5 赤
その日、南方からの使者が城に到着したのは正午を少し過ぎた頃だった。
相変わらず重たく低い、冬の空が広がっている。
─いったいいつになれば春が来るのかしら?
すっきりと晴れていたのはレイフェリアがやっとこの城に帰ってきた日だけだ。こういう空の下ではいつ雪が降るかわからない。良くて数刻、悪くすれば数日続く吹雪になってしまう。
だからレイフェリアは、気にしながらも住んでいた小さな屋敷に両親の形見を取りに行くことができないでいた。この陰気な城に閉じ込められて、これで三日目だ。
この間、食事は全て自分の部屋に運んで取り、入浴は召使い用の浴室を使わせてもらっていた。
一度だけ、叔父の妻で領主夫人であるギンシアがやって来て、大変恩着せがましい態度でアリーナのお古のドレスを数着置いていった。それを着て南の国の使者を迎えろということだろう。それはレイフェリアのためというより、自分たちの体裁のためだった。罪を疑われて死んだとはいえ、前領主の一人娘に不遇を強いているという自覚はあるらしい。
「あなたがみすぼらしいと、この北の領地の恥になるのですよ。あなたは髪色がみすぼらしくて見栄えがしないのですから、せめて少しは見られるようにしておきなさい」
ギンシアはさも見下したように言った。レイフェリアから全てを奪ったのは叔父の一家だというのに。
彼女は王都の裕福な商家の出で、若いころから都で教育を受けていた叔父と知り合ったという。その頃健在だった父はそのことを喜び、二人王都で結婚した。叔父は父の異母弟で三男だったから、比較的簡単に事が進んだのだ。
ギンシアは貴族ではなかったものの、王都仕込みの作法や教養を鼻にかけ、北の地の文化や習慣を常に馬鹿にしている。
「せいぜい身だしなみを整えておくのですよ」
「ご親切なことですわ、叔母様」
レイフェリアは素っ気なく言った。
「まぁまぁ、あなたが可愛げがないのは知っていましたけどね。ご使者の方々にはもう少し愛想よくした方が身のためですからね」
「ご忠告に従いたいと思いますわ、叔母様」
「奥方様と呼びなさい。あなたの叔母を名乗るつもりはないのです」
「はい、奥方様」
何を言っても淡々と受け流すレイフェリアを悔しそうに睨みつけ、ギンシアは部屋を出て行った。
「やれやれ、ここには不愉快な人しかいないのかしら」
他にすることもないのでレイフェリアはノーナから裁縫箱を借りてきて、リボンや襞がごてごてついたアリーナのドレスから、ほとんどの飾りを取り去り、身ごろを自分の体に沿うように補正することにした。手先の器用なレイフェリアにはさして困難な作業ではない。
そうして過ごした三日間だった。
──ああ、だけど退屈だ。これなら自分の屋敷で日々の営みをしていたほうがよほど楽しいわ。
レイフェリアは少しでも気分を変えようと外套を着込み、城の正面に大きく作られた張り出しへと出た。
そこなら寒いので昼間は誰にも会わない。物見に見張りの兵士はいるが、レイフェリアには無関心だ。出歩くなと命じた叔父からも文句は言われないだろう。
──ああ、息がつける。
広い張り出しの上を進みながら肺の奥まで冷たい空気を吸い込む。
ここは南向きで、晴れていたらとても見晴らしのいいところだ。ところどころ凍りついた雪が石の上に被さっていて剣呑だから、底の分厚い革靴で慎重に歩く。レイフェリアは体重が軽いので、強風に煽られて転んでしまうかもしれないからだ。
レイフェリアはゆっくりと壁際までたどり着き、身を乗り出して城の外を眺めた。
幼い頃は父に支えてもらいながら、分厚い胸壁の上を行ったり来たりして遊んだものだが、今はそんなことはできない。あの頃はよじ登ることもできなかった凹凸のある胸壁は今、肘をつける高さになってしまったというのに。
「この景色だけは変わらないわ……」
城の正面には広い前庭、厩、井戸。その向こうに厳めしい城門と両側に伸びる城壁がある。城門の向こうには南へと続く街道がまっすぐに伸びていた。
「あれは……?」
遠くに見つけた見慣れぬものにレイフェリアは爪先立ちで伸び上がった。
鈍色の景色の奥に、鮮やかに小さく赤いものが見える。それはせわしなく動いていてくレイフェリアの興味をひどく惹きつけた。
赤い色はまっすぐにこちらへやってくる。目の良いレイフェリアは、まだ距離がある内から、それが街道を進む人間の一団だと気づいた。
騎馬の男が三人、後は一台の馬車である。赤く見えたのは彼らの衣服だった。いずれも原色の華やかな色合いの衣類や被いを纏っている。広い無彩色の空間の中でそれらはひどく異質に感じられた。
——あんなに鮮やかな色。どうやって染め出すんだろう?
この北の地の染料にあんなに鮮やかな赤を染め出す原材料はない。この土地で見る原色系の生地は、たいてい南の土地からの交易品である。
してみれば、あの一団は叔父が言っていた南の領地の使者に違いないようだ。
目を凝らして見つめているうちに、彼らはどんどんこちらへとやってくる。馬車には紋章がついており、それは三日月のような意匠が盾型の枠の中に表されていた。
どうやら先触れがあったらしく、城の中から数人が駆け出して城門を開け放った。ごろごろと重い音が冷たい空気に響く。その音は使者たちにも届いたのだろう。馬を急かせる様子が上から見下ろしているレイフェリアに窺えた。
「入ってきた……」
分厚い城壁を潜り抜けた使者たちが前庭を横切る。
近くで見ると彼らの身につけている衣類や馬飾りは一層鮮やかだ。汚れた雪の大地を馬鹿にするように目立っている。人数は馬車の御者を入れて四人。同じ四方侯の使者として、その数が多いのか少ないのか、レイフェリアにはわからない。
──あの人たちが私を迎えに来たのかしら? 私をここから、この北の地から連れ出していくというのだろうか……?
レイフェリアが尚も見つめていると、先頭で門を潜った大柄な男が馬に乗ったまま、ふいに顔を上げた。
上下の空間を隔てて男と視線がぶつかる。
──金?
レイフェリアがまず感じたのは、彼の瞳の美しさだった。一瞬息が止まる。
それは見たこともないような黄金の輝き。秋の麦の穂よりも、蜂蜜よりも強い色だった。
まさか、自分がここにいるとわかって上を向いたわけではないだろうに、その目はまっすぐにこちらを見ていた。
──偶然……偶然よね?
男は一行の中でも一際目立つ。彼は深く下ろしたフードの下からもわかる、意志の強そうな顔つきでレイフェリアの全身を射抜くように見つめている。下方からでは胸から上だけしか見えないだろうに。
そして、その唇が何かを呟くように動いたように見えた。
──ミツケタ。
唇がそう動いたように見えたのは、絶対に気のせいだ。彼はこんな張り出しに若い女がいることを不審に思っただけなのだ。そうに違いなかった。
息もできない時間は長かったのか短かかったのか。
レイフェリアが動けないでいるうちに彼の馬は進み、男の姿は張り出しの下に消えた。
「な……に?」
レイフェリアは詰めていた息をどっと吐き切ると、気の強い彼女にしては珍しく冷たい石の上にへたり込んだ。
──でも、あの色……透き通った金色はどこかで見たことがある気がする……。
だが、どこでだったかまでは思い出せない。
北の地ではあんな目の色を持つ者はいないから、見たことがあるとしたら、レイフェリアが幼いころ何度か滞在した王都でのことだろう。
あんな美しい目の持ち主なら覚えていると思うのだが、十年という年月を差っ引いてもあのような印象的な男性に出会った記憶はない。見た感じの年齢は二十代だろうから、当時は少年だったはずだ。
滞在していた間に父の友人の南方貴族の屋敷に何度か招かれたことはあるが、恥ずかしがり屋で両親に甘えてばかりだったレイフェリアが接した人間はわずかだったのだ。
「きっと、王都で見た珍しい宝石とか、飾り物の色だったのかも……」
レイフェリアはそうと決めて立ち上がった。
──私はなんで、こんなところで腰を抜かしていたのだろう?
自分が少々情けなかった。こんなところを異国の客人に見られなくてよかったと思いながらお尻の雪を払う。
もうそれ以上散歩を続ける気になれず、レイフェリアはこっそりと部屋に戻った。
どうせ、叔父から呼び出しがかかるまで部屋からは出られない。もったいをつけて、客を城門で待たなかった叔父は、今頃この真下のホールで一行を出迎えているはずだ。
客たちははおそらく部屋を与えられてからしばらく休息するだろう。そして、今夜にでも叔父の家族と晩餐を共にし、この度の一件についてやりとりがなされるはずだ。
自分が呼び出されるのは早くても明日以降になる。そう考えたレイフェリアだが、部屋に戻った後も好奇心が抑えられず、落ち着かなかった。
階下からは騒がしく人々が行き交う気配が伝わってきて、無理やり開いた本の字面がさっぱり追えない。レイフェリアは諦めて扉を細く開けて階下の気配を窺った。大声で指示を出す声、低く応じる声、そして甲高い耳障りなアリーナやギンシアの声。
しかし耳を澄ましても、分厚い石壁で仕切られたこの城では、その会話の中身まではうかがい知ることはできなかった。
ただ──。
なにかが起きる。
なにかが変わる。
なにかが自分の運命を変えようとしている。
それだけはレイフェリアにもはっきりと感じられた。