20 襲撃
二人揃って屋外に出ると、春の宵は意外に早く、既に陽は遠くの山並みに引っかかっていた。あと少しで小さな村は宵闇に包まれるだろう。
「……それで話というのは?」
男の声が少し弱いのは気のせいだろうか。
「はい。別にだめならいいのですが、動けない馬車の旅に少し気持ちが塞いできたので、その……できたら少しの間だけでも馬に乗せてもらえないかと」
村には灯りが灯り始めている。街道から人がぽつりぽつりとこちらに向かってやって来るのは、村の外にある畑や仕事場からの帰りだろう。そんな村人たちが遠巻きに眺める中、二人は村を囲む石を積んだ壁の近くまでやってきた。大通りとも言えないような村を突き抜ける道の終わりはすぐそこだ。終着点が村の入り口だった。
「馬か……構わない」
「え?」
わがままだと言われるかと思った願いが、なんともあっさり叶えられたことに、レイフェリアは思わず声をあげる。しかし、ティガールと目が合うことはなかった。彼は所在なさげに地面を見つめていたのだ。
「本当にいいのですか?」
「あなたはそれで気がすむのか?」
派手な男はわずかに視線を流して問うた。
「もちろんです!」
「では陽の高い間だけなら」
「ありがとうございます!」
大きな南の馬に慣れるのにしばらくかかるかもしれないが、彼と轡を並べて馬を馭せたなら、これから先の話を詳しく聞けるかもしれない、レイフェリアは期待した。ティガールの様子がなんとなく悄然としているのがやや気になるが、この男の態度はいつも不可思議なものばかりだったから、そこは知らんぷりをすることにした。
決意を秘めて故郷を出てきたとはいえ、先の見通しが全くつかないことに少々不安を覚え始めていたのだ。
何しろ、個人的な話が全くできていなかった。ティガール達は今までの宿でも、一番いい部屋を女二人に当てがうと、自分たちは一部屋だけを取り、交代で外回りをして寝ずの番をするという有様だったのだ。
『平気です。このくらいのことで我々は参ったりしませんよ。生国での教練の方がよっぽど厳しいくらいで』
レイフェリアが部屋で休むように言っても、ヒューマはなんでもないことのように笑い飛ばしていたのだ。
「では、明日からでもいいですか?」
「ああ。予備の馬に鞍をつけておく」
「楽しみです」
レイフェリアは急に緊張している自分を感じながら頷いた。
いつの間にかすっかり陽は山並みに沈み、反対側から針のような月が顔を出しはじめていた。
──その時。
「レイ──レイフェリア、すぐに宿に戻れ」
「え?」
急に低くなった声に驚いたレイフェリアの目に映った男の顔。
それはつい今までの元気のないものではなかった。
彼は金色の目を爛々と光らせながら、街道の向こうを見つめている。だが、そこにはただの物寂しい国境の草原が広がるばかりだ。
「なに……なんですか?」
「いいからすぐに戻るんだ! それからヒューマたちに武器を持ってすぐにここに来るように伝えてくれ。さぁ、走れ! フェリア!」
それ以上聞かずにレイフェリアは身を翻した。初めて感じたティガールの張り詰めた顔と声。
──名、名を?
それは初めて呼ばれた自分の名前。
しかし、今はそんな感慨に浸る余裕はなかった。
一瞬だけ振り返った街道の向こう、はるか荒野の奥から何かがやって来るのが見えたのだ。
レイフェリアから知らせを受けたオセロットとヒューマ、そして御者の男ジャグの行動は早かった。
彼らはすぐに武器を取ると、家のものに絶対に外に出るなと厳命し、外に飛び出して行った。しばらくすると、何人かの村人が村長宅にやって来る。どうやら彼らは村の入り口近くの住人らしい。訳を聞くと、見知らぬ男たちに賊がやって来るから、村の奥に逃げろと命じられたと言っていた。オセロットたちの指示だろう。
「賊ですって、レイ様」
「大丈夫でしょうか?」
村長夫人も竦み上がっている。
「大丈夫、落ち着きましょうルーシー。奥様、この村には野盗が襲って来ることがあるの?」
レイフェリアは怯える夫人に尋ねた。もしそうなら、さっき見た低い石塀は、なんとも心もとない守りだと思ったのだ。
「いいえ、ここはこんなに小さな村ですし、ちょうど真国と東と南の国境の端っこで、大きな街道からも少し離れているので今までは何事も」
それはそうだろう、とレイフェリアは思った。ゼントルム王になってから国境の治安は改善していると聞く。しかし、いつの世の中でも、無頼の輩はいるものだ。大きな村や商隊は警備のものが守りを固めているため、彼らは食い詰めてこんな小さな集落を襲うようになったのかもしれない。
「騎士様たちが飛び出して行かれたようですが、たった四人です。大丈夫でしょうか?」
村長宅の広間は避難してきた村人で溢れかえっている。もしティガールたちが突破され、ここに襲いかかられたら、全員ひとたまりもないだろう。
「賊……野盗は何人くらいいるの?」
レイフェリアは子供の手を引き、赤ん坊を抱いている主婦に尋ねた。
「慌てて逃げ出してきたので確かな数はわかりません。でも、少なくとも十頭くらいの馬の足音が響いてきたんです。だから万が一……」
ティガール達が斃されてしまえば、という言葉をその村人は飲み込んだようだ。恐ろしくて口にできないのだろう。
「わ、私の家には足の悪い母がまだ残っていて……ああ! お嬢様!」
「私、見て来るわ。家はどこ?」
取り乱す主婦にレイフェリアは頷いた。
「壁のすぐ近くの赤い煙突の家です。でも……」
「レイ様! おやめくださいまし!」
「大丈夫よ、ルーシー。私には特技があるの。赤い煙突の家ね。お母様をなんとか連れ出すわ」
「と、特技? あっ! レイ様!」
ルーシーが止める間もなく、レイフェリアは駆け出していた。彼女にはうまく身を隠せる自信があったのだ。
「やっ」
村長宅から出ると、まず一番近い家の屋根に跳び乗る。
跳躍力。
これだけが北方領主家直系のレイフェリアの自慢だ。古き伝説では祖先は鷹の王から能力をもらったと聞く。膝を軽く屈めただけで五リールは跳べるのだ。レイフェリアは家の屋根伝いに村の入口へと向かった。
赤い煙突のある家は、入り口にほど近いところに建っていた。その煙突の陰にレイフェリアは身を潜め、下の様子を窺う。
確かめるまでもなかった。村の石塀の外。そこでは戦いとも呼べないような一方的な戦闘が繰り広げられていたのだ。
「こ……これは?」
草の生えた屋根越しに見下ろす眼下の騒乱。
野盗の数は十二、三人もいただろうか。いずれも騎馬だ。いや、騎馬だったのだろう。
だが今、馬上にいる者は半分もいない。いずれも引き摺り下ろされて地面に伸びている。この短時間に一体どうなってしまったのだろうか?
その答えはすぐにわかった。
振り下ろされる賊の剣を掻い潜って男たちは地面を蹴る。そして騎乗している相手の首根っこを掴むと、そのまま向こう側に飛び下りるのだ。喉笛を押さえ込まれ、突き落とされた男達は、頭をしたたかにぶつけているから殆ど気を失っている。そこへ拳を叩き込まれるのだから、たまらずそのまま地面に伸びているという訳だ。一人倒すのに瞬き三回で済むだろう。そして四回目の瞬きでは戦士は次の相手へ跳び掛っている。
そしてティガールは恐ろしく強かった。彼は走る馬の背に苦もなくひらりと飛び降りると、容赦無く長い足で蹴り落とす。蹴られた男は他の騎馬に命中し、一蹴りで二人の男がやっつけられてしまうのだ。狙った獲物を確実に倒す、俊敏で無駄のない動き。
──これは……まるで相手にならない。
南の男達は剣すら抜いていないのだ。まさに一撃必殺の体術である。
「うわあぁ!」
また一人、賊が沈んだ。地面に転がりながら懸命に叫ぶ。
「なんなんだお前ら!」
「さぁて、なんでしょうねぇ。そぉら!」
ヒューマが上機嫌で止めの拳をお見舞いする。
「ぐぶぁ!」
蛙のような苦鳴をあげて、男が失神した。
一行の中では年配のように見えたオセロットも、実に優美な動きで敵を次々に仕留めて行く。レイフェリアの見ている前で、賊は次々に倒れていった。
「ひいぃ!」
堪らず、馬を駆って逃げ出す男が数名。
その中で一番大柄な男の背中に飛びかかったのは、ティガールである。彼は長い腕を伸ばして逃げる男のベルトを掴むと、思い切りよく鞍から投げ飛ばした。投げられた男は軽く五リールは飛んだだろうか?それはレイフェリアの鼻先まで飛んできて、屋根の切妻にぶつかるとそのまま下に落下した。男はピクリとも動かない。衝撃で失神したのだろう。
「……」
あれほど騒がしかった眼下は今や静まり返っている。数を頼んでいたであろう賊のほとんどが叩きのめされていた。逃げおおせたものは一人もいない思われる。
レイフェリアが屋根からひょいと顔を出すと、そこには思いがけず怒ったティガールの顔があった。彼はいつの間にかこの家の庇の真下に立っていたのだ。
「戻れと俺は言った!」
言った瞬間ティガールは、すたりとレイフェリアの前に立った。予備動作も何もない静かな、そして見事な跳躍だった。
「……っきゃ!」
こんな跳躍は自分にもできない。レイフェリアは驚きと恐れで気持ちが竦んた。けれど、怯む姿を見せたくなくて唇を引き結ぶ。これは一体なんの意地なのだろう?
「私は……」
「あなたはなぜここにいる⁉︎」
ティガールが怒っている。いつの間にか辺りはすっかり暗くなっていた。月を背に彼は佇立していた。
「ジャグ、お前はすぐに近くの町に走って守備隊を来させろ。あとの二人はこいつらを縛り上げ、交代で見張れ」
彼の言葉に御者はすぐに馬の元に走り、ヒューマとオセロットは、近くの家から荒縄を失敬して意識のない野盗を縛り上げに掛かった。皆無言で主の命に従う。
「まだ答えを聞いてない」
レイフェリアが黙ったまま後退ったのを見て、ティガールはすぐに間を詰めた。
「すみません。どうしてもこの家の様子が気になったものですから」
「なぜ」
「避難してきた村人の母上がこの家にまだ残っているようで、私が助け出すと言ったのです」
どんどん屋根の端に追い詰められるのを挽回しようと、レイフェリアは腹に力を込めて言い返した。
──そうよ。私は足の悪いご婦人をお助けしようとしたのよ。断じて、戦いの様子を見にきたわけではないわ。なにも悪いことはしてない。
「だから、今から様子を見に行ってきます」
そう言ってティガールを見据えたまま、レイフェリアは屋根の端からするりと飛び降りた。しかし、地面の感触が足に伝わる前に太い腕が腰に巻きつき、男の体ごしに接地の感覚を味わう羽目になった。
ティガールが空中で彼女を抱きとめたのである。その着地は音もなく、なんの衝撃も感じないほど滑らかだった。
「なにをしますか!」
「こちらの台詞だ! なんで急に落ちる!」
「落ちたのではないわ! 降りたのです!」
「女は普通そんなことできない!」
「私はできるんです! うちの家の特技なの!」
──隔世なのだけども。
がっしりと抱きしめられていることに気がつかないまま、レイフェリアは口答えを繰り返した。
「特技?」
「特技です」
「……」
ティガールは信じられないという風に、金色の目を見張っている。家の影になって、それは淡い光を放っていた。
「わっ! 下ろして!」
ようやく密着している体に気がついてレイフェリアは焦った。黄金の光がひときわ大きくなったかと思うと、次の瞬間につま先がそっと地面に下される。
「……フェリア、レイフェリア」
「……」
「俺は……肝をつぶした」
くっついていた体を離すと、なんとも言えない冷たい空気と気まずさが二人の間に流れる。それを意識しないように、レイフェリアは振り向きざまに窓から家の中を覗き込んだ。
「誰かおられますか?」
弱い応えがあったようだ。
「もう大丈夫ですよ! お婆様、お迎えにあがりました!」
気恥ずかしさを誤魔化すために張り上げた声は、妙にうわずっている。
「さぁ、ご家族の元に参りましょう」
よちよちと出てきた老婆に、空々しい程明るい声をかける。さっき抱かれた時の肌の感触を振り払うように、ぴったりと彼女に寄り添い、レイフェリアは歩き始めた。
振り向いたときに、月が屋根の端にちらりと見え、隣に立つ男の目と肌が不思議に輝くのがわかった。