4 奸策
ちょっと長めで、ごめんなさい。
「獣」
今日、この好きでない叔父に驚かされるのは何度目だろう? それにしても獣とは、あまりにも突拍子もない。しかも人を喰らうとは物騒な話である。
「これはまた、いったいなんのお話ですか?」
予想をはるかに超えた叔父の言葉が全くわからない。
「まぁ、誰しもそう思うだろうな。だが私は見たのだ。ずっと昔にこの目で、その……獣を」
叔父はレイフェリアから目をそらし、再び南の窓へ体を向けた。
「かつて私が王都で暮らして頃──およそ二十年も前のことだが、客として招かれた先代の南方領主の屋敷で、見たこともない獣に襲われたのだ。そして私を助けようとした部下は首を噛まれて殺されてしまった」
「……」
「信じておらぬな。しかし、私はその姿をまざまざと思い出すことができる。あれは、体全体に気味の悪い模様のある、三リールはある化け物だった。私はほうほうの体で難を逃れたが、その時に受けた傷が今もこの腕に残っているのだぞ」
叔父はその時のことを思い出したのか、左の腕をさすっている。
「疑うなら見せてやろう。化け物の爪痕だ。分厚い服を着ていなければ、腕がもげていたかもしれん」
そう言って、叔父は上着を脱いで袖をまくった。確かにその生白い腕には並行に走る三本の傷がある。レイフェリアは初めてみるその傷跡を注意深く観察したが、一見しただけでは化け物の爪跡とは判断しかねた。
「なぜ、獣が招いた客を襲うのです。客だったら広間か客間にいたでしょうに」
「それは……私がある女性と庭の片隅で親しく話していたのだ……まぁ、その時は私も独り身だったからな! 若気の至りと言うやつだ!」
「……」
それは明らかに人に言えないことに違いない、とレイフェリアは確信した。
いったいどこの暗がりで、どんな身分の女性と何をしていたのか、想像に難くない。叔父は伊達男を気取っていて、今でも見た目はそう悪くないのだ。
「……で、その獣が南方の領主家の持ちものだと言う確証は?」
「ある」
イェーツは衣服を直しながら言った。
「私が獣に襲われた時、物陰から確かに聞こえたのだ。『主様おやめください、ここは王都です!』と叫ぶ声が。あの声は領主家の家令のものだったと記憶している。獣は主にけしかけられて人を襲うのだ。そしておそらく、屋敷内で飼われている……密かに人間を喰ろうてな」
「まさか、そんなことは……」
「いや、私が転げるように逃れる際に、確かに領主の声で聞こえたのだ。『次はない』とな。なぜ領主があの獣を操っておるのだ」
「ですが、それだけでは確証とは言えますまい。それに叔父上がその獣に遭遇したのは二十年も昔の話。普通の獣はそれほど長くは生きられません。仮にその獣が南方領主家で密かに飼われていたとしても、もう死んでいるか、老いてしまっているのでは?」
「いや、まだいる。私は調べたのだ。王都に人を遣って」
「人まで雇って?」
合理的な叔父にしては、やけに固執すると思いながら詳しい説明を求める。
「あれから私は南方の領主とは会ってはおらぬ。その後継者──つまり、お前を妻に迎えるかもしれない男は、ゼントルム王と気が合うらしく、領地から王都に出向くときが多いのだ。その滞在中に探索を得意とする人間を雇って、屋敷に忍び込ませた。数日の間、真夜中を狙ってな。昔、私が襲われたのも深更だった」
「……」
招かれた屋敷で真夜中に何をしていたのだと言う質問を飲み込んで、レイフェリアは話の続きを待つ。
「南の国柄は野蛮なほど開放的だ。王都の屋敷とはいえ、無駄に広く樹木も多い。密偵を一人忍び込ませるのは案外容易い。屈強の戦士が多いから、襲われることはないと高をくくっているのだろう。そして七日目にそれは現れた。樹上に潜んでいた密偵の下には池があった。突然林の中から現れた獣は、悠々と池を泳いでどこかに消えたそうだ」
「獣は泳げるのですか?」
水浴びをする動物を想像したレイフェリアは、なんだかそれほど怖くなさそうだと思った。
「知らん。私は報告を受けただけだ」
「……でも話を聞く限り、その獣は人に害をなしてはいませんね。それが昔、叔父上の目撃した獣と同じだとは言えないのでは?」
「いや、どちらの場合も私の見た獣と、大きさと形状が同じだった。それに普通、そんな獰猛な獣を屋敷の中で放し飼いにしたりしない。それこそ反逆罪の疑いをかけられるかもしれないのに」
「……」
「密偵は恐ろしくなってそのまま逃げ帰った。所詮金で雇った男だからな。真実の追求よりも自分の命を優先したのだ。だからお前の役割は、その獣の存在を証明することである」
「……それは私に自分の命は二の次にしろ、ということでございましょうか? 叔父上の話が本当ならば獣を見つけた途端、私は襲われますよね。そうなれば証明どころの話ではないと思います」
「襲われないように殺すのだ。この毒薬ならひと舐めしただけで効果がある。これを肉片か何かに塗りつけ、餌として喰わせれば良い。そして死んだ獣の体の一部を切り取って持ち帰れ」
理不尽極まることを言われながら渡されたのは、レイフェリアの掌に収まるほど小さな黒い小瓶だった。
「……これは?」
「先だって西方の商人から手に入れた毒薬だ。たったこれだけの量で熊も殺せるそうだ」
「こんなものを持っている方が反逆罪に問われるような気がいたしますが」
「百倍に希釈すれば心臓の薬にもなるらしいから問題はない。お前は体が弱いと言うことにしておく」
「でも……」
「話はここまでだ。よもや断わりはすまいな。お前にしても、ここで飼い殺しのように人生を終えるのは、お前の本意ではなかろう? 父親の名誉回復をさせてやると言っているのだ」
レイフェリアはそれ以上何を言っても無駄だと悟った。
叔父の話が本当なら、とても危険な役割を背負うことになる。しかも、万が一その獣とやらを殺せたとして、その後のレイフェリアの身の安全は誰も保証してくれない。もとより失敗すれば命はない。
──でも、ここで断っても最悪一生幽閉されるのかもしれない。
どん詰まりの状態だった。
引き受ける選択肢しかないのだ。その後のことなど尋ねたところで無駄だろう。適当なこと言って丸め込まれるだけだ。
「本当に父の汚名を雪いでくださるのですか?」
レイフェリアは北方領主直系の証である紫の瞳でまっすぐにイェーツの目を見つめて尋ねた。
叔父が南方とその領主を嫌っているのは知っていたが、今の話を聞くと、それはもう憎しみといってもいいくらいだ。理由は聞いても答えてはもらえまい。だからレイフェリアにはこの話に乗って見せるしかない。
南方領主の後継の妻になるのかどうかはわからないが、もしその獣と対峙したとして、自分の特技である跳躍で活路を開けるのなら……。
「では叔父上の署名と印璽を押した誓約書を認めていただきたく。私のお粗末な能力については叔父上もよくご存知のはず。もし役目を果たせたときには……」
窓の外の雪の反射を受けて、その目は宝石のように煌めき、イェーツを射抜く。彼はその目を見つめ返すことができなかった。
彼の兄と同じ目。だが、兄よりもずっと強い意志を秘めて、それは煌めいたのだ。
イェーツは一瞬言葉を飲み込み、ごくりと喉を鳴らしてからうなずいた。
「わ、わかった。約束しよう。お前がことを成した暁には、父親の名誉回復を真国王に願い出よう。私にしても腹違いとはいえ、兄に当たるのだからな、二言はない」
「では、必ず誓約書をご用意くださいませ。私の目の前で叔父上の署名と北方領主の印を添えて。私にしたところで命がかかっておりますので」
「……わかった。準備しておこう。お前の目の前で署名してやる」
「左様でございますか。ならばお引き受けいたしましょう」
レイフェリアは握りこんでいた黒い小瓶を外套の大きなポケットの奥に突っ込んだ。
「用はそれだけだ……下がれ」
「失礼いたします」
長い髪を翻してレイフェリアは叔父の前を辞した。
レイフェリアに用意された部屋は召使部屋や物置ではなく、二階の裏の部屋だった。
この城は三階層になっていて、一階の表側には大広間や控え室、裏側には厨房や召使達の仕事部屋がある。三階が領主家族の私的な空間、二階の表側が書斎や客間となっているから、以前から考えるとかなりの待遇の良さである。
とはいえ、その中で一番北で狭い部屋に案内された。廊下を隔てた他の部屋は現在掃除中のようで、扉や窓が開け放たれ、風を通してあった。
叔父のイェーツは南方に対して非常な偏見と憎悪を持っているから、これはよほど気を使う客人が訪れるのだろう。
持ってきた荷物を簡単に片付け、レイフェリアはとりあえず部屋に落ち着いた。本当なら温かいお茶が欲しいところだけれど、そこまでは望めそうもない。
暖炉も焚かれていなかったので、レイフェリアは外套も脱がずに年代物の椅子に背中を預け、頭の中を整理する。
──国王の推薦で南方の御領主は私を妻に迎えるのだろうか? まぁ、王の推薦があれば誰でもいいのかもしれないけれど。貴族社会に忘れ去られた私を迎えるために一体どんな人が来るのだろう?
一度旅立てば容易にもどって来られないことは確かだ。最悪死んでしまうかもしれないのだから。
「死ぬ? 獣に襲われて? 馬鹿馬鹿しい」
レイフェリアは声に出して嘲った。
おそらく叔父は南方領主になんらかの恨みがあるのだろう。南方領主の屋敷に珍しい動物などが飼われていたくらいは信じてもいい。南の国には、北国では見たこともないような大きさの、動物や鳥が沢山暮らしているということだから。
──だけど、人を襲う獣なんか屋敷で飼うわけがないわ。それも放し飼いだなんて。
おそらく叔父は見たこともない動物がじゃれついたのを、襲われたと思いこんだのではないだろうか? 部下が死んだ話も、腕の傷の話も叔父が一方的にそうだと言っているだけだ。証拠だと言い張る傷跡もそれほど重症には見えなかった。
──多分叔父上は、私を使って南方領主家に因縁をつけようとしているのかもしれない。私のことはどうでもいいはずだし、なにかの事情で南方を嫌って……いいえ、憎んでいるのは明らかだから。
南方領主家を貶めて、レイフェリアもここには帰ってこられないように企んでいる。
「父上のことを餌に、私を焚きつけようとしているのかも……でもそうなれば」
父の名誉回復などなし得るわけがない。
レイフェリアは天井を睨みつけた。
──とにかく、判断材料が少なすぎる。これでは何もつかめないわ。父上のことは叔父の力なんか初めからあてにはしていないけれど……。
いざとなれば、領主の後継と親しいという、国王に直訴する覚悟もしておかなくてはならない、とレイフェリアは考えた。
そのためには亡き母から渡された父の形見を、叔父に知られないように持ち出す必要がある。レイフェリアが前領主の娘であるという、唯一の証となるはずのものだ。
住んでいた小さな屋敷には値打ちのある物はなにもなかったけれど、父と母の形見の品だけは大切に隠してあるのだ。もう帰ることが許されないのなら、誰かに頼んでそれだけでも持って来たかった。自分の唯一の家族なのだから。
──仕方がない。誰も頼めなかったら、こっそり馬を借りて自分で取ってくるまでのこと。
レイフェリアはそう考えると、暖炉にくべるものを得るために裏から厨房へ降りた。そこでローナに頼んで薪と火種をもらう。ついでに茶葉も分けてもらえたから、お茶を沸かすこともできるようになった。
これで十分だった。この先、どこへ行こうが、何をさせられようが、生きていくのに最低限のことは自分でできる。それが今のレイフェリアの矜持だった。
お湯が沸くまでの間、レイフェリアは図書室に行って本を借りることにした。あまりうろうろするなとの叔父の命令だったが、この館に図書室に行くような人はいない。
レイフェリアはそっと部屋を出ると、二階の奥にある図書室へ足を運んだ。その部屋は薄暗くてかび臭く、長らく誰も掃除していないことが明白だった。
──昔は父と好きな本を選んだり、自分が読んだ本を見せ合ったりした場所なのに。
本を探すのは造作ない。どこにどんな本があるのか忘れてはいなかったからだ。雪明りで背表紙を確認し、レイフェリアは南の地方に書かれた本を数冊選ぶと、そっと自室に戻った。幸い誰にも会わなかった。
部屋に戻ると暖炉がいい具合に燃えていて暖かい。部屋が狭いのが幸いし、暖気の巡りがいいのだろう。湯も沸いていて備え付けの茶器でお茶を淹れる。ノーナのくれた茶葉は上等だったようで良い香りが部屋に漂った。
ランプがなかったので、炎を明かりにする為、敷物の上に本を広げる。
──これは昔、父と見たことがあるわ。
あれ以来誰もこの本を開く者はいなかったのだろう。ページが所々張り付いている。濃い青い空に広がる大草原の絵は子供の頃のレイフェリアが憧れたものだ。
見たこともない花や獣、大河に湖、そして城や街。
石造りの建物は北の地と同じだが、石の色が赤っぽくて明るい。水路をうまい具合に取り入れて街中に緑が溢れている。
こんな豊かで綺麗なところに住む人たちが、私のような田舎者を歓迎するだろうか?
「違った。ただの王様の命令で仕方なく迎えに来るのだった」
だったら、こんな陰気な場所と私を見てがっかりするかもしれないね。
レイフェリアは窓の外に目をやり、遥か南の地方からやってくる一行に思いを馳せた。
彼女がこの北の領地から出たのは、幼い頃に国王に拝謁する両親に連れられて、真国王都に数回滞在した時だけだ。都は美しく珍しいものに溢れ、他領の人たちも大勢いて、夢のような滞在期間だったが、父が亡くなって以来、七年間一度も外の世界を見たことがない。一番近い村にも月に一度程度しか寄り付けなくなったのだ。
だからここだけが彼女の知る場所で故郷だった。
それなのに今日の驚くべき話。七年前、母とともにこの城を追い出した時のように、叔父は自分を厄介払いしようとしている。以前は父の形見を抱いて泣いたものだった。
けれど、今のレイフェリアには涙など一雫も浮かばなかった。レイフェリアにとってこの七年の時は止まっていたのだ。
──今、時は動き出そうとしている。
たとえ、向かった先に恐ろしい運命が待っているとしても。
くどい展開でしたね。もう少しの辛抱です!