7 獣
「な、なに⁉︎」
レイフェリアは思わず大きく一歩下がった。
立っている位置からたったの三リール後ろ。
こんもり雪の積もった灌木の陰から、二つの金色の光がこちらを見つめていた。その光は、もさもさした大きな黒い塊の中から発せられている。
金色の光もさることながら、その大きさが異様だった。
灌木の高さはレイフェリアの背丈ほどはある。そしてその黒く見える獣は、その木とほとんど同じくらいの高さから彼女を見据えているのだ。色彩はわからないが、上半身だけなのに、その形状と質量はレイフェリアの知る動物のものではないとわかる。熊よりはほっそりとしていて、狼よりも背が高い。
「……」
生まれて初めて味わう恐怖をレイフェリアは感じていた。
後退ろうにも金色の目に射すくめられて、足が動かない。いや、たとえ動いたとしても、この距離なら跳びかかられたら終わりだろう。この獣が彼女を襲おうと思っているのならば。だが獣は微動だにしなかった。
音のない空間で、獣と娘は彫刻のように佇立していた。
それは一瞬だったのか、それとも数分の間だったのか?
「……?」
レイフェリアの視界で音もなく獣がゆっくり歩み出る。灌木の陰から身を出したのだ。顔をこちらに向けたまま。
「あ……」
その瞬間ほど死を間近に感じたことはない。レイフェリアは体を丸めてその瞬間に備えた。しかし、熱く生臭い吐息も、鋭い牙が喉に食い込む感触も襲ってこない。
恐る恐る目を開けたレイフェリアが見たものは──。
月光の下、全身を見せた獣だ。
丸い頭、太い四肢、長い尾。
「……」
驚いたことにそれは黒くはなかった。どころか、レイフェリアの薄い色の髪よりもずっと濃い黄色だったのだ。
白い光の下でもそれがわかるくらいだから、陽光の中ではどんなに鮮やかな色合いだろうか。体中柔らかそうな短い毛に覆われている。
中でも一番目を引いたのは、毛皮の上に不思議な縞模様が描かれていることだ。模様は獣の全身に及んでいる。尾の先までも。
「お前は……なに?」
掠れた声で問いかけても、当然ながら答えはない。ただ、ぐるんと首を回したので、なんだか頷いているように思えた。
獣の顔は──顔も無論大きいのだが、犬のように口吻が長く伸びておらず、どちらかというと平たい。頬の毛は白く、丸みを帯びて顔を取り囲んでおり、縞模様が一層鮮やかだ。突き出た二つの耳もまた、猫のように柔らかな曲線を描いていた。
──猫? そうだ、猫に似ているかも……大きさは桁違いだけれど。
「綺麗……」
慄いているはずなのに、レイフェリアが漏らしたのは感嘆の言葉だ。
獣は美しかった。
月光の下で光る毛と、その上に描かれた不思議な黒い紋様。いや、模様というべきか。
こちらを見つめる金色の瞳は瞳孔が小さくて鋭いのに、なぜだか凶暴な感じはしない。
姿を現した時も、その動作はゆっくりしたもので、毛皮の下で豊かな筋肉の動きが目で追えるほどだった。獣はレイフェリアにその全身を見せつけるようにしばらく立ち止まると、その巨大な肢体を沈め、雪の上に腹ばいになった。顔の位置がぐっと低くなり、背中の模様までも明らかになった。
目は相変わらずレイフェリアを見つめたままだが、敵意がないことを示すかのように、顎を前足の間に埋めている。
──まるで日向ぼっこをする猫にそっくり……。
レイフェリアは少しずつ冷静になってきた。
もし彼──レイフェリアにはなぜかこの獣が雄だという確信があった──が自分を喰らおうとしているのなら、とっくの昔に襲われているはずだ。もしかしたら単に腹が減っていいないだけかもしれないが。
──気のせいかもしれないけれど、身を低くして私を怖がらせないようにしている?
改めて獣を観察する。北国の月明かりは弱く、全てのものが灰色がかって見えるが、形や模様は何なんとなくわかった。
顔が丸く見えるのは、頬の周りに白い長めの毛がぎっしりと生えているからのようだ。額は狭く、ここにも不思議な縞文様が見える。そして、顔からはみ出るほど真横に伸びた立派なひげ。前足はとても逞しい。今は雪を踏んで見えないが、きっと鋭い爪が隠されているのに違いない。
この領地の生き物ではないことは確かだ。レイフェリアはそんなに多くの本を読んできたわけではないが、どの文献でも見たことがない。
──でも、そろそろ逃げた方がいい気がする。
驚愕や恐怖が次第に薄れていくが、警戒心がなくなったわけではない。未知なるものにはいつでも慎重に対応しなくてはならない。彼は間違いなく肉食だ。彼女を丸ごと食べても満足しないかもしれない。
レイフェリアは視線を獣に据えたまま、少しずつ後ろに下がった。野生動物は素早く動くものに反応すると読んだことがある。しかし、転ばないように注意しながらの後ろ歩きはなかなか難しい。
獣は微動だにせず、レイフェリアを見つめている。それは獲物を捕食しようとする眼ではなかった。
──なんだろうこの眼。この獣はどういう感覚を私に向けているのだろう?
三リールの距離が五リールになり、七リールに広がって行く。あと少しで出てきた裏口にたどり着けるはずだ。獣は身を伏せたまま、レイフェリアの一挙手一投足を眺めている。
「あ……っ!」
突然、獣が動いた。腹ばいの姿勢からすっくりと立ち上がったのだ。レイフェリアの体が再び恐怖で硬直する。
──襲われる⁉︎
獣はしなやかな動作でこちらに向かって来た。喉が引きつって声も出せない。しかし、逃げても無駄だとわかるくらいには冷静な自分がいた。
雪の上に深い足跡が残る。これは幻影ではなく、物理的な重さのある現実の獣なのだ。前脚のつま先は丸まっていて、その動きは優雅ですらある。
獣はレイフェリアの腕が伸ばせるところまでのそのそとやって来ると、再び腰を下ろした。そしてまた彼女を見つめたまま動かなくなった。
──これは……?
いくら竦み上がっていても、だんだん理解できることもある。この獣には害意はないのだ。
彼はふんふんと鼻を鳴らしている。まるで何かを期待し、促しているかのようだ。
後から考えても、自分がなんでそんなことをしたのか思い出せない。もしかしたら、混乱した脳が生み出した妄想かもしれない。だが、その時レイフェリアは確かにある行動をとったのだ。
座り立ちをしている獣の顔は、ほとんど自分の背丈と同じ高さにある。その鼻先へレイフェリアはゆっくりと腕を伸ばした。
震える指先の感覚はない。それが寒さからなのか、恐怖からなのかも考えなかった。
ただ、獣はその鼻先でそっとレイフェリアの指先に触れ、長い薄い舌でぺろりと舐めた。
「……っあ!」
刹那、体中にぞわりとする感覚が駆け巡り、下半身がぎゅっと収縮する、初めての感覚。自分に触れたそれは鑢のようにざらざらしていて湿っており、そして何より大変に熱かった。
あっと思うまもなく、獣は身を沈めた。そして軽く跳躍すると、一気に背後へ高く跳躍する。獣の尻尾の先が頬を軽く撫でた。
獣はそこで振り返り、レイフェリアに向けてその金色の目を少しだけ細めた。そして滑らかな動作で反転すると、一番近くの枝に飛び移る。そのまま二回ほど跳躍を繰り返し、ついには城壁の上にひょいと飛び乗って壁の向こうに姿を消した。
後には魅入られた様に息を詰めたレイフェリアだけが残された。
にゃぁ〜んこ!




