31 北壁
翌日。
「おはようございます」
朝食の皿を片付けにルーシーが下がった後、オセロットとマヌルが部屋に入ってきた。二人とも、非常に難しい顔をしている。
「おはよう。今日も暑くなりそうね」
二人が暗い顔をしている理由も、これから言いだそうとしている中身も予測がついているレイフェリアは、ことさら普段通りに二人を迎え入れた。
「レイフェリア様、その……申し上げにくいのですが……」
オセロットが悲壮な顔で口を開く。
「ええ、知っているわ。この部屋を出て行けというのでしょう?」
「……なんと、お察しになっておられましたか!」
「ええ、昨夜偶然、御領主様にお会いしたので、その時に少しお話を伺って」
「なんと! そうでございましたか!」
オセロットは非常に驚いたようだった。その様子からみると、リューコが普段、知らぬ人間に会うことはほとんどないのだろう。レイフェリアの様子を見ながら、おずおずと尋ねてくる。
「偶然、とおっしゃられましたね。それでその……どこで会われて、御領主様はどんな御様子であられましたか、お伺いしても……?」
「構わないわ。昨日あまりに暑かったので、申し訳ないと思ったんだけど、夜になってからこっそり屋上で涼んでいたら、どうやらお出ましになっておられたみたいで。少しだけ話をしたの、御領主様のお考えを伺ったわ」
「お考え、と申しますと」
「私を花嫁候補とは認めないってことをきっぱりと言われたわ」
取り繕っても仕方のないことなので、レイフェリアは正直に打ち明けた。
「……」
「そんな顔しないで、オセロット。別に構わないのよ、私は。それでどこに行けばいいの?」
「き、北の、本丸の北にある、小さな小屋でございますっ……! こんな、こんなお美しいお嬢様を、あんなところに!」
マヌルは泣かんばかりに声を震わせて言った。よほど腹に据えかねているのだろう。オセロットも、深く頷いて同意する。
「お屋形様も、せめてティガール様がお戻りになられるまで、お待ちになればいいものを……」
「まぁ、北にあるの? じゃあ少しは涼しいかもね。荷物はこれだけよ。ルーシーが戻ってきたら面倒臭いことになりそうだからすぐに行きましょう!」
「まぁ、趣があるわね」
渋るマヌルとオセロットに連れていかれたところは、本丸の真裏にある木立の中の、石造りの小屋だった。木立の後ろには北壁と呼ばれる北側の城壁が続いている。
小屋は昔は氷室だったそうで、小さいがしっかりした造りだった。日陰を好む蔦がびっしりと壁を這っている。
周りの木立は南方独特の大きな葉を持つ種類ではなく、幹も細くてひょろひょろしている。日陰になっているからだろう、下生えも少ない。薄暗くて陰気な場所だった。本丸からは二十リールほど離れている。
古びた扉を開けてみると、小さな段がある。小屋は半地下になっているのだ。その割に天井は高い。
「ここなの? 窓はないけどほんのり明るいのね、それにとっても涼しいわ」
「はい、もともと氷室だったので半地下ですし、北壁と本丸に挟まれて風が通ります。おまけに両方の影になっておりますので、一日陽が差し込むことはほとんどないかと」
オセロットは申し訳なさそうに説明した。
「今は氷室はないの?」
「ございます。この城の北に洞窟があって、そこに貯蔵した方が氷が長持ちいたしますので、いまはそこを使っております。ですからここはもう長い間、使われていなかったのです」
「洞窟があるの? 行ってみたいわ」
「いつかお連れいたしましょうね。あそこは山の麓で夏でも寒いのです。土壌や植物も様子が違っていて、北方を思い出せるかも知れません」
「それは興味深いわ」
レイフェリアは北壁の向こうの山々を見上げて言った。ここなら今までより自由に動けるだろう。それに比べたら、窮屈な本丸を追い出されたことなど、どうと言うこともない。
「レイ様ぁ!」
そこに息を切らせてルーシーが駆け込んでくる。
「これは一体どういうことですか? お部屋には何も残っておりません!」
「ああ、ルーシー。あのね、あのお部屋は暑くて過ごしにくくなったから、涼しい部屋に替えてもらったのよ」
できるだけ穏便な言葉を選んでレイフェリアは説明した。
「お部屋? お部屋ですか? ここが?」
ルーシーは呆然と、薄暗い部屋とも言えないような土間を見回した。
「そうよ、元氷室だったそうで、このお城で一番涼しいお部屋だそうよ」
「ですが……こんな暗くて、何もなくて……これではあまりに……一体このお城はどうなっているんですか⁉︎」
最早ルーシーは涙を浮かべている。
「ご領主様からのお言葉はなし! ティガール様も黙って行ったきり戻られない! 意地悪な奥様はいる! こんなのってあんまりです! オセロットさん! レイフェリア様をなんだと思っているんですか? こんな仕打ちをするためにわざわざ北方から呼んだんですか?」
「も、申し訳ございません!」
オセロットはルーシーに対し、深く腰を折ったまま言った。
「誠に……誠に、おっしゃる通りでございます。この件はティガール様はご存知ではないと思われます。そして、ティガール様の北方行きは御領主様のご意見は聞かずに、王都を訪ねた道行きの延長で……言わば独断専行で行われたことだったのです」
「だからこの仕打ちなんですか? レイ様はれっきとした前北方領主様の一人娘でいらっしゃるのに! これじゃあ、あの酷いお身内と変わ……」
「ルーシー、控えなさい」
「あ……」
静かな、しかしきっぱりとしたレイフェリアの言葉に、ルーシーははっと直立した。
「確かにこのお部屋は少し暗いだけで清潔だし静かよ。今から寝台や家具を運んでもらえるそうだから大丈夫。何よりとても涼しいわ。本丸のお部屋は綺麗だけど、あのままあちらにいたら私、溶けてしまいそうだったもの。これから夏だし、ここでいいのよ」
「ですが、ここは一部屋しかなくて……」
「そうね、ルーシーは本丸にどこか別のお部屋をもらってちょうだい。ここには私一人で住むわ。平気よ」
「平気だなんておっしゃらないでくださいまし。こんなの、あの嫌な奥様の仕業に違いないですよ!」
余程悔しいのだろう、俯いたままルーシーがしゃくりあげる。
「ふふふ……ありがとう、ルーシー。でも、気持ちはわかるけど堪えてちょうだい」
レイフェリアはルーシーの髪を撫でながら言った。
「わっ、わかりました。でも私……悔しいです……」
「私なら本当に大丈夫なのよ。ずっと一人で暮らしてきたしね。ルーシーは近くにいてくれるんでしょう?」
「勿論でございます!」
「マヌルは大丈夫なの?」
「私の主はティガール様ですから、彼の方から命が下るまでレイフェリア様のお側にいさせてくださいませ。ここはちょうどお城の厨房の裏です。このお城の厨房は大きいので、幸い召使い部屋はたくさんあるのです。ここから一番近い部屋を私達用に用意して、いつでもすぐにレイフェリア様の所に行けるように取り計らいますわ。その点はご安心してくださいまし」
マヌルは力強く頷いた。
「心強いわ」
「ですが、ご不便はいかんともし難く……できるだけ早くに改善はいたしますが」
オセロットは早くもその算段を考えているようだった。
「ありがとう。厨房がすぐそこだから井戸も近いし、お湯もふんだんにあるのでしょう? 本丸の部屋よりも便利なくらいだわ」
その日の午後はルーシーとマヌルが大騒ぎしながら、少しでもこの小屋を居心地良くしようと頑張ってくれた。
オセロットも下男を使って調度品を運び入れてくれたので、夕方にはすっかり見違えるようになった。土間には清潔な藁と敷物が敷かれ、寝台のそばには衝立も置かれた。小さいながら卓とそれを囲む椅子もある。レイフェリアも久々に体を動かせて、すっきりした気分になった。
ただ一度、ナドリネが様子を見に来た時を除いて。
彼女は午後を過ぎた頃に、大忙しのルーシー達を憐れむように見ながら、侍女を従えてやってきた。
「おお、なんと言う見苦しさであろうのう。見てみよキティ、あのむさ苦しい様子を」
「誠に」
「ですが、ある意味お似合いかと」
侍女たちも判で押したように呼応する。レイフェリアは最初に挨拶をしたきり、相手にしなかったので彼女らは好きに喋っているのだ。
「やはりこなたは、ご領主様のお眼鏡に叶わなんだか。おお、ほんに暗くて陰気な場所じゃ。わかっておろうが、こなたはこの汚らしい小屋に引っ込んで、表に出て来るでないぞ」
ナドリネはそう言い捨てて、笑いながら本丸の方へ去って行った。
そうしてこの日も暮れる。
初めて夜を過ごす氷室の小屋には既に調度が整っていた。
元いた部屋の家具は大きくて運び込めなかったので、新たにどこからか持って来たものだ。豪華さは比べようもないが、こじんまりと清潔で文句はない。
厨房が近いせいで湯もふんだんに手に入り、持ち込んだ大きめの桶で簡単な湯浴みもできるのだ。ルーシーは何度も振り返りながら、明日の朝早くまいりますと、夕食の盆を持って下がった。
「また一人ね」
夜は小さな燭台のロウソクを吹き消すと、途端に部屋の中は真っ暗になった。
昼間は城から伝わってきた人々のざわめきも、今は届かない。厨房で働く者は朝が早いので休むのも早いのだろう。
レイフェリアはそっと扉を押し開けると、昨夜と同じように寝間着のまま外に出た。
さすがにもう屋上までは登らないが、夜風にあたる心地よさを覚えてしまったので、少しだけ外に出たかったのだ。湯浴み後の髪も乾かしたい。
ふわふわと外に出ると、黒々とそびえる本丸と、北壁が夜空を遮っていた。もっと広い空が見たい、そう思ったレイフェリアはそっと木立を抜け出し、城の側面に出る。
そこは城の東の棟の外側だった。
東の棟は本丸より低く、二階層しかない。つまり正面から見えた鷲のような城の左の翼に当たる。その下から見える夜空は、昨夜見た本丸の屋上には及ばないものの、十分広かった。風も通る。
──流石に城壁の上までは跳べないわね……衛士もいるだろうし。仕方ない、地上の散歩で我慢しよう。
ところどころに焚かれている松明のお陰で、目が慣れてくると歩くのにも不自由はない。この付近には倉庫などもなく、気ままに歩き回れた。
「すごい星空だわ。手で掴めそう……」
腕を伸ばして空を見上げる。昨夜も思ったが、北の空とは星の形が違う。銀河は広く明るく、夜空を流れている。
「あ……」
城壁の上にちらりと動くものが見えた。昇り始めた月を紐状の影が掠める。
──獣だ!
二晩続けて獣が現れたのだ。先ほどの影は長い尾だった。
「……」
そして獣は飛び降りんばかりに、壁の隅に爪をかけてこちらを見下ろしている。
「……なんで? 夕べは逃げるように隠れたのに?」
しかし、その声が聞こえたかのように獣はすっと壁の奥に姿を隠した。てっきりこちらへ飛び降りてくると思ったレイフェリアはやや拍子抜けして目を凝らす。
──でもなんだか妙だわ。昨夜の獣と動きが違っている気がする。今夜の方が素早いと言うか、動きが滑らかだ。体つきも一回り大きく感じた。
「まさか、二匹いるとか?」
考えてみれば、獣が一匹だけと言う根拠はどこにもない。レイフェリアがまた獣が姿を表さないか城壁の上を見ていると、すぐそばに何かがいる気配がした。
獣か! とレイフェリアが飛び退りつつ振り向くと、そこにいたのは大きな男だった。
「ティ、ティガールさま……」
「何をしていた?」
彼は二歩でレイフェリアの目の前に立ちふさがった。
下半身に衣をつけただけの半裸である。そしてやはり全身に紋様が浮き上がっていた。前夜、彼の父の領主の肌の上に同じようなものを見たが、彼のほうがより鮮やかで美しい。
「あ、あの」
今夜ティガールが戻ってくるとは一言も聞いていなかった。もっとも今日一日中、城の裏側にいたのだから知らなくても不思議ではないが。
「髪を乾かすために散歩を……」
レイフェリアはもごもごと説明した。それにしても彼は一人なのだろうか?
「しておりました」
「こんな夜中にか?」
ティガールはすっと腕を伸ばし、月明かりに鈍く光るレイフェリアの髪をすくい上げた。
「なるほど、少し湿っている……」
「いつお帰りに?」
「たった今」
「供の者達は?」
「明日の朝着くだろう。俺一人、先に戻った」
「……」
初めての城に着いてすぐに取り残されたのだ。ルーシーやマヌルがいても、後ろ盾となるこの男に放って置かれたのは、辛かったのだと今更ながら思った。
圧倒的に言葉が足りない。お互い本音はさらけ出してはいない。
もどかしい。
「あなたに会うために半日駆け通した……待っていたか?」
「ええ。待って、いました」
ぐんと腰が引き寄せられる。抵抗はおろか、声すら出せないうちに唇が覆われた。
ルーシーが読者様の代弁者となっております。
まだまだ全てを語っていない部分もありますので、ゆったり見守ってくださると嬉しいです。




