30 領主
どなたですか? とはレイフェリアは尋ねなかった。
彼は月を背にした塔の影の中にいるので、様子はよく伺えないが、その体つき、その声、放たれる雰囲気からわかってしまったのだ。
この男が現領主であり、ティガールの父、サーザン・リューコであることが。
男は肩を大きく揺らせて前に一歩踏み出した。
その上半身が月光の下に浮き上がる。彼は背が高く体格も立派だが、その骨格を残したまま肉が落ちたような体つきで、左の肩がやや下がっている。老人と呼ぶにはまだ、ほんの少し間がある、そんな年齢か。
元々は息子のように豪華な金髪だったのだろう。しかし、今では真っ白な髪が彫りの深い顔を取り囲んでいる。所々に黒い毛束が残っていた。
有り体に言って、リューコの顔貌は息子にあまり似ていなかった。
ティガールは容貌の華やかさの中に、どこか朴訥とした雰囲気が漂う美丈夫だが、リューコの容貌は整ってはいるが、ひたすら厳しい。
息子と変わらないのはその金色の双眸だった。頼りない月光を受けてそれは、鋭く見る者を射抜く。
老いて衰えてなお、誇り高い孤高の獣──そんな印象の男だった。
「そなたは、なんで一人で踊って、喋っておったのだ」
「……」
「どうした。そなたは口がきけんのか?」
リューコがまた一歩前に出る。
その右肩がやはり妙に揺れることにレイフェリアは気がついた。マヌルが言っていた足を悪くしたというのは左足であるようだ。痛めた足を庇うために右足が早く動くから肩が揺れるのだろう。
レイフェリアはゆっくり片膝をついて頭を下げた。
「……お初にお目にかかります。南の御領主様。私は前北方領主エイフリークの娘、ノーデン・レイフェリアと申します。ご挨拶が遅れて誠に申し訳もございません」
「……私は南方領主リューコである。挨拶できなかったのは、私が表に出なんだからだ。エイフリークの娘、顔を上げよ」
レイフェリアは素直に顔を上げると、覗き込むリューコの瞳とまともにぶつかってしまった。そのまま瞬きもせずに二人はお互いを探り合う。
「なるほどな……」
「は?」
「……で、もう一度問うが、そなたはここでなにをしておったのだ?」
「あの、今日の昼はとても暑くて、まだ気候になれずに少々弱っておりました。ですから、涼しくなってから外に出たのです」
「ほう。で、どうやってここまで登った?」
「……」
──内から階段を上って来たというのが無難な答えではある。しかし、それでは嘘になるし、きっとこの男には見抜かれてしまうだろう。一応淑女たる身にはあり得ない失態だが、ここは正直に言った方がいいとレイフェリアは考えた。
「窓から出て庇を辿ってまいりました」
「北方領主の紋章は確か鷹であったか」
「左様でございます」
「なるほど。そなたも直系であるという訳だ。で、どうであったかな?」
「はい。ここはとても広くて風が通って気持ちがよく……つい体が動いてしまいました」
「それで舞っておったのか」
「はい、お見苦しいところをお目にかけてしまい……」
「なにを見た?」
「……は」
「ここでなにかを見たかと聞いておる。私の参る前にな」
ここでもレイフェリアは正直にならざるを得ない。
「ご領主様のおいでになる直前に……獣のような影を見ました」
「ほぅ……獣とな?」
「いえ、でも……月明かりで、雲の影をそのように見間違えたのかもしれませぬ。獣などと」
我ながら必死の言い訳だとレイフェリアは汗をかいた。リューコはおそらくわかって尋ねているのだろう。あっさり認めたのだ。
「獣だよ。そなたが見たのは」
「え?」
「倅から聞いているのではないか? 昔から、この家には獣が取り憑いている。さぁ、立つがよい、娘」
話を断ち切るかのようにリューコはそう言って、足を引き摺りながら、屋上の中程に進み出た。そして振り向く。
「……あ」
月光の下に立ったリューコの肌には、ティガールと同じような青い文様が浮かび上がっていたのだ。
「これを見たことがあるか?」
「は、はい。ご子息の肌の上にも見られました。その時に南方領主家の直系の男子にその世代に一人だけ、この紋様が継承されると伺いました。満月に近いほど強く現れるのだとか」
「あやつめ、余計なことまで喋りおって……」
領主の顔が忌々しそうにしかめられる。
「他言は一切しておりませぬ」
レイフェリアは強く言った。
「まぁ良い。この紋様は別に秘されておるわけではないのだ。月が出たら勝手に表れるものだからの。まぁ、進んで見せたりはしておらぬが」
「私にはとても……美しく見えます」
「……」
リューコは金色の目を酷く眇めてレイフェリアを見据えた。
昔はティガールに勝るとも劣らない美男だったのだろう。今も加齢と病でやつれてはいるが、妙な色気がある。そしてその身から発揮される威圧感は、内心ひやひやしているレイフェリアを圧倒していた。
「北の娘よ」
リューコはそのように呼びかけた。
「悪いが、倅の花嫁にそなたはふさわしくない」
「……」
「ゼントルム王は、倅にそなたを娶ったらどうだと勧めただけで、命じられてはいない。だから、私の眼鏡に叶わなかったとして、そなたを北方へ送り返すのに……一切の躊躇いはないぞよ」
「左様でございますか」
レイフェリアは落胆を顔に表すまいと懸命に堪えた。
「ですが、私のなにがいけないのでしょうか? 伺ってもよろしければ、聞いてみとうございます」
「何もいけなくはない。老いたる私の目から見てもそなたは美しいし、おそらく性質も善なる者なのだろう」
「ではなにが?」
食い下がるレイフェリアにリューコはあっさり言ってのけた。
「血だ」
「血?」
「そうだ、我が南方領主家後継の花嫁には、南方領主家の血を引いた女でなければならない。獣を従わせるために。そなたも喰われたくはなかろう」
「……喰われたりはしません」
「なに?」
今度はリューコが驚く番だった。金色の虹彩が大きくなる。
「獣はただの獣ではないでしょう。よほどのことがない限り人は襲わぬと思います」
「……なるほどの。美しい上に利口であるか、北の娘は」
「お褒めの言葉と承ります」
「無論である。だが、なぜそう思った?」
「ティガール卿が北方へ参られた折にも、私は偶然獣を見ております。獣は私を見ておりましたが、特に威嚇をされたり、危害を加えるようなことはなかったのです。もし害意があるのなら。私など一噛みで殺されていたと思います。獣は私を敵とは見なさなかった。少なくとも今のところは」
「ふむ」
「でも……その……噂で聞いた話では、かつて人に害をなした獣もいたとも伺っております……その獣と現在の獣が同じであるかどうかまではわかりませんが」
「ふん、噂でな。確かに、我が家には獣に関する噂が絶えない。真実に近いものから、出鱈目も含めてな」
「かつては人を襲ったというのは本当なのですか?」
「我らに害なす者がいたなら、そうなるであろうな」
「……」
「そなたにそのことを話したのは、あの愚かな若造だな。イェーツとか申したか」
「それは……私には是とも否とも言えません」
叔父を若造というと言うことは、どうやら二人には面識があるようだ。何か確執があったからこそ、イェーツは獣に襲われ、今でも南方を憎んでいる。しかし、どんな経緯があったのだろうか?
「まぁそうであろうよ。あの若造は私のことを憎んでおった。あ奴の性質から見て今でもそうだろう。まぁ私から見れば甚だ迷惑以外の何物でもないが。しかし、そう考えれば、そなたがここに送り込まれた訳も自ずから知れようというもの」
「……」
これはもうダメだと、レイフェリアは思った。叔父の浅はかな企みなど、初めからこの男には筒抜けだったのだ。
──仕方がないか。憎しみで目がくらんでしまった叔父上の浅慮に乗せられてしまった私も愚かだったのだ。でもこれで、私があの人の花嫁になることはもうないのだわ。
レイフェリアは唇をかんだ。次にティガールに会うときは、花嫁候補としてではないだろう。無意識に下がった視線の先にリューコの靴が見えた。
「……悟ったか。やはりそなたは利口な娘じゃ。そなたも会うたであろう、倅には又いとこのカラカを娶せる」
「……はい。でもあの……お願いが」
項垂れたまま、レイフェリアは勇気を振り絞った。
「申してみよ」
「誠に勝手ながら、私にも事情があって、もう北方……故郷へは戻れません。召使いで構いませんので、この城のどこかで使ってもらえませんか?」
「なに? 召使いだと?」
「はい。どうせ私は反逆の疑いを受け、自害して果てた父の娘として、故郷でも一人で暮らしてきました。私の最後の願いは、父の無実を国王陛下に訴えることだけです」
「そなたの父と言うと、エイフリーク殿か」
「はい。その為にも御領主様やティガール卿のご協力は欠かせません。どうか、この城の片隅においてくださいませ。なんなりとお役に立って見せますほどに」
「よかろう。ではそなたの働きを見極めてから考えるとする。だがもはや客人の扱いはならぬぞ」
「勿論構いませぬ。感謝いたします」
「では、今後のことはオセロットから聞くが良い。私が指示しておく故」
「わかりました」
リューコはこれで話は終わりだと言うように、背中を向けた。だが、ふと思い出したように振り返る。
「そなた、外壁を伝ってここに来たと言ったのう」
「はい」
リューコの瞳が面白そうに瞬く。
「して、どうやって去ぬる?」
「こちらからで」
そういうと、レイフェリアは後ろに飛び上がり、鋸壁の上にすたりと立った。
「ほほう」
「ではこれにて」
そのまま垂直に飛び降り闇に消える。リューコの目には、月光を宿した長い髪の残像が残った。
「くくくくく。これは面白い。いや面白い。これからが見ものであろうぞ。倅の奴が怒り狂うのが、目に見えるようじゃ。だが、ここは親の特権だな。せいぜい楽しませてもらうとしようかの。倅よ、ここは辛抱じゃ」
男はゆっくりと、出て来た塔へと歩み去った。
ようやく父ちゃん登場です。
てっちゃんもすぐに帰って来ます。




