の地方の衣服は、冷たい空気が入り込まないように首元も袖口も詰まっているものが多い。背中は交差しながら紐を結び、胴をきつく締め上げる。最近一人で楽に着られる男物の服を着ることが多かったので久しぶりの拘束感だ。
「では御髪を」
「……」
レイフェリアの髪は金と銀の混じり合ったような薄い色だ。この北国では濃い金髪が一番美しいとされるので引け目を感じるが、髪質は艶やかで梳き上げると豊かに輝く。
——だけど、昨夜見た獣はもっと豪華な色合いだった……。
髪を結われながら愚にもつかぬことを考えた。もしかしたら夢だったのかもしれないのに。そう思いたくはないけれど。
ぼんやりしているうちに髪が結い上がっていく。アーリアのように巻いたり高く結い上げずに、脇髪を編み込みながら後頭で一つに結び、後ろ髪は垂らすだけの簡単な髪型だ。派手ではないがレイフェリアの好みに合い、満足のいく仕上がりとなった。
「あら、お衣装と共布の飾り紐がありましたのね。これを結んでよろしいですか?」
「お願い」
娘は横の棚に並べられた飾り紐を手に取って言った。それは服の飾りを取り外した時にできた余り布で作ったものである。髪飾りを一つも持っていなかったので、使えたらいいと思って作っておいたのだ。
「あなた、名はなんていうの?」
鏡ごしに若い召使いを見ながらレイフェリアは尋ねた。改めて見ると、深い茶色の目をした利口そうな娘である。
「ルーシーと申します。お嬢様」
「そう? いい名前ね。いつからここに勤めているの?」
古参の召使い以外にお嬢様と呼ばれるのも久しぶりで、レイフェリアは少しこの娘に興味を持った。
「半年になります。お嬢様」
「幾つ? 私は二十歳なの」
「私は十九でございますわ」
「じゃあほとんど同い年ね」
「そうですね」
召使い──ルーシーが初めて微笑む。それは気持ちの良い笑顔だった。
「嬉しいわ」
レイフェリアも微笑み返した。同じ年頃の娘と話をしたのは初めてではないだろうか? 領主の娘であった頃から、レイフェリアは同世代の友人を持ったことがなかったのだ。近くの村人達もイェーツに遠慮してかほとんどしゃべりかけてこなかった。
「じゃあ改めて、ルーシー。あなたに聞きたいことがあるんだけど、答えられる範囲でいいから教えてくれないかしら?」
「はい、お嬢様。何なりと」
「えっと……その前に、お嬢様はやめてちょうだい。わたしはもう領主の娘ではないのだから、名前で呼んで欲しいの」
「ですが……お嬢様は前の御領主様のご令嬢で……その……」
ルーシーが困ったように口ごもる。
「名前の方が嬉しいの。わたしを名前で呼ぶ人はもう少ないから」
レイフェリアはきっぱりと言った。叔父はお前としか呼ばないし、叔母もアーリアも自分を上から見下ろしてあなた、と呼ぶ。
「それに私をお嬢様と呼んだら、ご領主様とご家族に怒られるかもしれないわ」
「……ではレイフェリア様と」
少し考えてからルーシーはレイフェリアの名を恥ずかしそうに、しかし大切そうに彼女の名を呼んだ。この娘にならいつかレイと呼んでもらってもいいかもしれないと思う。
「ありがとう、ルーシー。今はそれでいいわ。で、聞きたいのだけれど、この後私がどうすればいいか聞かされているわね?」
「はい。ご領主様からお召しがあるまでここでお待ちを、ということです。私がお側に控えさせていただきます」
要するに見張りということだろう。
──イェーツ叔父様は私の性格をよく知っているから、万が一にでも何かしでかさないように、ルーシーを付けたのだわ。だけど、この娘からは自分に対する悪意は感じられない。むしろ私を尊重している様子すら感じ取れる。
イェーツははこの娘には事情を知らせずに、レイフェリアから目を離さないように言いつけたのだろう。自分を嫌うように躾けられている召使いを寄越さなかったのは、警戒されないようにするためだ。
レイフェリアはそう考えた。
──見え透いたことを。
良い待遇に見せかけて油断させ、己の意思を通しやすいようにしようという、叔父の魂胆が見えて笑いそうになる。そういえば、約束した念書もまだもらっていない。
──このまま、うやむやにはさせないわ。
「ルーシーは半年前からここで働いているって言ってたけど、なんでこの城に勤めるようになったの?」
「昔、私のおじいちゃ……祖父がこちらの庭師をしておりましたので、その伝手で」
「えっ? そうなの? 庭師ってもしかしてエイリック爺や?」
その名を出した途端、ルーシーの顔がぱっと輝いた。
「そうです! ご存知なんですか?」
「もちろん」
レイフェリアは幼い頃の記憶を掘り起こした。
『嬢様、レイ嬢様。ほら、今年初めての薔薇の蕾ですよ』
そう言ってしわくちゃの手で大切そうに差し出された紅色の蕾。
『ありがとう、エイリック爺や。部屋に飾るわ、咲くのが楽しみ!』
老庭師はいつも優しかった。薔薇は両親が好きだった花だ。父は白を、母は桃色を、レイフェリアは赤いバラを好んでいた。
もう戻らない、幸せだったころの思い出だ。
「エイリック爺やはお元気? だいぶ前に引退したのは知っていたけれど」
「いえ、祖父は半年前に亡くなりました。私がこちらに上がったのも、祖父の願いがあったからなんです。いつか侍女としてレイフェリアお嬢様にお仕えできるように、私に教養をつけなさいって……でもまだ勤め始めたばかりなので下働きの雑用が主な仕事なんですけど」
「そうだったの……爺やはいつもとても私に優しくしてくれたのよ。働き者でね……もう一度会いたかったな……」
この一年ほとんど森の中で過ごしていたレイフェリアには、親しい人の様子を知らせる手紙も、遣いも来ない。叔父が彼女を孤立するように計らっていたからだ。引退した使用人の死など知らせてくれるはずがなかった。
わかっていたはずだが、たくさんの優しい思い出をくれた老庭師のことを思うと胸が傷んだ。
「おじいちゃんもレイフェリア様のことをずっと気にしておりました。腰と足を悪くして最後は歩くこともままならなかったですけど」
「そうだったの……あんなに働いていたものね。叔父上はちゃんと報いてくれたのかしら?」
「いいえ、レイフェリア様。だから私がここにきたのです。おじいちゃんも前のご領主様から受けた御恩は忘れないと言っていました」
「私……自分のことばっかりだったのね……ごめんなさい」
「そんな顔をしないでください。おじいちゃんは皆に見守られて安らかに逝きましたから……さぁ、お化粧もできました! お似合いですよ。御髪はどうでございますか? レイフェリア様の髪はとても艶があって綺麗だから派手に結わなくてもきれいですね! でも、私まだたくさんの結い方は知らないのですけど」
「素敵よ。ありがとう、こんな風にだれかに髪を梳かしてもらうのって久しぶり。お母様が生きておられた時以来だわ……」
「レイフェリア様……私がもし」
その時、扉を叩く音がした。
「もしもし中の方、ご領主様がお部屋でお待ちです。すぐにおいでくださいますよう」
家令が無機質な声でそう告げる。声もそうだが言い方に横柄さが滲み出ている。
「すぐに行きます」
レイフェリアは鏡の中のルーシーに片目をつぶって見せると、背筋を伸ばして立ち上がった。
いよいよ対面の時だった。
あの赤い男との。




