26 カラカ
翌朝もよく晴れていた。
「いよいよ始まるのだわ……」
習慣であまり朝寝ができないレイフェリアは、一人で寝台から抜け出すと、窓際の椅子に膝を預けて外へと身を乗り出した。
南に面したこの部屋は二階にあるので、同じ高さの城壁の連なりと左に城門が見える。その下には城下の町が見えるはずだが、ここからでは赤い城壁に遮られて見えない。壁の向こうには広がる緑の草原と、ところどころにある森、そして無限の蒼天があるばかりだ。赤と緑と青の世界である。
吹き込む朝風はひんやりとしているが、寒くもなく起き抜けの肌に心地がいい。
春の朝に暖炉を使わないこの地はやはり南方なのだ。こんな気候は北方領土では夏にしか味わえない。
──ルーシーはまだ眠っているのかしら?
今まで宿泊した宿とは全く違う豪華な寝台は、麻の敷布の肌触りも良く、天蓋から掛けられた紗が柔らかく陽を遮って、起きたらすぐ動く性分のレイフェリアでさえ、しばらくその寝心地を楽しんでいたくらいなのだ。
ルーシーも元気なようでいて、なんだかんだと気疲れしているのだろう。
隣の部屋は静かだ。わざわざ起こすこともない。
窓辺から離れ、備え付けの水差しと盥で顔を洗ったレイフェリアは、自分で服を着る。令嬢としてふさわしくない行動かもしれないが、誰も見ていないから構わない。
荷物は昨夜届いたものをルーシーが片付けてくれた。しかし、箪笥には昨夜着たものと、以前ティガールからもらった衣装が二着、あとは持って着たアリーナのお古が数着しか入っていない。なんとも貧弱な衣装箪笥の中身である。長いこと着ていた男物の服はマヌルが洗濯に出してしまった。
レイフェリアは迷った末に、自分で直したお古の濃い緑の服を着ることにした。
この服も襟が詰まっているが、布はいくらか軽いものだし、飾りもなくて体の線を品よく出してくれる。自分の今の気持ちによく合うと思ったのだ。
服を着ると髪を整える。白っぽい金髪は結わずに梳るだけにする。腰までもある髪は、昨夜洗って髪油をすり込んでもらったので絹糸のような手触りだった。
贅沢にも大きな鏡が壁に備え付けてあるので半身を映すと、その中には目元に不安を漂わせながらも、きりりと眉と口の端をあげた北国の娘がこちらを見ていた。
──まぁまぁよ、レイ。今日は多分、あの人の身内に紹介されるのだから、しっかりしないと。
そう思って顎をついと挙げた途端、外に人の気配がする。
マヌルが来てくれたのだろうと、レイフェリアが自ら扉を開けると、そこには紅色の巻き毛の美しい少女が立っていた。
「あ……」
目も髪と似通った濃い桃色だ。レイフェリアの紫の瞳よりも赤色が強い珍しい色である。肌はこの地方の平均よりもやや白い。
「あら?」
少女は大きな瞳をくるくると回しながら首を傾げた。レイフェリアよりもかなり背が低く、しなやかな体にまとわりつく太陽のような黄色の衣を纏っていた。
──まるで薔薇の花のような娘さんだ……。
「あのえっと……あなたが北から来られたお客様?」
「はい、昨日このお城に到着しました。レイフェリアと申します」
そう言って。レイフェリアは北方風の腰を屈めるお辞儀をした。少女はまた小首を傾げた。癖なのだろう。
「ええ、知っています。ティグ兄様が夕べ、教えてくれたのよ」
「ティグ兄様?」
「あ……ごめんなさい。私ったら……その名前で呼ぶのは二人きりの時だけって言われてたのに……ティグ兄様というのは、このお城の後継ぎのティガール様のことなの」
少女は歌うように言った。
「もしかして……あなたはカラカ様?」
「まぁ、私を知ってらっしゃるの? ティグ兄様が私のこと、あなたに伝えてくれたのね? 嬉しい!」
「いえ、伺ったのはオセロットからです」
「ああ、オセロット。あのちょっと怖いおじいさんね」
オセロットが怖いなどと思ったことのないレイフェリアは、なんと答えて良いものかわからず、この小柄な美少女を眺めた。
「あのぅ……お部屋に入ってもいいですか?」
「……どうぞ」
「わぁ! このお部屋に入るのは初めてなのです……お客様のお部屋ってこんな感じなのねぇ。とても綺麗だわ! そう思わない?」
カラカは窓際の椅子に腰を下ろして言った。さっきまでレイフェリアが座っていたところだ。
「ええ、そうですね」
「私のお部屋は上にあるの」
「上って三階ですか?」
レイフェリアの知る限り、領主の身内に近かったり、身分が高いほど上層階に部屋が与えられる。それはこの少女がこの城での待遇がかなり良いということだった。
「そうなの。ティグ兄様のお部屋からもそう離れていないのよ」
「そうなのですか」
さもあろう、とレイフェリアは思った。この少女がティガールの花嫁候補として、この城で認められているのだろう。
「レイ……レイフェリア様って、美しいお名前ね」
「ありがとうございます。正式にはノーザン・レイフェリアです」
「私はエスティン・カラカ。カラカって呼んで。みんなそう呼ぶから」
「わかりました、カラカ様。じゃあ私のこともレイって呼んでください。このお城のことはまだよく知らないのです。よろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしく、あのぅ……レイ様。レイ様の着ているものは不思議な形ですね、それが北方の服なのですか?」
「そうですよ、こちらでは少し重苦しい色合いですね」
「不思議な緑色ですね。こちらではあまり見ない深い色あいです」
「木賊色と言うんです」
アリーナが嫌った地味な緑色の服だが、レイフェリアは好きな色で自分の髪がよく映えると思っていた。
「木賊ってなぁに?」
小首を傾げてカラカが尋ねる。
「植物の一種ですね」
「よく似合っていてよ。それにしてもレイ様、お背が高いのね? 私は小さいから羨ましいわ。南は大きな人が多いので、私はとても目立つの。西の血を引いているせいかもしれないけれど、母も大きいのに。でもティグ兄様は小さいほうが可愛いっていってくれるの。ふふ」
「北方では私も小さいほうでした」
レイフェリアも相槌を打った。北の人間は大柄ではないが、すらりとした体形が多い。レイフェリアは母が小柄だったせいで、それほど背は高くないのだ。
「あの……レイ様?」
どうやら「あの」と呼びかけるのが、この少女の口癖のようだった。可愛らしく儚げなこの少女にふさわしい。
──だけど、遠回しに私を牽制しているのね。アーリアみたいに意地悪ではなさそうだけど、自分の魅力をよくわかっているみたい。
「なんですか?」
「レイ様は、ティグ兄様に連れてこられたの?」
「そうです。私が住んでいたところにティガール様が迎えに来たの」
「そうなの。出立前に兄様も話してくれたの。王様に言われて遠くまで旅をすることになったから、留守を頼んだぞって」
──王様に言われて……確かにそれはその通りね。ティガール様は私を連れに行くことを、こんな風にこの子に話していたんだ。
「ええ、確かに遠かったですわ。ほとんど一ヶ月もかかってしまって……途中で盗賊も出たし」
「盗賊? まぁ恐い!」
「でも、ティガール様やヒューマたちが追っ払ってくれたから、滞在していた村のみんなに怪我はなかったのです」
「そうよね! ティグ兄様は南方一の戦士なの!」
「ええ……皆さん、とてもお強かったですわ」
「そのお話、もっと聞きたいわ!」
カラカはすっかり寛いでいる。
「そうですね。でも、私は話が下手なので、オセロットかヒューマにしてもらえばいいですわ。それか……ティガール様ご自身か」
「そうね。ティグ兄様は私のこともいつも守ってくれるの。それだから、私たちは私が十五になったら、結婚すると言われていたのです」
「……そうでしたか」
「……でも、レイ様もお兄様の花嫁候補なんですよね? 実は少しだけお話を聞いてしまって……私」
カラカは不意に言葉を詰まらせた。
「まぁ、そうですが、まだ決まってはいないと思います」
「レイ様は、ティグ兄様のことがお好きなの?」
「……ご立派なお方だと思います」
「私……私はティグ兄様のことがずっと前から好き! 大好きなの! だから……ごめんなさい。わざわざ遠いところから来てくださって悪いのだけれど、私が兄様のお嫁様になりたいの」
「まぁ」
──やっと本音を言えたわね。これから大好きなティグ兄様の話を何回も聞かされることになるのね。でも素直なところは認めなくっちゃいけないわ。きっと、私よりも性格が可愛いのだろう。
「こんなこと言ってごめんなさい。だからできれば花嫁候補は私だけになりたいの……ごめんなさい」
「……カラカ様のお気持ちはわかります。私はまだティガール様とは会ったばかりですし。これから先のことはよくわからないのです。だから今はなんともお答えできません」
「そう……なの?」
「ええ。私にも立場があって、残念ながら、すぐには帰れないと思います」
「そうか……そうよね。だって王様のご推挙ですものね」
「……」
「でも、レイ様がお話のできる方でよかったわ! あのぅ……レイ姉様ってお呼びしてもいい? 私、以前からお姉さまが欲しかったの」
「……いいですよ」
やや複雑な心境ながら、断るのも大人気ないと思ってレイフェリアは頷いた。その時、軽いノックの音がしてマヌルが入って来る。
「レイフェリア様、おはようございます……あら?」
「おはよう、マヌル」
「これはこれはカラカ様、どうしてこちらに?」
「お客様にお会いしたかったの。私たちすっかり仲良しになってよ」
「……左様でございましたか。ですがレイフェリア様は昨日お着きになったばかりでお疲れです。それに、淑女はこんなに早朝からよその部屋に参りませんよ」
カラカへの非難を匂わせてマヌルが、朝食の盆を置いた。
「レイフェリア様はゆっくりお休みになられましたか?」
「ええ、とても寝心地の良い寝台だったわ。でもルーシーはまだ眠っているようね」
「まぁ、起こして来ましょう」
「いいえ、マヌルが来たから大丈夫。もう少し眠らせてやって」
「わかりました。ではお食事のご用意をいたしますね」
「ありがとう」
マヌルはてきぱきと盆から皿や杯を並べる。小さな鍋の蓋を開けると、乳で煮込まれたような穀物の粥が入っていた。干した果物も添えられている。
「レイ姉様、朝早くからごめんなさい。ご朝食のお邪魔はいたしません、ゆっくり召し上がってね。私は兄様と食べて来ます! ではまた遊びに来るわね!」
そう言うと、カラカは来た時と同じように軽やかに飛び出して行った。
「すみません、レイフェリア様。あの方はああいうお方なのです」
「気にしないわ。とても可愛らしいお方だと思います。まだとてもお若いし」
「お……おはようございます!」
その時、大慌てで身支度をしたようなルーシーが駆け込んで来た。
「すみません! 寝坊してしまいました!」
「気にしなくていいのよ、一緒に朝食を取りましょうか?」
「レイフェリア様、おわかりになると思いますが、貴婦人は使用人と一緒に食事をとってはなりません。城の者に軽く見られます」
マヌルはすまなそうに二人に向かって言った。
「ああ、そうだったわね。ごめんなさい、ルーシー」
「そんなの当たり前ですわ。私達の食事は別に用意されておりますし。今はお給仕に徹します。こちらの果汁をどうぞ!」
「ありがとう、とても美味しいわ。ここではたくさんの果物が取れるのね」
「はい。いつか果樹園もご案内いたしますわ」
「それは楽しみね。薬草園もあるのかしら」
「はい。私は入ったことはございませんが」
レイフェリアは薬草に興味を持っている。いつか行ってみたいと思った。ティガールに聞けばいいのだろうか?
そうしているうちに朝食が済んでしまう。
「ごちそうさま。しばらく本でも読んでいるわ」
「では、ルーシーと一旦下がらせていただきます。あとでお召替えの服をお持ちしますね」
レイフェリアは本には目もくれず再び窓辺に立った。書物はいくらも持って来ていないし、全て暗記するほど読んでいる。そのうち図書室にも案内してもらおうとぼんやり考えた。
朝早くは涼しかったのに、今は太陽が昇ってぬるい風が吹き込んで来ている。あたりの風景の色合いはますまず鮮やかな色合いに変化していた。
──どうにも手持ち無沙汰だわね……。
することがないと言うのはあまり性に合わない。いっそ自分で図書室を探しに行ってみようか、レイフェリアがそう考えた時。
「入っていいか?」
扉の外から聞こえて来たのはティガールの声だった。
読んでいただける方に、色や映像を感じていただけるように書きました。
お気に召していただけたら嬉しいのですが。
新キャラのカラカちゃんはどうですか? 正直なご意見を伺いたいですvv




